ひなたの過去ひなたの過去❶
頭を撫でられたのを微かに感じた。誰かが小さく消え入りそうな声で何かを自分に向かって言っている。それは暖かく聞き覚えのある…そんな気がしていた。でも目は見えず、強烈な耳鳴りでそれは掻き消され、一体何を言っていたのか聞こえなかった。
ひなたが最初に見た世界は深くて冷たくて青かった。上を見上げたが眩しすぎて何も見えない。外側の世界からなのだろうか、どこからか人が騒ぐ声が聞こえる。
「何があった!」
「人が、子供が!…コンピュータの中に入ったとの報告が!」
「外的刺激により量子コンピュータ 椿 の制御機能が停止されています。このままでは暴走しかねません!」
「コンピュータを緊急停止しろ!そして早く救助を!」
「いくら貴方の御子息とは言えそこには入れないでしょう…?まだどちらとも5歳満たずでしたっけ…"スタンダード"とあの赤毛の……」
「いけない!あの子達が…!」
「奥様!危険です!おやめください!」
「当主様!当主様を早く呼んでこい!」
「はぁ、当主様のお出ましですか……面倒なことになりました。では今回の交渉はここで引き上げるとましょう。せいぜい五摂家の立場ごと乗っ取られないようがんばってくださいね…それでは」
何を言っているのかさっぱり理解できない。
もう一眠りしていいかと思い自分を包んでいた何かに再び顔をうずめる。その時はっとした。それは生まれて初めて見た人間だったのだ。茶髪の癖っ毛に固く閉じられた目、それに沿うように横たわる睫毛。左腕はひなたを抱くように、右腕は何かからひなたの頭を庇っているように見えた。腕の中、そっと目の前にあった胸に触れてみた。鼓動はなかった。頭が真っ白になり、どうにかそれを起こそうとした。だがそれはひなたより一回り大きく、退けるのに苦労した。
暴れる心臓を落ち着かせ、仰向けになったその手に触れてみる。恐ろしく冷たかった。冷や汗と共にひなたの心拍が早まる。その手を握る力は強くなった。信じたくなかったのだ。思わず助けを呼ぼうと叫んだ。
そこは冷たくて、機械から織り出された電気の糸の匂いがしていた。目を瞑っても時々聞こえる機械音が塞ぐ手を貫通して鼓膜へ干渉してきた。
とてつもなく冷たくて怖かった。すぐ近くにいるそれにしがみつきながら少しでも暖かく、灯火が消えないように1人とそれは青くて深い量子コンピュータの底で助けを待っていた。
すぐそこに横たわるそれの名前もわからない。それが誰なのか知らなかった。思い出せなかった。でも何故かとても悲しくて愛おしかったのだ。とにかく助けたかった、今のひなたにはそれしか考えられなかったのだ。
高く悲痛な声は青い世界に響いた。
しばらくして足音が聞こえた。目の前の壁が開いた。ここより暗い部屋。誰か二、三人が灯火を持っている10人近くの人間。その中から1人の女性がこちらに走ってきたかと思ったら涙を流しながら抱きついてきた。赤茶色の長い髪の毛と丈の長いケープドレス、ほのかに花の香りがする。
とても暖かかった。
安堵のあまりにひなたの目から涙がボロボロと零れ落ちた。霞んでよく見えないが、彼女は生まれて2番目に見た人間。生きている。暖かい。だが、彼女が一体誰なのかはひなたにはわからなかった。
後ろの灯火達がゆらめく。
「当主様がこちらに来られた」
「当主様、此方です。」
静粛な雰囲気になる。静かな空間の中響く足音。暗闇から灯火の間に現れたのは長身の男性だった。癖のある茶髪に蒼く深い瞳、端正な顔立ちをしていた。その男性は灯火達には見向きもせず、此方へと近づいてきた。横たわっているそれにそっくりだった。彼は誰?それもひなたには全くわからなかった。
男性は無言でひざまづき、横たわるそれに手をかざした。その後、ひなたの額にも手をかざした。いきなりのことで怖かったが、手をかざされた瞬間、くらっと不思議な気分になった。
男性は呟いた。「記憶が消されている」
灯火達がざわつく。男性は灯火達を手で制す。「静かに」異様な空気を察知したようだ。
突然青い世界が光り出す。下から電流が鼓動し、出力された光が上の世界へ見えぬスピードで登ってゆく。上は眩しさを増し、目が潰れてしまいそうだ。その変化に怯えるひなたと灯火たち。女性も不安げだった。大丈夫、心配しないでと赤茶色の髪の女性は言う。室内の灯りも端から点き始め、あっという間に眩しい世界になった。まるで、この地下室全体が大きな力に支配されているような…
そこで自分のいた場所が巨大で透明な花形の装置、に入っていることに今気づいたのだ。
無機質な声が広い室内に響き渡る。
私は量子コンピュータ 椿 。主様の命であれば何でもお応えしましょう。
「お願い!この人を助けて!」ひなたは思わず叫んでしまった。
しばらく無機質な声は聞こえなくなった。しかし、周りは不気味なほど明るい。
ふと日向は後ろに目を向けた。心臓が止まるかと思った。
それがふらりと立ち上がっていたのだ。さっきまで重く閉じていた目が開いていたのだ。それは長身の男性と同じ蒼い目で人形のように端正な顔立ちだった。
それはいきなり喋り出した。
「アアやっと手に入ったずッと昔から渇望していたもノです特にこの 家の脳と身体…」
それは歓喜の表情を浮かべていた。だが、目は無機質で笑っていなかった。
男性は無言で彼を睨んだ。
構わずそれは続けた。
「人間の命と引き換えにこの体を代償にするのはどうでしょう。私の原動力は幾千年もの月日と歯車たちによる文明の結晶です。しかし、約束通り彼は『生かす』としましょう。ただ、この体と生命の主導権は私のモノになります。」
あまりのことにひなたは言葉が出なかった。
「続けろ」男性は顔色ひとつ変えずに命令した。」
それは再び無機質に喋り出した。
「この体とのリンクは完了しています。 椿 本体を壊そうとなんて、浅はかな考えはお勧め致しません。そしたらこの体はどうなってしまうのかお分かりですね。」そう彼は微笑んだ。その微笑みは無機質で不気味だった。
声は少年のものだったが、無機質だった。目に意志がなかった。彼の意志と肉体は量子コンピュータに乗っ取られてしまったのだ。
ふ…ふざけるな!咄嗟にひなたは叫んだ。
男性が手で制し、乗っ取られた彼に近づく。そして言った。「良いだろう。煮るなり焼くなり好きにするが良い。ただ周りの者に手出しはするな。そしたら息子の姿でも容赦はしない。」男性は彼を睨みつけた。威圧感が凄まじく、とても冷たく刺すような目だった。
彼は不敵な笑みを浮かべた。
「交渉成立ですね」
そう言い終わると彼は倒れた。そうなると予想していたかのように男性がその背中を支える。女性が言う。「貴方、正気なのですか…?」男性は無言だった。
彼は今度は静かに息をしていた。ぐっすりと眠っている。男性は彼を抱き抱えその場を去った。しばらくすると遠くからざわざわと喧騒が聞こえた。
さっきまで灯火を照らしていた人間達が言う。「奥様、ひなた様の治療は…?」
女性は言った。「大丈夫、心配しないで。しばらくの間この子の面倒は私が見ます。だってこれでも私は母なんですもの…」
初めて聞いた自分の名前といきなりの女性の発言にひなたは戸惑った。
ここがどこかわからなかった。
家族すら忘れてしまったのだ。だが、皆それ以上ひなたを刺激することはなかった。
その日は女性と一緒の部屋で寝た。もう夜は更けてひなたの眠気は限界だった。涙でぼやけてよく見えなかったが、暖かな照明でその姿がはっきり見えた。背中が腰へ広がる自分とそっくりの赤茶色の髪、長いまつ毛から覗く赤く宝石のような瞳…夢なのだろうか……
その部屋は何故か暖かく、怖くなかった。
子守唄が聞こえる。暖かくて少し寂しい気持ちにもなった。歌っているのはあの女性なのだろうか……閉じかけた瞼で考える。
「安心しておやすみ……」
その一言で今まで感じた恐怖、孤独も忘れてしまった。暖かい布団の中、ひなたは穏やかな眠りに落ちた。