ひな祭り 桃の節句。それは、女の子のためのお祭りの日だ。女の子の健やかな成長を願い、女児を育てるそれぞれの家庭は、ひな人形を飾ってお菓子を食べる。家によっては、ちらし寿司を食べたり桃を食べたりもするそうだ。スーパーのひな祭り商戦も海鮮と桃が一番で、ポップを貼り出して大々的に宣伝をする。世間は華やかになるけれど、男児かつ一人っ子の僕には無縁のことで、それを少し寂しく思っていたのだ。
でも、今年は違う。今年は、僕の家もひな人形を飾って、ひな祭りのお菓子でパーティーを開くのだ。幸いなことに当日は休みだから、昼食にもちらし寿司を用意するつもりである。浮き浮きしながら食材を買い込む僕を、ルチアーノは呆れた顔で見つめていた。
「何を浮かれてるんだよ。君は、桃の節句とは何も関係ないじゃないか」
午前からちらし寿司を作る僕を見て、ルチアーノは不満そうに声を上げた。パーティーの準備をするために彼の誘いを断ったから、少しご機嫌が斜めなのである。尖った声を背中に感じながら、僕は弾んだ声で答えた。
「だって、ひな祭りのパーティーだよ。子供の頃に憧れてた夢が叶うんだよ。嬉しくもなるでしょ」
「変な期待をしてるんだな。パーティーなんて言っても、ただ寿司と菓子を食うだけじゃないか。そんなの、クリスマスにもできるだろ」
呆れきったような声で、ルチアーノは僕に言葉を投げ掛ける。やはり、ルチアーノは何も分かっていないようだった。年中行事の当日に、国民が揃って同じ節目を祝うから、イベントというものは楽しいのだ。クリスマスの日にちらし寿司を食べたって、変な気分になるだけだろう。
「ルチアーノは分かってないなぁ。同じ日に同じ縁起物を食べるから、風習には意味があるんだよ」
からかうように答えると、彼は不満そうに頬を膨らませる。軽くこちらを睨むと、尖った声を吐き出した。
「今、僕を馬鹿にしてただろ。子供扱いしやがって……!」
こういうやり取りができるのも、僕たちの距離が縮まった証拠だ。一年前の彼なら、軽口を叩いただけで『お仕置き』されていただろう。関係性の変化を嬉しく思いながら、切り分けておいたお刺身をご飯の上に乗せた。
食事の準備ができる頃には、いい感じの時間になっていた。お刺身がたくさん乗ったちらし寿司を持ち上げると、机の上に運ぶ。ご飯の上にたっぷりと乗った切り身を見て、ルチアーノは目を見開いた。
「ずいぶん奮発してるな。そんなに楽しみだったのかよ」
「せっかくのパーティーだからね。特別感が出るように、お刺身を多めに買っておいたんだ」
答えながら、お刺身の上に海苔を振りかける。海苔だけは食べる直前にかけないと、お刺身の水分で湿ってしまうのだ。取り皿を二つ並べると、その前に箸を置いた。
「できたよ。……と言っても、レトルトのものだけど」
「言われなくても分かるよ。君は、料理は苦手だからな」
軽口を叩きながらも、ルチアーノは僕の向かいの席に腰を下ろす。お刺身が嬉しかったのか、機嫌はすっかり治っていた。お寿司が大好物な彼は、新鮮なお刺身も好きなのである。
そわそわした様子でしゃもじに手を伸ばすと、ルチアーノは大皿に乗ったお寿司を取り分ける。バトンのようにしゃもじを受け取ると、僕も自分の分のご飯をよそった。お刺身で埋まりそうな取り皿を前に、二人揃って手を合わせる。
「いただきます!」「……いただきます」
上から醤油を垂らしてから、お刺身とご飯を頬張った。口一杯に詰め込んで咀嚼すると、幸福感が全身を包み込む。三人分ほどはあるお刺身を敷き詰めたちらし寿司は、お米一口に一切れあると言っても過言ではないほどにお刺身だらけだ。贅沢品を口にしている実感に、全身が多幸感で満たされる。
向かいの席を見ると、ルチアーノもお刺身を頬張っていた。食べることに集中しているようで、いつものような饒舌さは鳴りを潜めている。あっという間に平らげると、おかわりをよそうために大皿へと手を伸ばした。
「あんまり食べ過ぎないようにね。まだ、デザートが残ってるから」
そう言うと、彼は呆れたようにこちらに視線を向ける。しゃもじを持った手を動かしたまま、呆れを隠さずに声を発した。
「まだ何かを隠してるのかよ。関係ないイベントの癖に、よくそこまで張り切れるよな」
「だって、 ずっと憧れてたんだよ。せっかくだから、全力で楽しまなきゃ」
答えると、僕も取り皿におかわりをよそった。腹八分目を意識しながら、贅沢なちらし寿司を平らげる。満腹感を感じるまで食べると、残りを深皿に移してラップをかけた。
冷蔵庫のドアを開け、お寿司と入れ替わりにガラスのボウルを取り出す。中には、生の桃を使ったフルーツポンチが入っている。ルチアーノの好物だからと、季節外れのぶどうも入れてあった。
身を乗り出しながら覗き込んで、ルチアーノは机の上に置かれたボウルの中身を一瞥する。ゼリーの間に浮かぶ桃に視線を向けると、納得したように呟いた。
「桃の節句だから桃なのか。単純だな」
「桃の花には、魔除けの意味があるんだよ。今回は花を用意できなかったから、デザートに果実を入れてみたんだ」
お玉で中身を掻き回しながら、僕はルチアーノに説明する。聞いているのかいないのか、返ってきたのは気のない返事だけだった。いつものことだから、特に気にせずにデザートを掬う。
口に含んだ桃からは、なんだか懐かしい味がした。思い返せば、桃を食べたのは数年ぶりだ。一人で暮らすようになってからは、なかなか果物を買うことがなかったのだ。
「どうしたんだよ」
ぼんやりと器を見つめる僕を見て、ルチアーノが怪訝そうな表情を見せる。
「桃を食べたの、久しぶりだなと思って」
答えると、彼はにやりと口角を上げた。からかうような笑みを浮かべると、甲高い声で言う。
「そうか、君は庶民だから、あんまり果物は食べないんだな」
なんだか馬鹿にされたような気がするけど、気にしないことにした。さっきは、僕が彼をからかったのだ。抗議する資格などないだろう。
デザートを食べると、今度はひな人形の周りにお供えしたお菓子に手を伸ばした。ひなあられと菱餅を手に取ると、袋を開けてお皿の上に出す。次々と食べ物を並べる僕に、ルチアーノは呆れきったため息をつく。
「まだ食うつもりかよ。食い意地が張ってるな」
「食への関心が強いって言ってほしいな」
いつものやり取りを済ませると、僕はあられに手を伸ばした。お皿の上に転がる小さな粒は、綺麗な四色に染められている。そのうちひとつを手に取ると、口の中に放り込んだ。
ひとつ目を食べると、今度は、別の色のあられを口に入れる。こっちの粒は、さっき食べたものよりも塩味が強い気がした。また別の色を口に入れると、今度は甘味が伝わってくる。
ひなあられは、色によって味が違うようだった。女の子達がこんなものを食べていたなんて、この機会がなければずっと知らないままだっただろう。少しの高揚を感じながら、今度は菱餅に手を伸ばす。
三色に重ねられたそのお菓子は、和菓子のゼリーと呼ばれるものだった。寒天のようでありグミのような食感の、甘くてねっとりした食べ物である。祖母の家のお茶菓子として置かれているような、昔懐かしい感じがした。
視線を感じて顔を上げると、ルチアーノが僕を見つめていた。真っ直ぐで煌々とした緑の瞳が、僕の顔を焦がしそうなほどに捉えている。
「どうしたの?ルチアーノも食べる?」
不思議に思って尋ねると、彼は首を横に振った。僅かに口角を上げ、からかうような声色で言う。
「要らないよ。ただ、君の食事風景を見てただけさ」
僕は、あられを食べていた手を止めた。そんなことを言われると、なんだか食べづらい。黙ってお皿を避けると、ルチアーノが不満そうに言った。
「どうしたんだよ。食べたかったんじゃないのか?」
「そんなに見られてたら、食べられないよ。せめて、別の方を向いて」
抗議するが、僕の声は届く気配がなかった。ルチアーノの視線は、真っ直ぐにこちらに向けられている。きひひと笑い声を上げると、指先でお皿の上のあられをつまむ。
「嫌だね。ほら、食べろよ」
そう言うと、僕の口の前まで運んできた。突然の『あーん』に、僕の心は揺れ始める。この機会を逃したら、こんなことはしてもらえないだろう。だからと言って、子供に食べさせてもらうのは恥ずかしい。
なんだか、ルチアーノの思う壺になってしまった。目の前を横切るあられを見ながら、僕はそんなことを考えた。