ユーゴー・イン・ワンダーランド「困るなぁ〜。ボク、女の子連れてきてって言うたはずなんやけど」
「あァ!?人間のオスメスの区別なんざつくかよ!」
ニヤニヤ笑う猫と目付きの悪い兎の言い争いに挟まれて、小さなユーグラムはすっかり困っていました。
ユーグラムは伯父さんの言い付けで、森で兎を捕まえようとしていたのです。ぴょんぴょん跳ねる二羽を見つけて追いかけていると穴に落ちてしまい、怖そうなお兄さんの姿に変わった兎たちに逆に捕まってしまったのでした。
「だがこの人間は指示された通りの特徴だ。金髪、青い目、青と白の服を着ているだろう。それに妙な力も感じる」
懐中時計を持った兎が不満そうに言いました。確かにユーグラムは膝丈までの青のエプロンドレスに白いタイツを履いて、頭にはカチューシャを付けています。頬は滑らかでまろく、伸びた金髪はふわふわと柔らかくて、大きな瞳を囲む同じ色の睫毛は夢見るように厚かったので、少女と勘違いされても仕方のないことでした。
「せや、気になってたんやけど、キミなんでそんな格好しとるん?」
「その…伯父さんが、女の子用の服しか買ってくれなくて…」
「……君は家に帰らない方がいいのではないか?」
水煙管を吹かしていた盲目の芋虫が心配そうに呟きました。彼は色々とあり世をひねて芋虫になってしまったのですが、元々は情深い男なので、幸せとは呼べない家庭にいるのだろう少年を不憫に思ったのです。
「大体よぉ、性別って話なら女王はどうなんだ。アイツだってオスだろうが」
「それもそやね。まぁとりあえず来てもらおか」
「… 俺はもう一度本来の人間を探してくる」
「あぁ、頼んだぞ」
こうしてユーグラムは、よく分からないままチェシャ猫の案内でお城に連れていかれることになりました。
ちなみに人間界に向かった白兎はそこで心優しいパン屋の娘と出会い、アリスものの乙女ゲームの攻略対象みたいになるのですが、今はまだ誰も知りませんでした。
「ようこそ、私のワンダーランドへ。歓迎しようユーグラム」
ハートの女王は玉座に座ったまま、悠然と微笑んでユーグラムを迎えました。美しい人ではありますがどう見ても男で、けれど道中で不思議なものを散々見てきたユーグラムはそういうこともあるかと納得することにしました。
「あの…ぼく、帰らないと。伯父さんが怒るから…」
「それはできないな。君はこの国にとってのワイルドカード──切り札になるべき存在なのだから」
彼の治める赤の国は、隣の白の国と長い間争い続けているのだと女王は語ります。
「白の女王ユーハバッハを打倒し得るのは同じ女王の資質を持つ者のみ。だが私はこの玉座を離れるわけにはいかない。今の君は未だ非力で矮小な歩兵だが…時が来れば堂々たる王の半身になるべき駒なのだよ」
「…えぇと…」
「横からすんません女王陛下。トランプとチェスで例えたせいで逆に分かりにくくなってません?」
「──要するに、君には力がある。それを私のために使って戦えということだ」
そう言われても、ユーグラムには何のことだか分かりません。彼はずっと不器用で貧弱で、一人では何もできない役立たずだと馬鹿にされてきたのです。女王が期待するような働きはとても無理だと思えました。
「ここでの暮らしは面倒を見よう。あぁ、逃げ出そうなどとは考えないことだ。首を刎ねてしまうからね」
王杓を振った女王に笑顔でそう言われてしまえば、もう黙って頷くしかありません。
その夜のユーグラムは不安でしくしく泣きながら、あてがわれたお城の部屋で眠りにつきました。
ワンダーランドでの生活は、思ったよりも快適なものでした。部屋のベッドは家のものよりふかふかですし、食事も三食用意されます。城の庭の白薔薇を赤く塗り替える仕事を真面目にこなしていれば、殴られることももっと嫌なことをされることもありません。
けれどこのままここにいては、恐ろしい白の女王を倒しに行かされてしまいます。逃げたくても大勢のトランプの兵士に監視されているので、ユーグラムは憂鬱な気持ちのまま毎日ペンキを塗っていました。
しばらくたったある日、ユーグラムは森の中のお茶会に招待されました。主催者は帽子屋兼科学者の男です。
「女王に頼まれていた薬が完成してね。肉体を巨大化させる作用のあるキノコを素材にして開発した、物質的なサイズではなくタイムライン上の成長を数万倍の速さに促進する画期的なものさ。進化薬とでも呼ぶべきだろうね」
帽子屋はよく回る口で喋りながら、ユーグラムにガラスの小瓶を渡します。
「これを飲めば君は一瞬で成長した未来の姿になれる。──力が欲しくはないかい?」
飲み干すように促されても、ユーグラムは瓶を握りしめたまま怖くて中々動けません。帽子屋の眼鏡の奥の瞳が苛立って細められた時、あの日の兎の片方が慌てた様子で飛びこんできました。
「騒々しいな。僕の茶会の邪魔をしないでもらおうか」
「おい帽子屋、敵襲だ!白の国の騎士が単騎で乗り込んできやがった!」
その言葉が終わらないうちに、いななきと共に立派な馬が駆けてきます。手綱を握る白い鎧の騎士は、ユーグラムに手を差し伸べて叫びました。
「掴まれ、ユーゴー!」
知らないはずなのにとても懐かしい声で名前を呼ばれた瞬間、ユーグラムは夢中で手を伸ばしていました。騎士は小さな体を力強く攫うと、愛馬に乗せてあっという間に走り去っていきました。
ここまで来れば大丈夫だと呟いて、木漏れ日の差す森の外れで騎士は手綱を緩めました。
鳥のトサカのような飾りの付いた兜を外すと、トサカのような髪が広がります。背中にしがみついていたユーグラムは、その鮮やかな赤色に大きく目を見開きました。
「やっぱり…やっぱりバズだ!なんで、どうして大人に?」
「なんだよ。俺のこと覚えてんのか」
「忘れるわけないだろ!だって、あんなお別れで…」
バズはユーグラムのたった一人の友達でした。自分に自信が無くて、いつも下を向いていたユーグラムの手を取って、色々なことを教えてくれた親友でした。──半年前、バズが家族と共に火事に巻き込まれたと聞いた日から、ユーグラムの世界は色を失くして暗く凍りついたままだったのです。
「そうか、こことあっちじゃ時間の流れが違うからな。お前にとっちゃ最近のことなんだな」
新緑の瞳を懐かしそうに細めてバズが呟きます。火事に遭ったバズは目を覚ますとワンダーランドにいて、もう十年近く過ごしているのだと言いました。今は白の女王に仕えているのだそうです。
「陛下にお前を連れてくるよう命令されたんだが……。心配すんな、ちゃんと家に帰してやるよ」
安心させるようにそう言われても、ユーグラムはちっとも嬉しくありません。けれど何と返していいか分からずに、最後に見た時よりも随分と広く逞しくなった背中に額を押し付けました。
その時でした。静かな森の中に、荒々しい蹄の音が響きます。
「見つけたぞ!陛下に逆らう叛逆者め、捕えろ!」
「チッ、ヒューベルトか!もう嗅ぎつけやがったか」
バズは鋭く舌打ちすると鞍から飛び降りました。愛馬の手綱をユーグラムに握らせます。
「いいか、森の奥に向かって振り返らず進め!コイツに任せれば勝手に走ってくれる」
「待ってよバズ!まだ…!」
「元気でなユーゴー。お前にまた会えて、本当に嬉しかったぜ」
どこまでも優しい声でそう告げて、バズが指示を出すとあっという間に馬は走り出してしまいます。
振り落とされないよう必死で掴まるユーグラムの睫毛に涙が散りました。せっかく再会できたのに、バズに守られてばかりの自分が情けなくて仕方ありません。バズはユーグラムのことをユーゴーと呼びました。きっと彼もワンダーランドに来てからずっと、幼馴染を忘れず想い続けてくれていたのです。
馬の背で揺られるユーグラムのエプロンの中で、かちゃりと小さな音がしました。帽子屋に渡されてそのままだったガラスの小瓶です。
透明な薬をじっと見つめ、ユーグラムは覚悟を決めて蓋を開けました。
その頃、一人残ったバズは追手と勇敢に戦っていましたが、ついに袋小路に追い詰められてしまいました。
「フン、騎士風情が僧正に勝てるとでも?我らは赤の国と違って野蛮な首切りなどしない、代わりに磔にして街中を引き回したあと縛り首にしてやろう」
白の僧正は馬上から勝ち誇った笑みを浮かべます。ですがその笑顔は、土煙を上げて猛然と近づいてくる一頭の馬を見て引きつりました。
「ん?貴様、先程の……はぁ!?待て待て、なんだその姿は!?」
「──バズ!その剣貸してくれ!」
同じくぽかんと口を開けたバズの手から、立派な剣を取り上げてしっかり構えます。
「隙あり!獲った!」
僧正は剣の一閃を受け止められず落馬し、きゅうと声を上げてすっかり目を回してしまいました。
「遅くなってすまない、バズ。怪我はないか?」
日の光を背にして手を差し伸べた騎手は、すらりと伸びた長身に豊かな黄金の髪をして、涼やかな青い瞳はどんな乙女もうっとり溜息をつくほどです。まさに完璧な王子様と呼べたでしょう。着ている服がフリルの付いたエプロンドレスでさえなければ。
「……ユーゴー、だよな?お前……男だったのか…!?」
「えっ今頃…!?」
それからというもの、ユーグラムはバズと共に赤の国と白の国から送られる刺客をことごとく返り討ちにして、もう二度と手は出しませんという約束を取り付けました。
こうして立派な女王として認められたユーグラムは、美しい湖のほとりに一軒の家を建てました。お城と呼ぶには随分と小さなものでしたが、バズと二人ならユーグラムにとってはたとえテントでも最高のお屋敷でした。
白の女王の騎士から金の女王の騎士になったバズは、初恋の幼馴染が男だったことにしばらく悩んでいました。ですが格好良い大人に見えるユーグラムも、気を抜くとすぐに可愛らしくて放っておけないユーゴーに戻ってしまうので、やっぱり好きだなと噛み締めていつまでも末永く幸せに暮らしました。めでたし、めでたし。