外堀に溺れる 何の代わり映えもない日々が、最近になって、鮮やかに色づき始めている。
恋をしたからだと思った。真っ白なふわふわの毛を身にまとった、サファイアの如く美しい瞳の君――ブライアン。どうしても彼女に近付きたいが故、俺が考えたのは、外周から攻めることだった。
曰く。共通の知人を通じて、ってやつだ。
真っ白であっただろう画用紙は、色とりどりの線でぐちゃぐちゃに潰されている。
後ろから覗き込んでいるのに、そいつは集中しているのか、まったく気づかないようだった。「やあ」と声をかけると、びくりと大袈裟なくらいに飛び上がる。
「今日も勉強熱心だねえ、うさぎの坊や」
まずは余所行きの顔でご挨拶だ。しかし、坊や――サムは、ぎゅっと眉間に皺を寄せて睨んでくる。
「このクソコバヤシ! おまえが驚かせるから、線がブレちゃっただろ!」
「……元からぐっちゃぐちゃじゃねえか」
「うるさいなあ!! なにしにきたんだよ……っ」
相変わらずのクソガキっぷりに、余所行きの仮面はすぐに外れてしまった。やれやれと肩をすくめて、
「別に。お前が頑張ってるか見に来ただけ」
「はあ?」
「……それ、本当に文字の練習してんのか? ただめちゃくちゃに線引いてるだけにしか見えんが」
「おまえほんと帰れよ……」
サムはげんなりした顔で言うが、そうはいかない。すべては愛しのブライアンのためだ。
俺は身体の主導権を奪うと、新しい画用紙を取り出す。その半分ほどを使って、丁寧に丁寧に、ひらがなの『あ』の字を書いた。
「まずは一文字ずつ、確実に書けるようになった方がいいぞ。『あいうえお』の『あ』だ。ほれ、書いてみろ」
ペンを机に置いて言うと、サムは目を丸くして数秒固まった後、思い切り怪訝な顔をした。……まあ、当然といえば当然の反応だ。
「え、なに……? またなんか変な物飲んだ……?」
「飲んでねーよ」
「じゃ、じゃあなんか企んでるだろ!? アヤシイ……!」
「企んでない。……いつも頑張ってるお前さんを見てたら、応援してやりたくなったのさ。それじゃ駄目か?」
口から出任せにも程があるが、単純な坊やのことだ。俺の真意になど気づくはずもない。
サムはまだ納得いかないような顔をしていたが、やがてふうっと息を吐き、
「仕方ないなあ。そこまで言うなら、手伝わせてやるよ」
言いながら表に出てくると、張り切った様子でペンを持つ。……めちゃくちゃ上から目線でムカつくが、今は我慢だ。
さっそくペンを走らせようとする手元を見て、「あ、待て」と思わずストップをかける。盲点だったが、ペンの持ち方がめちゃくちゃだ。まるでマイクでも握るように、グーで掴んでしまっている。これじゃあ、綺麗な字など書けるはずもない。
俺はペンを持つ手だけコントロールを奪い、正しい持ち方の手本を見せる。
「まずはペンの持ち方からだな。こう……指をひっかけて、安定させるんだ」
「なんだよ、そんなのどうだっていいだろ」
「よくない。ほら、とにかくやってみ」
ペンを持ったまま、手のコントロール権をサムに返す。やはり怪訝な顔をしていたが、その形を保ったままで文字を書かせると、
「あ、書きやすい……かも」
「だろ?」
「…………」
これを教えたのがもし俺じゃなければ、きっと素直に喜んだのだろう。しかしサムは複雑そうな表情で俺を一瞥して、無言で再び画用紙に向き直った。相当俺が嫌いらしいな、このクソガキめ。
しばらくして、画用紙が『あ』の文字で埋め尽くされた頃。「疲れたあ!」とペンを放り投げたクソガキは、その勢いのまま、どさりと後ろに倒れ込んだ。
「こら、ペンを放るな。物は大事にしろ」
注意すると、サムは「うるさいなあ」と文句を言いながらも、ペンを拾い上げて机に置く。そして、何か言いたげな顔で視線を彷徨わせるが、何も言わないので、俺はとっとと話を進めることにした。
「今日練習に使った紙は取っておけよ、後で見直すからな。明日は『あいうえお』の『い』を練習するぞ」
「えっ、明日……?」
「一日一文字なんて効率が悪いんだが、お前の足りない頭じゃ、詰め込んだら逆に効率が落ちそうだからな。だからゆっくり……」
「そ、そうじゃなくて! これから毎日、コバヤシが文字を教えてくれるってこと……?」
「…………。まあ、そういうことだ」
当初はそんなつもりはなかったが。サムの勉強を見守るうち、いつの間にか、俺の中で学習プランができてしまっていた。真の目的はブライアンに近付くためだが、こいつの『お勉強』に関わってしまった以上、いい加減なことはしたくない。ある意味、俺のプライドだった。
「だが、まあ……お前が嫌なら、強制はしねえよ」
無理強いでもして、これ以上嫌われたら本末転倒だ。
サムの様子を伺うと、『あ』の文字で埋め尽くされた紙を見つめて、悩んでいるようだった。嫌いな奴に勉強を教わるなんて、俺だったら絶対に御免だ。きっとサムも、文字の上達と、俺への嫌悪を天秤にかけているのだろう。
ややあって、サムは覚悟を決めるように小さく息を吐くと、俺の方を見て、言った。
「……よろしくお願いします」
その日から、俺とサムの秘密のレッスンが始まった。
毎日、五十音順に一文字ずつ、文字を覚えていく。ある程度覚えたら、それまで学習した文字を組み合わせた単語を書かせる予定……だったのだが。
「ねえコバヤシ。『あいうえお』の『い』とか言うけど、『あいうえお』ってなに?」
「は!? そこからかよ!?」
まさか五十音も知らないとは思わなかった。ひらがなは読めるくせに、どういう文字の覚え方をしたんだ。
俺は大きな溜息を吐いてから、画用紙に五十音を書き並べて、
「『あ』から始まって、『ん』で終わる。ここに書いてあんのが、全部のひらがなだ」
「ふーん……そんなにあるんだね」
「そうだよ、日本語は文字数が多いから大変だぞ。それに加えて、カタカナやら漢字もあるからな。世界でも難しい言語だ」
「……なんか頭痛くなってきた……」
「おいおい、まだ何にも勉強してないだろうが」
紙面の五十音をじいっと見つめていたサムは、ふいに「あれ?」と首を傾げる。
「ティーチくんの……『て』と『ち』はあるけど、その間がないよ?」
「あー……小文字と長音か……どっちかっつーとカタカナの範疇なんだが……」
めんどくせえな、と心の中で呟く。五十音順に文字を教えていくとなると、ティーチの名前を書けるようになるのはだいぶ後になってしまうだろう。これは勉強のモチベーションに関わるかもしれない。
俺は少し考えてから、学習プランを変更することにした。
「……よし。それじゃあ、順番は前後しちまうが、最初にティーチの名前を練習するか」
そう言うと、サムはぱあっと顔を輝かせて、「うん!」と元気に返事をした。
「できた! できたよコバヤシ!」
「おお……ちゃんと書けてるじゃねえか」
4日を費やした末、サムが画用紙に大きく書き記したのは、『ティーチ』の4文字だった。バランスはあまり良くないが、充分に読める、ちゃんとした文字だ。申し分のない出来だった。
「ふふん、どうだ! ボクもやればできるんだよ!」
「あーうん、そうだなーえらいえらい」
まあ、俺の教え方が上手いからだろうな、とは思うものの。それを口にするのは大人気ないので、ぱちぱちとやる気のない拍手をしてやる。
サムは画用紙をぎゅっと抱き締めて、うっとりと呟く。
「待っててね、ティーチくん。すぐに、キミにお手紙を書けるようになるからね」
「…………」
相変わらずというか、やはり不毛な恋だと思う。兄弟(だと思い込んでいるだけだが)で、同じ身体の中に居て、存在を気付かれもしないのに。正直言って、理解不能だ。
けれど、愛しい人のために頑張るということ自体は、今の俺にも理解できる。気付いて欲しい、振り向いて欲しい。そのためなら、どんなことだってやってやる。
「……頑張れよ、うさぎの坊や」
俺の呟きに、サムは一瞬きょとんとした顔をして。それから、照れたように笑って頷いた。
「そういえば、コバヤシの名前はまだ書けないね」
サムがそんなことを言い出したのは、五十音の半分ほどを習得し終えた時だった。
画用紙には、『こ』と、間を開けて『し』の文字。サムはペンを握りしめ、間の空白を難しい顔で見つめている。
「……俺の名前は濁音が入ってるし、『や』は後ろの方だからな。書けるのはまだ先になるが……」
書きたいのだろうか、俺の名前を。……それなら、ティーチの時と同じように、先に教えてやってもいい。
そう思っていたのだが、サムは「ふうん」と気のない返事をして、
「じゃあ、これでいいや」
『こ』と『し』の間の空白に、ぐちゃぐちゃっと、うんこの絵を描きやがった。
「できた、ウンコバヤシ!」
「ざけんな」
両手のコントロールを奪う。画用紙をびりびりに破き、丸めてゴミ箱に放った。
「あっ、何すんだよ! せっかく上手に描けたのに!」
「黙れクソガキ。くだらねーことしてないで真面目に勉強しろ」
俺の名前を書きたいだなんて、可愛いところもあるじゃないかと思ったのが間違いだった。やっぱりクソガキはクソガキだ。全然可愛くねぇ。
サムは「ちぇっ」と舌打ちして、新しい画用紙を取り出すと、今度は真面目に勉強に取り掛かった。
「うーん……あたまいたい……」
五十音の学習も、あと少しに差し掛かろうとした頃だった。サムは頭を抱えて、辛そうに眉を寄せる。
ここのところ、俺とのレッスンが終わった後も、自主的に復習をしていたのを知っている。きっと勉強詰めで、ストレスが溜まっているのだろう。
「おい、大丈夫か? 今日は休むか?」
そう声をかけると、サムはゆるりと首を振った。
「ううん、平気……。ぜんぶ書けるようになるまで、あと少しだもん。頑張らなきゃ……!」
「…………」
気合いを入れてペンを持つサムだが、明らかに力が入っていない。画用紙に引く線もよれよれで、勉強などできる状態でないのは明白だった。
俺は身体のコントロールを奪い、そっとペンを置く。戸惑うサムに、なるべく優しい声音で、
「無理すんな。俺が表に出といてやるから、引っ込んで寝てろ」
「で、でも……」
「体調悪い時に勉強したって、身につかねえよ。どうせ後でやり直す羽目になるんだから、二度手間だろ? だから今は、しっかり休んどけ」
「……うん、わかった……」
なんとか説得すると、サムは大人しく目を閉じた。すぐに眠りについたようで、すうすうと安らかな寝息が聞こえてくる。
そっと寝顔を覗き込む。半開きの口から涎を垂らして、子供らしい、あどけない寝顔だ。いつもの憎らしさが嘘のようだった。
「……ったく。しおらしくしてりゃ、可愛いのにな」
思わず呟いてから、はっと口を押さえた。……今、俺は何て言った? 可愛いって? このクソガキが……?
……いや、ないない。クソガキは180度回ったってクソガキだ。どうせまた起きたら、クソコバヤシだのウンコバヤシだの、おかしな蔑称で俺を呼ぶのだ。まったく、年上に対しての敬意も何もあったモンじゃない。
元気にはしゃぎ回るクソガキの姿を想像して、溜息を吐いた。
終
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この後、なんやかんやでサムくんの事が気になってきちゃうコバヤシくん。
サムくんからも信頼を得て、ティチくんへの手紙を託されるが、サムくんをティチくんに取られるのが嫌なのでポッケナイナイして(隠して)しまう。
それがサムくんにバレてめちゃくちゃケンカしてからの、なんやかんやで仲直りして幸せなキスをして終了
の、予定でした!