村人視点オクバデBSSの加筆 村人の心を完全に砕く、決定的な出来事があった。
それは、青年が仕事相手と親睦を深めるために隣街で飲み会に参加した日のことだった。生来他人と会話をすること自体が好きではなかったが、得意先からの誘いとあっては無下にできない。
それに、飲み会の場所として選ばれた酒場が、青年にとっては好ましい店だった。酒場としては広く明るく清掃も行き届いており、食事や酒も美味しく活気に溢れている。数える程度にしか訪れたことはなかったが、『まあこの店で奢ってもらえるなら飲み会に参加してもいいか』と思えるくらいに、端的に言って良い店だった。
仕事相手の自慢話を半ば聞き流しながら、媚を売るような相槌を打つ。
その作業を繰り返していた時に、事件は起きた。
「ここです、街の人がおすすめしてたお店」
「やかましいな。頭が痛くなりそうだ」
涼やかな低音が、アルコールで酩酊した頭を殴りつけた。聞き間違えるはずがない。この愛想がなく、突き放したようなこの声は。
青年は息を呑み、覗き見でもするような気持ちで声のする方に視線をやった。
「他の店にしますか?」
「いやいい。ある程度賑わっていた方が、我々の声も他人に聴かれにくいだろう」
ああ、やはり。
青年は全身の血の気が引くのを感じた。背筋に冷たいものが走っているのに、たまらなく顔が熱くて汗がたまらない。
懸想してやまない副助祭が、この店の中にいた。当然のように大男を連れて。
隣にいるはずの仕事相手の声がはるか遠くに聞こえる。まるで水の中にいるみたいに、店の喧騒がぼやけて耳に届くのに、バデーニ達の声だけがやけに鮮明に聞こえた。
「バデーニさんは、こういうお店来たことないんですか」
「当然、ない。他人と食事をとりながら会話するなんて非効率の極みだろう」
大男の顔がパッと華やぐ。『じゃあ俺とが初めてなんですね!』と言わんがばかりにキラキラ輝く瞳から、バデーニはさっと視線を逸らした。
「……なんせヨレンタさんを招くんだからな。治安の悪い酒場でないか、身をもって下見すべきだ」
どうやら、知人との飲み会を開催するための下見としてこの店に来ているようだった。
ただの下見であれば、大男一人にやらせればいいのに。
青年はぎり、と唇を噛む。自分でもわかるくらい顔を歪ませてしまったが、仕事相手は完全に泥酔していたため何とかバレずに済んだ。
それからもバデーニと大男は多少のアルコールと食事をとりながら会話を続けていた。といっても、大体は大男が何かを話題をふっては、バデーニが素っ気なくつれない言葉を返すか、かと思えばまるで聖書でも暗唱するかのように滔々と論破したり自説を語るかの繰り返しだったが。
友人同士の会話というにはあまりに刺々しすぎるけれど、それでも彼らの会話にはある種の――ともすれば友情を超えていると思わせる程の信頼が感じられた。
相手にどんなことをどう言おうと、二人の関係に罅が入ることはないとお互いに確信しているような、不思議な安心感がそこにはあった。
ずるい。少しでもバデーニとの会話を長引かせるために沢山の質問や相談事を用意していった日々を思い出し、青年の胸が締め付けられた。
「………………」
流れる水のように話し続けていたバデーニが、急に押し黙った。なにか大切な話をしようとしている時のような空気感に、青年は一層耳を澄ませた。
バデーニの端整な顔を盗み見る。アルコールのせいかほんのりと白い肌に赤みがさしていた。灰色がかった薄青の瞳が潤んでいる。
傷跡の目立つ唇が、聞き慣れない単語を呟く。よく聞き取れなかったが、それはおそらく、大男の名前だった。
「……目的が達成された以上、私は近々村を出るつもりだ」
バデーニの言葉に、青年は目を見開く。
「修道院長が私の悪評を広めてしまっているらしいから、還俗して身分を偽る。あとは貴族や学問好きの富裕層相手に家庭教師をして当分のツテと収入を得る予定だ」
まるで決定事項のように紡がれる言葉達に、青年は頭を殴られたような衝撃をおぼえた。バデーニが、村を出てしまうだなんて。そんなの、信じたくない。
奇しくも大男も青年と同じくらいの衝撃を受けたのか、
「………………は、え、あの、」
死刑宣告でも受けたかのように顔を青ざめさせて、視線をあちらこちらに泳がせた。
大男の唇が震えた。
「あの、俺はどうすれば」
いかにも不安げにバデーニの表情を確認するその大きな図体は、まるで捨てられそうな子犬のようだった。
「どうすれば……だと? 君、自分の行先も自分で決められないのか」
バデーニの唇が紡いた言葉は、ひどく渇いて冷たいものに聞こえた。
だが違う。青年や他の村人と接する時の冷たさとはまるで違う。
自分の中にある熱いものをなんとかして抑え宥めすかせるために、わざと冷たくしているよな、偽りの温度だった。
バデーニは自分のグラスの中に注がれていた酒を一気に飲み干した。そして長い長いため息をついた後、小さな声で囁いた。
「初めて会った時、君は私にとって異様で不気味な存在だった。血の匂いがするくせに、加害性を欠片も感じさせない。その馬鹿でかい図体を、少しでも小さく見せたいかの如く卑屈に縮めていた。何もかもが不揃いで、人間としての軸が何一つ調和していなかった」
吐き捨てるような言葉。しかし、その次に放たれたのは、おそらくバデーニにとって、
「……けれど、最近の君は存外悪くない顔している」
最大級の、賛辞であった。
そんなふうに言われると思っていなかったのか、大男は魂を抜かれたみたいにぽかんと口を開いている。白い指先が大男の唇を優しくなぞり、口を閉じさせた。
「君の進退についてだが」
副助祭はふ、と口角をあげた。まるで夜空に輝く月のように美しい笑みだと、村人は思った。
「君の好きにしろ」
君自身の意思で、私と共に来ることを選んでくれ。
青年にはそう言っているようにしか思えなかった。