猫「なあ、君。これを飲んでくれないかい?」
夕食を終えると、ルチアーノは僕にそう言った。にやにやと笑みを浮かべながら、液体の入ったグラスを差し出す。そこには、炭酸を含んだ
薄黄色の液体がしゅわしゅわと泡を立てていた。いかにも怪しげな佇まいに、ついつい眉が歪んでしまう。
「嫌だよ。そんな怪しいもの。また、この前みたいなひどい目に遭うかもしれないし」
さすがに、僕も厳しい言葉を返すしかなかった。ルチアーノの差し出してくる飲み物には、苦い思い出があったのだ。迂闊に口にしては、どんな目に遭うか分からなかった。
「断るつもりかい? だったら、セキュリティに君との関係をバラしてやろうかな。未成年淫行をしてるって知ったら、やつらは放っておかないだろ」
にやにやと笑いながら、彼は定番の言葉を吐く。『未成年淫行』は、彼の脅しの常套手段だ。僕を牽制したいことがある時に、よくこの言葉を使うのである。
「ルチアーノは子供じゃないんでしょ。……というか、そこまでして飲んでほしいの? 余計に怪しいよ」
ここまで食い下がると言うことは、彼にはこの液体を飲ませたい理由があるのだろう。前のことがあるから、僕としては絶対に避けたい。様子を窺っていると、彼はくすくすと笑い声を上げた。
「前とは違うから安心しなよ。変な意味で元気になったりはしないぜ。まあ、変なことは起きるけどな」
「変なことが起きるって知って、飲むわけないでしょ」
無視して片付けようとするが、無理矢理手を捕まれてしまった。
「飲むまで、この手は離さないからな。観念しろよ」
そこまでされたら、黙って受け入れるしかなかった。元から、選択肢など無いも同然なのだ。
「分かったよ。飲めばいいんでしょ」
グラスを手に取ると、一気に中身を飲み込んだ。ジュースのように甘ったるい液体が、ぱちぱちと口の中で弾けていく。心配していたが、変な味はしなかった。
「飲んだな。ほら、動いていいぞ」
満足したのか、ルチアーノは興味を失ったように僕を解放する。目的は達成したと言わんばかりの態度だった。
「で、これ、何だったの?」
食器をシンクに運びながら、僕はルチアーノに声をかける。罠だと知りながら口にしているのだ。何を飲まされたのか、気になって仕方ない。しかし、彼に簡単に教える気はないようで、笑みを含んだ声が返ってきた。
「そんなに焦らなくても、そのうち分かるぜ」
こうなったら、絶対に教えてはくれないだろう。不安になりながらも、食器を洗って入浴の準備をする。お風呂のスイッチを押してリビングに戻ると、机の上に雑誌が広げられていた。
動物特集の記事らしく、紙面には猫の写真が載っている。ルチアーノは、あまり動物に興味がないはずだ。多少の珍しさを感じながらも、ページを閉じて机の隅に寄せた。
異変が起きたのは、それから二十分ほど経った頃だった。お風呂のお湯張りが終わって、ルチアーノに声をかけようとしたときに、その現象は起きたのだ。明確に話し合ったわけではないのだが、この家では一番風呂に入るのはルチアーノという暗黙の了解がある。彼に知らせようとして、僕は口を開いた。
「お風呂入ったよ……にゃっ」
口からついた言葉に、自分でびっくりしてしまった。今、僕はなんと言ったのだろう。予想もしないような珍妙な語尾が飛び出した気がした。
「今の、なに…………にゃっ!」
再びおかしな語尾がついて、僕は慌てて口を塞ぐ。ルチアーノがソファから立ち上がると、満面の笑みならぬ満面のにやけ顔で僕を見た。
「どうやら、薬はちゃんと効いたようだな。君が単純なやつで良かったよ」
その一言で、僕は全てを察した。真っ直ぐにルチアーノを見つめると、抗議の声を上げようとする。
「もしかして、あの飲み物のせい…………にゃっ!」
またしても語尾がついてしまって、僕は悔しさに唇を噛んだ。今の僕は、何を言おうとしても語尾に『にゃ』がついてしまう。怒ったところで、覇気なんて微塵にも無かった。
「そうだよ。あの薬には、人間を暗示にかけやすくする成分が入ってるんだ。今の君は、猫になりきってしまうだろうね」
「もしかして、机の上に置いてあった雑誌も…………にゃっ!」
「あれも、君に猫の暗示をかけるための道具だったのさ。……まあ、こんなに上手くいくとは思わなかったけどね」
にやにやと笑いながら、ルチアーノは部屋から出ていった。いつも通りお風呂に入るつもりなのだろう。そんな彼の姿を見送ってから、僕は途方に暮れた。
彼の言う通り、今の僕は猫になりきっているのだろう。何を言っても語尾に『にゃ』がついてしまうから、まともに話すことができない。お風呂から上がったら、ルチアーノは僕に会話を求めて来るだろう。そうなったら、おもちゃにされるのは確実だった。
語尾が直ることはないまま、時間は刻一刻と過ぎていく。しばらくすると、髪をタオルで巻いたルチアーノが、軽い足取りで部屋に入ってきた。僕をからかうのが楽しみで、髪も乾かさずに出てきたらしい。この時ばかりは、本当に意地悪なやつだと思った。
「上がったぜ。風呂に行きなよ」
「…………」
ルチアーノに言われ、僕は無言のまま立ち上がる。今、声を上げたら、確実に語尾が猫になってしまうだろう。
「おい、何か言えよ」
そのまま部屋を出ようとしたら、後ろから声をかけられた。せっかく用意したおもちゃなのだ。逃がすつもりはないのだろう。悔しいが、口を開くしかなさそうだった。
「にゃあ」
鳴き声だけを返すと、部屋を出て浴室へと向かった。あまりいい態度ではないが、これも仕方ない。元々は、ルチアーノのいたずらがきっかけなのだから。
「おい」
「聞いてるのか?」
「何か言えよ」
「返事しろって」
隣からは、畳み掛けるようにルチアーノの声が聞こえてくる。これ以上聞きたくなくて、僕は両の耳を塞いだ。何回催促されたとしても、一言も喋るつもりはない。今の僕は、何を言っても語尾が猫になってしまうのだから。
「おい、無視すんなって!」
勢いよく突き飛ばされて、僕はベッドの上に倒れ込んだ。
「何するの…………にゃっ!」
「お前が無視するからだろ。上司の言葉を無視するなんて、部下としての自覚が足りないんじゃないのかい?」
「それは、ルチアーノが変なことするからでしょ…………にゃっ!」
僕が怒鳴る度に、頭の上で猫耳の形をした機械がウインウインと音を立てる。妙に重たい謎のアイテムは、ルチアーノに無理矢理つけられたものだった。猫になるなら耳を着けないとなどと言われ、強引な力業で押し付けられたのだ。この猫耳は、装着者の脳波を解析して、感情に合わせて動くらしい。これのせいで、今の僕は滑稽な姿をしていた。
「別に、変なことはしてないぜ。君の語尾がかわいくなるように、ちょっと暗示をかけてあげただけだ」
「それが変なことなんだよ……にゃっ!」
喋る度に、耳はウインウインと音を立てる。羞恥に頬を染めると、余計に動きは激しくなった。僕を押し倒すような形で、ルチアーノは僕の両手に体重をかける。耳元に口を近づけると、囁くような声で言った。
「僕に耳が生えたときは散々おもちゃにしたくせに、自分だけ逃れようって魂胆かよ。そうはいかないぜ」
薄々感じてはいたが、あの時のことを気にしていたみたいだった。ルチアーノに猫の耳が生えたとき、僕は散々彼を可愛がったのだ。僕にとっては甘い思い出だけど、彼には恥ずかしいものだったらしい。今になって、当時の彼がどんな気持ちだったのかを理解した。
「別に、そういうつもりじゃ…………にゃい…………」
答える声も、語尾によって間抜けになってしまっている。居たたまれなくなって、熱くなった顔を両手で覆い隠した。
「だったら、どういうつもりだったんだよ」
「それは、ただ、かわいいにゃって……」
「それがおもちゃにするってことじゃないのかい? これは、同じ目に遭わないと分からないみたいだね」
くすくすと笑うと、ルチアーノは僕の頭を撫でる。頭の上で、猫耳を模した機械が音を立てた。
「口では嫌がってても、耳は素直だな。こうされるのが好きなんだろ」
にやにやと笑みを浮かべながら、わしゃわしゃと僕の髪を掻き分ける。恥ずかしいのに興奮してしまって、頬が燃えるように熱くなった。顔を背けると、今度は空いている手でお腹を撫でられる。猫の暗示にかかっているからか、いつもよりも心地よく感じてしまった。
「ルチアーノ……やめて…………にゃっ!」
ふわふわとする頭で、必死に抵抗を試みようとする。快楽に溶け始めた身体は、少しも言うことを聞いてくれなかった。愛撫を引き剥がそうと伸ばした手のひらも、力無く腕を掴むだけだ。
「今夜は、たくさん可愛がってやるからな。覚悟しろよ、猫ちゃん」
楽しそうに笑いながら、ルチアーノは低い声で言う。それは、悪魔の囁きのように聞こえたのだった。