子犬「兄さん、薪を割っておくね」
「ありがとう、三郎。助かるよ」
そう言って紅衣の少年が庭に出て行ったのは、ついさっきのことだ。
謝憐は菩薺観の卓の上にがらくたを広げ、値の張りそうなものを確かめていた。
開けはなした扉からは、さわやかな風が吹き込んでくる。
その風に乗って、かん、かん、と薪を割る音が響いた。
がらくた集めの帰りに出会った少年は、この数日ですっかり菩薺観の生活になじんでしまった。
話も上手で、博識で、洒落ているのに気取ったところはなく、いつも優しくて親切だ。
裕福な家のお坊ちゃんかと思ったら、驚くほど家事や雑用に長けていて、何でも率先して働いてくれる。
大昔の甘ったれた自分とは大違いだな、と謝憐は小さく苦笑した。
だが。
ひとつだけ気になることがある。
(そろそろかな……)
薪の音がやんだ。
謝憐が素知らぬふりでがらくたを眺めていると、扉の外から気配がした。
落ちぶれても武神だ。視線や気配には敏感である。
振り向くと、扉の隅からこちらを覗いている三郎と目が合った。
「どうした?」
「手拭いを借りようと思って」
何事もなかったかのように微笑んで、少年は中に入ってくる。
日用品の入った棚から手拭いを取り出し、無造作に肩にかける。
紅衣の背中が扉の向こうに消えると、ほどなくして再び薪割りの音が聞こえてきた。
――手拭いを取りに来ただけなら、覗いていないで入ってくればいいのに。
謝憐はがらくたに視線を戻しながら眉を寄せた。
実のところ、これが初めてではない。
三郎はしょっちゅう謝憐のことをぬすみ見るのだ。
たとえば、三郎が洗い物をしている背後で謝憐が床を掃いていると、何度もちらちらと振り返る。
謝憐が外で洗濯をしていると、建物の陰から覗いてくる。
目が合うと微笑んで何も言わずに立ち去るか、さっきのように理由をつけてお茶を濁すので、謝憐も深くは追及していない。
ただ、こちらを見つめる心配そうな目が気になった。
こんな狭い菩薺観の中で、いったい何を心配するというのだろう。
不器用な謝憐が息をするたびに怪我をするとでも思っているのだろうか。
(それに、何かを思い出すんだよな……)
また薪の音がやんだ。
予想通り、軽い足音がして、扉から黒髪が覗く。
今度は謝憐が最初からそちらを向いていたので、三郎は立ち止まることなく入ってきた。
「喉が渇いた。水をもらうよ」
屈託なく笑う様子に、悪意はない。
「三郎」
「何?」
「……いや、何でもない」
何をどう聞いていいかわからず、謝憐は首を振った。
三郎は水を一口飲み、手を振ってまた出て行った。
いびつに結んだ黒髪がゆれて、脳裏にひとつの思い出がよみがえる。
遠い遠い昔の記憶。
(ああ――子犬だ)
幼い頃、皇宮の中で子犬を飼っていたことがあった。
小さな黒い子犬だ。
子供部屋の一角に犬小屋を作ってもらい、まわりを柵で囲って、犬用のおもちゃをたくさん並べた。
元気よく走り回る子犬に目を輝かせる一方で、逃げ出さないか心配で、修練を抜け出してはよく様子を見に行っていた。
子犬が小屋の中で寝ていると安心して、その場で一緒に眠ってしまったこともある。
三郎の行動はあの時の自分に似ている。
目を離した隙にいなくならないか心配なのだろう。
(つまり、私を子犬と同じようなものだと思っているのか)
長く生きてはいるけれど、小動物扱いされることなんてあっただろうか。
何だかおかしくなって、謝憐は一人でふふ、と笑った。
しばらくして、聞こえていた薪の音が三度やんだ。
謝憐はがらくたを片づけて立ち上がった。
「わっ、兄さん、ごめん」
扉を出た瞬間、横にいた三郎と鉢合わせる。
日差しの眩しさに目を細めながら庭を見れば、案の定まだ薪割りは途中のようだ。
謝憐は笑って言った。
「三郎、そんなに何度も確かめなくても、君を置いていなくなったりしないよ」
軽い気持ちでそう告げると、なぜか三郎は目を見開いて息を飲んだ。
何かを言いかけるように唇がうすく開く。
だがそこから言葉がこぼれることはなく、すぐにいつも通りの笑顔が返ってきた。
「うん、そうだね」
その笑顔が一瞬泣き出しそうに見えたのは、きっと眩しい光のせいだろう。
とりあえず薪割りが終わるまでは、見える場所にいてあげよう。
謝憐は箒を取ってきて、庭の掃き掃除を始めた。
庭を吹き抜ける風に、薪割りの音がまた響いた。