溺れる 夢を見ていた。
灰色の床が広がる運動施設に、何人かの子供たちが集められている。子供たちは床に腰を下ろし、足を抱え込むような姿勢で座っていた。全員が体操着に身を包み、シャツをズボンの中に入れている。前にはジャージ姿の男がいて、彼らの姿を見つめていた。
「では、二人一組になってください」
男が、にこやかな笑顔で子供たちに声をかける。座っていた子供たちが、一斉に立ち上がって歩き始める。彼らは思い思いに友人の元を尋ね、ペアを作っては腰を下ろした。
その様子を、少年は後ろから眺めていた。子供たちは次々にペアを成立させ、床の上に座っていく。残された一部の子供たちも、少年の姿をちらりと見ると、渋々といった様子でペアを作った。全ての子供が座り、少年だけが取り残される。ぽつんと佇む少年を見て、男は子供たちに声をかけた。
「誰か、✕✕✕を入れてくれるチームはいないか?」
子供たちが、黙って顔を見合わせる。しばらくすると、そのうちの一人が声を上げた。
「嫌です」
「そんなこと言わないでさ。クラスの仲間だろ」
男が諭すように言うと、子供たちは一斉に目を逸らした。ざわざわとざわめくと口々に反論する。
「仲間じゃありません」
「人殺しなんて、仲間じゃありません」
少年は駆け出していた。両手で扉を押し開けると、建物の中を疾走する。出入り口に辿り着くと、上履きのまま外へと飛び出した。砂の敷き詰められたグラウンドを走り、自分の家を目指して駆け抜ける。顔を上げることが怖くて、視線は下に下げられたままだ。町中の人々が、自分の噂をしているみたいだった。
家の庭では、母親が花に水をやっていた。赤色の大きなじょうろが、柔らかい水を土の上に吐き出している。彼女は、少年の姿に気がつくと、にこりと笑って言った。
「おかえり、×××。早かったわね」
その言葉を聞いて、少年はようやく安心した。泣きそうな顔で笑うと、言葉を返そうとする。ようやく口を開きかけた時に、母親が表情を失った。
「違う」
冷たい声が、少年の心臓に突き刺さる。そこには、一切の感情が含まれていなかった。冷ややかな声を発すると、母親は少年に言葉を突きつける。それは、彼が一番恐れている言葉だった。
「人殺しなんて、私の子供じゃないわ」
目を開けると、そこは青年の部屋の中だった。柔らかいベッドと、熱の籠った布団が、優しくルチアーノの身体を包み込んでいる。布団の隙間から顔を出すと、大きく深呼吸をした。
変な夢を見た。子供たちの言葉は妙に生々しくて、彼の心を締め付けた。心臓は早鐘のように鳴り響き、息が苦しくなる。彼は、学校なんて通ったことがないし、両親だっていないのだ。使命を咎めるような存在なんて、この世にはいないはずなのに。
呼吸が落ち着くと、ルチアーノは隣に視線を向けた。そこには、恋人である青年が眠っているはずである。彼は特異な人間で、ルチアーノが甘えれば理由も聞かずに受け入れてくれた。彼の温もりに触れると、ルチアーノは安心できるのだ。
しかし、そこに青年の姿はなかった。脱け殻のような布団だけが、寂しげに取り残されている。布団の中には人型の隙間が空いていて、仄かに温もりが残っていた。ついさっきまで、ここで眠っていたようだ。
ルチアーノは不安になった。青年は、いったいどこに行ったのだろうか。こんな夜中に向かう場所なんて、常識的に考えれば存在しない。そもそも、この青年は夜中に出かけるような性格ではないのだ。
もしかしたらと考えて、ルチアーノは小さく息を飲む。あの青年は、彼から逃れるために家を出ていったのではないだろうか。人間の価値観で評価すれば、彼は人殺し以外の何物でもないのだ。さっきまで見ていた夢も相まって、悪い方向にばかり考えてしまう。
ルチアーノは布団から這い出した。暗視機能を稼働すると、青年の姿を探しながら部屋から出る。不安に胸を覆われて、そうせずにはいられなかったのだ。通路の隅からは、ほんのりと灯りが見えていた。どうやら、目的の人物はリビングにいるらしい。部屋の扉を開けると、首を回して室内を見渡した。
灯りがついていたのは、キッチンだった。彼の探していた青年が、冷蔵庫を開けていたのである。ほんのりと漏れる光は暗闇のリビングを照らし、廊下まで流れていたのだ。冷蔵庫のドアが閉まると、部屋は再び暗闇に包まれた。
ルチアーノは、青年の背後に近づいた。音も立てずににじり寄ると、黙ってその背中に抱きつく。青年が、驚いたように硬直した。
「わっ!…………なんだ、ルチアーノか」
「……こんなところで何してるんだよ」
思っていたよりも覇気の無い声になって、ルチアーノは自分に辟易する。自分は、いつの間にこれほど弱くなってしまったのだろう。ひと月も前の彼であれば、一人の夜も怖い夢も、恐れることなどなかったのに。
「ちょっと、トイレに行きたくなっちゃって。ついでに水を飲んでたんだ」
気づいているのかいないのか、青年は態度を変えずに言葉を返した。彼のそんな性格が、ルチアーノは嫌いではない。秘密を抱える彼にとって、深入りされないことは何よりも重要だったのだ。
「急にいなくなったら心配するだろ。一言くらい声をかけろよ」
「だって、ルチアーノは寝てたから。起こしちゃうのも悪いでしょ」
「それはそうだけどさ……」
話を続けながら、青年は手に持っていたコップをシンクに置いた。その後ろを、ルチアーノがぴったりとくっついたままついていく。廊下を歩き、部屋の中に入るまで、彼は青年の背後から離れなかった。
ベッドの前に着くと、ルチアーノは黙って手を離した。青年の後に続いて、布団の中に潜り込んでいく。シーツの上で向かい合うと、青年は静かに両腕を開いた。
「ルチアーノ、おいで」
青年の言葉に、ルチアーノは頬を膨らました。拗ねたように視線を逸らすと、小さな声で答える。
「そういうの、やめろよ。格下扱いされてるみたいで不快だ」
「ごめん。じゃあ、言い方を変えるね。…………ぎゅっとしてもいいかな?」
「好きにしろよ」
短い会話を交わすと、青年はルチアーノの背中に腕を回した。二回りは小さいその身体を、お腹に抱え込むように抱き締める。青年の胸に顔を埋めると、ルチアーノも腕を伸ばした。
青年の腕の中で、彼は静かに涙を流した。泣きたくはないのに、瞳から熱い水が溢れて、なかなか止まってくれなかったのだ。鼻を啜り、身体を震わせながら、彼は悲しみを吐き出した。
「ごめんね。心配させちゃったね。もう、大丈夫だからね」
優しい声で囁きながら、青年はルチアーノの背中を撫でる。その温もりに安心している自分に気がついて、彼はまた辟易した。
「別に、そんなんじゃ、ないよ」
強がる声は鼻声で、うまく言葉にならなかった。慈しむような手つきで、青年はルチアーノの身体を撫でている。子供のような扱いをされているのに、それが妙に心地よかった。
「大丈夫だよ。僕は、ルチアーノのことを嫌いになったりはしないし、置いていったりもしない。だから、ルチアーノも僕を置いていかないでね」
「分かってるよ」
「約束だよ」
青年の言葉は、真っ直ぐにルチアーノの耳に届いた。叶うはずもない約束を、青年は本気で信じている。こんなにも滑稽な姿なのに、彼には笑うことができなかったのだ。
この青年は、どこまでも優しいのだ。ルチアーノに寄り添い、その孤独を癒してくれる、この世で唯一の存在だ。青年を失うことは、彼にとって、拠り所を失うことに匹敵するのだろう。
溺れている。その優しさに、温もりに。依存している、その温かい心に。一時的に利用して、すぐに捨てるはずだったただの人間は、いつの間にか、失うことのできない存在になっていた。
青年が、ルチアーノの頭を撫でた。海のように広い優しさが、再び彼の身体を包み込む。温もりの渦に身を任せるように、彼はそっと瞳を閉じた。