盆東都、イケブクロ。
残暑と言えどもまだ蒸し暑い空気を自転車で裂いて、駆け抜ける。
近所の人々と挨拶を交わしながらスーパーのタイムセールに間に合うようにペダルを強く踏んでいく。
お盆の時期のせいか、少しだけ線香の白檀の香りが香った。
いくら頬を切る風が心地いいとはいえ、体の内部から燻られるようなねちっこい暑さに汗が額に滲み、頬を通って落ちる。
スーパーに着くとカバンからペットボトルを取り出して熱中症にならないように家で作っていたスポーツドリンクで喉を潤す。
体の芯がすぅっと冷えていくような感覚にひとつ息を吐いてキャップをきゅっと強く締める。
タイムセールで買うもののメモを取り出し、いざ戦場へ。
予定されていた時間よりは少し早いものの既に主夫たちはセールの商品の場所に集まっていて、小さく眉を下げながら苦笑を零す。
男たちの間に割り込んで何とか2人分のセール品の牛肉を確保し、カゴに入れるとそそくさと戦線を離脱する。
メモに書かれた食材を次々とカゴに放り込みながら小さく震えた携帯を見つめる。
液晶にはメッセージが1件。
内容はコーラのストックがもうないとのことだった。
丁度目の前にはコーラの1リットルペットボトル、それに手を伸ばしてカゴの底に3本立てる。
内部の炭酸を刺激しないようにそーっとそーっとレジへ向かって料金を払った後、自転車に食材を乗せる。
眩しい夕暮れの光に紅と翠の虹彩が照らされた。
「ただいま〜、メモに書かれたのとりあえず買ってきたぞ。」
「お〜ぅ、おかえり。お使いあんがとな、今から飯作っから待ってろ。」
一郎は扉を開けてリビングの机に買ってきた食材を置く。
キッチンからエプロンを着けた男が顔を出す。
右目に一直線の傷が入った男は食材の入った袋を持っていき、がさがさと漁る。
じゃがいも、人参、タイムセールの牛肉、中辛のカレールウ。そして冷蔵庫の中で眠っていた茄子。
次々と並べられていくそれらを眺めながら一郎より少しだけ身長の高い男へ視線を移す。
ふと目が会うと僅かに皺の寄った眉間を緩ませて不思議そうに一郎を見る。
「一郎、俺の事見る暇あんならこれ冷蔵庫、宜しく。」
1リットルのコーラが三本入っている袋を掛けられ、ずしりと一郎の手が重みで少し沈む。
思わず視線が手の重さの方へ向くと一郎と同じ翠を持つ瞳はじゃがいもと人参に向き合っていた。
一郎はコーラを冷蔵庫に入れ終わるとマイバッグを綺麗に折り畳む。
土まみれの根菜たちは軽く水で土を洗い流され、まな板の上に乗せられる。
包丁の冷たい刃が心地よいリズムで2つ、4つ、6つ、8つとじゃがいもを切り裂いていく。
人参と茄子も同じように、縦、横、縦、縦、横とだんだんと小さくなっていくさまを一郎は眺めていた。
鍋に油を引いてからIHの電源を入れる。
先程の切った野菜と牛肉を放り込み、肉に焼き色が着いたら水を入れていく。
灰汁をしっかり取り除きながら一郎の視線の先の男は合間に隠し味としてケチャップを入れながら、自分の曲を口ずさんでいた。
鼓膜を適度に刺激する、気持ちよく通る低音に一郎は思わず目を細めた。
具材が柔らかくなれば火を止めて割っていたルウを溶かす。
食欲を擽る香辛料の香りが空気に混じり鼻腔に入り込むと一郎の喉が小さくこくりと鳴る。
丁度炊飯完了の音を炊飯器が鳴らし、余計に空腹を煽られ、思わず一郎の腹が声を上げた。
「よし、あとはくつくつ煮込んで終いだな。……一郎は先に米食うか?」
先程から喉やら腹やらから音を奏でている一郎の方へと視線を寄せては、カレーを混ぜながら困ったような苦笑を浮かべ尋ねられる。
「いや、いい。カレー腹いっぱい食いてぇ。」
「流石若ぇなぁ、俺の分まで食えよ。一郎、米好きなだけよそって皿持ってこい。」
しっかりととろみのついたカレーをレードルでひと掬いしながら出された手に一郎は白米を山盛りに盛ったカレー皿を置く。
雪が降ったような白い山の上にカレーの雪崩が起きる。
緩やかに斜を下るルウが何とも食欲を唆り、空になった胃袋に直接、食ってくれと語りかけるように感じた。
一郎は自分の分のカレーをリビングへ持っていき、テーブルの上に置く。
カレーを作り上げた男もその対向に皿を置いて腰掛ける。
既にテーブルに置かれたスプーンへ手を伸ばしてはぱちんと音を鳴らし手を合わせてから、2人でいただきますと小さく呟く。
ルウと米を絡めてスプーンへ乗せると一郎の大きな口にするりと吸い込まれていく。
「美味ぇか?」
「…………、っ、美味ぇ。」
「ならよかった。」
必死に口を動かして飲み込んでから答える。
丁寧なその様子にくすりと向かいの男は目を細めて、カレーを1口頬張り一郎よりも小さい口をいっぱいにすると、もぐもぐと本当にそんな効果音が付きそうなほど柔らかく咀嚼する。
クーラーの吐き出す冷たい空気に前髪が靡く。
隠し味のお陰で少しさっぱりとして食べやすくなったカレーがあっという間に皿から消えると、一郎はもう一度皿に米をついでルウを垂らす。
一郎の思考の中には何時だったか幼少期に、父が作ってくれたカレーが思い浮かぶ。
もう一度一郎が席に着くと、目の前に居る男は既にカレーを平らげていて水を喉に流し込んでいた。
「……なぁ、零。」
「なんだ一郎、米足りなかったか?」
「……親父が茄子食っちまったから、もうあの世に戻れねぇんじゃねぇのか。帰りのアシなくなったし……もうここに戻って来ても」
「一郎。」
「……なんだよ。」
一郎が進めていたスプーンを止める。
天谷奴零の口がゆっくりと開いた。
「俺は誰だ?」
「……零。」
「だけじゃねぇだろ。」
「…………天谷奴零。」
「そうだよなァ。天谷奴零だ、詐欺師のな。…………お前は誰と"俺"を重ねてる?」
天谷奴の言葉が一郎の体を頭から串刺しにしたように冷たく刺さる。
空気に沈黙が含まれると未だ喧しく求愛している蝉の声だけが部屋に残った。
一郎は声帯を抉り抜かれたように言葉を発することが出来なくなり、ただただ喉に冷えた空気だけが留まる。
「山田零は死んだ、俺は天谷奴零だ。お前の親父に似ている別人。……何時までも何時までも過去を引き摺るな。」
「……んなこと言われてもよ……」
「一郎。」
天谷奴の手が一郎へと伸びる。
大きな掌が頬を撫でて包み込む。
優しいその手つきとは裏腹に、天谷奴の目は冷たく、ぞくりと背筋が強ばる程に温度を感じられなかった。
「……なーんてなっ、ビビっちまった?」
先程の視線とは打って変わって零れた笑みが余計に一郎の本能的な恐怖を煽っていく。
ぱっと一郎の頬から手が離れると、どくどくと一定のリズムから外れた少し早いテンポで鼓動する一郎の心臓は落ち着きを取り戻したようにだんだんと元の速さに戻って行った。
天谷奴はシンクへと食べ終わったカレー皿を置いて水に浸す。
「よっし、一郎、悪ぃけど洗いもん頼んだわ。おいちゃんちょっとお出かけ〜。行ってくるな。」
天谷奴が家を出ると玄関の鍵が閉まる音がした。
一郎の更にはまだ零が作った、懐かしくも少し違う味のカレーが残る。
昔はこんな味じゃなかったのに、昔は昔は昔は。そんな考えが一郎の脳内を埋めつくす。
一郎はスプーンを置いて両手で顔を覆う。
「…………零、親父、……父さん」
小さく零したその声は蝉の鳴き声に埋もれて消えた。