昔の話2 目が覚めると、薄い布団の中にいた。人間の話し声やバタバタとした足音が、遥か遠くから聞こえてくる。まだ身体は重かったが、二度寝する気にはならなくて、ゆっくりとその場に身体を起こした。
目の前に広がる光景を見て、僕は言葉を失った。そこは、煉瓦で作られた建物の一室だったのだ。壁際には机と椅子だけが並べられ、それ以外の家具はベッドしか置かれていない。そのベッドも、固いマットレスに薄い布団という粗末なものだった。
僕は、ゆっくりと部屋から抜け出した。狭い廊下の中央には、下へと続く階段がある。どうやら、この階段を降りた下から、にぎやかな音声は聞こえているようだった。
急斜面の階段を、踏みしめるように下へと降りていく。うっかり足を踏み外したら、一階まで転げ落ちて怪我をしてしまうだろう。慎重に足を前に出し、気が遠くなるほど長い階段を下る。
廊下に降りると、さっきよりも声が大きくなった。誰かに指示を飛ばす大きな声と、固いものがぶつかる音が、少し離れたところから響いている。五感を刺激するのは、音声だけではなかった。小麦が焼ける香ばしい匂いが、廊下の先の部屋から漂っている。
僕は、匂いのする方へ足を踏み出した。閉ざされた扉を開け、音の聞こえる部屋へと足を踏み入れる。大きな窓から朝日が差し込んでいて、寝起きの目には眩しかった。
そこは、パン屋の厨房だった。入口付近には調理台が並べられ、壁際には大きな石窯が置かれている。女性と若い娘が生地をこね、男性が釜で焼いているようだ。それが店で売るパンであることを、その時の僕は知っていた。
「おはよう、ルチアーノ」
こちらを振り返った女性が、優しい笑顔を浮かべる。彼女は、僕の『母親』らしい。隣にいるのは『姉』で、釜の前にいるのが『父親』だ。
「おはよう」
「さっそくで悪いんだけど、手伝ってほしいの。今日はデリバリーの注文が入っているから、たくさん作らないといけないのよ」
『母親』に諭され、僕は寝起きのまま調理着に着替える。エプロンをつけると、長い髪を帽子の中にしまった。調理台の前に立つと、『姉』と一緒に生地をこねる。
昼近くまで作業を続けて、ようやく材料がなくなった。時計がないから分からないが、優に三時間は働いていただろう。
「お疲れ様。お腹空いたでしょう? 食べていいわよ」
調理器具を片付けると、『母親』は焼きたてのパンを差し出した。ほかほかと湯気を立てる白い生地が、お皿の上に乗せられている。両手で掴むと、それは燃えるように熱かった。
『姉』と二人で、焼きたてほやほやのパンにかじりつく。いつの時代のものかすら分からないそれは、妙に素朴な味がした。『母親』が僕の近くに来て、帽子越しの頭を撫でる。
そこで、ようやく目が覚めた。
ごそごそと音を立てながら、ベッドの上で寝返りを打つ。目を開けると、見慣れた青年の部屋が見えた。
夢を見ていた。いつのことかも分からないくらいの、遠い遠い昔の夢を。あの時、僕は任務を命じられて、パン屋の子供として町に潜入したのだ。確か、重要人物が通っているか何かだった気がする。思い出そうとすれば簡単に思い出せるのだが、そこまでする気は起きなかった。
こんなことを思い出してしまったのは、全てあの青年のせいだ。彼が、昔のことなんか尋ねるからである。僕にとって、潜入捜査は日常茶飯事だ。規模はどうであれ、僕が何者かに扮して人間の暮らしに紛れ込んでいたことなど、誰よりもよく知っているはずなのに。
彼がどんなことを知りたがっていたのかは、僕にもよく分かっている。大方、情を移した人間がいるかだろう。彼にも過去に情を移した人間がいたらしいし、僕の過去に疑問を持ってもおかしくはない。
それにしても、どうしてこの頃のことを夢に見たのだろうか。パン屋に潜入していた期間は、時間にして一年ほどである。僕の長い任期の中では、たったひとときにすぎない。わざわざ思い出すほどに思い出が残っていたとは思えなかった。
そんなことを考えて、ふと思い出すことがあった。あの時の『母親』の、頭を撫でる手付きは、恋人である青年と似ているのである。優しく頭の上に手を乗せ、愛おしむような動きで髪を撫でるのだ。それは偽りの愛だったのだけど、僕の中の少年は、それを暖かいものとして覚えていたのだろう。
僕は、ゆっくりと布団から顔を出した。首を前に伸ばして、隣に眠る青年に視線を向ける。まだ朝も早いから、青年はぐっすりと眠り込んでいた。
そっと手を伸ばして、彼の頭の上に乗せてみる。あまり手入れのされていない髪は、少しごわごわとしていて湿っぽい。寝癖で跳ねた髪をかき混ぜるように、頭を何度か撫でてみた。
「う…………ん…………」
青年が寝惚けたような声を上げる。さらに頭を撫でると、今度は身じろぎをした。
「うぅん…………」
なんだか面白くなって、軽く頬をつついてみる。少し固くてがっしりとした感触が、指先から伝わってきた。人工的なものではない、本物の人間の肌だ。ここまで親密に人間に触れたのは、彼が初めてだった。
何度か身動きを取ってから、青年がゆっくりと目を開ける。焦点の合わない目で僕を捉えると、不思議そうに言葉を発した。
「ルチアーノ…………?」
「おはよう。起きたのかい?」
彼の寝惚け顔を見ながら、僕は口角を上げる。僕の前でここまで無防備な顔を晒す相手は、この男以外にはいなかった。暗示をかけた相手を除けば、誰もが僕を警戒して、恐ろしいものを見るように身を引くのだ。僕の正体を知った上で共に暮らして、こんな無防備な寝顔を晒しているのは、この男だけだった。
大きなあくびをする彼を見て、今なら言えるのではないかと思った。恐らく彼が求めていて、でも、普段は言えないことも、彼が寝惚けているうちなら言える気がした。
「僕は、君が初めてだよ。こんなに、誰かに心を許したのは」
「えっ?」
彼が、大きく目を見開いた。口をぽかんと開けた間抜け面で、真っ直ぐに僕を見つめている。
「今、なんて言ったの?」
どうやら、彼の耳には届かなかったみたいだ。少し安心しながら、僕は再び口角を上げる。くすくすと笑みを漏らすと、耳を近づけて言った。
「何も言ってないぜ。ほら、とっとと起きな」
「そんなことないでしょ。教えてよ」
食い下がる青年を無視して、僕は布団から這い出す。変な夢を見たわりには、妙に気分のいい朝だった。