ベッドサイドに置かれた箱へと手を伸ばす。蓋を押し上げればいつも通り、無抵抗に口を開けた。今は点いていない滅菌灯のガラス管の下、まず目に付くのは見覚えのない一本の棒だ。
……また増えている。呆れと、焦りと、腹を炙る二種類の熱に黒い眉根が寄った。しかしこの箱の持ち主は、自分に非があるなんて思ってもいない口調でこちらを糾弾しやがるのだ。
「おいヴォクシー、400年前なら他人の持ち物を許可なく漁るのを許されたのかもしれないが、今は2022年だ。いい加減、昔を懐かしむより価値観をアップデートするべきじゃないか? なに難しいことじゃないさ、学び続ければ脳の衰えは遅くなるって研究結果も出てる」
「喧しいぞファルガー」
礼儀のなっていないサイボーグは、立ったまま食事を摂りながらペラペラと舌を回す。いつもならその銀の舌を引っこ抜く勢いで応戦してやるのだが、今はそれどころではない。ヴォックスは長い黒髪の間から、苛烈な金眼でファルガーを睨みつけた。
「これは俺の義務だ。馬鹿な仔羊が道を踏み外さないよう、監督してやる必要がある」
「悪魔が羊の監督だって? 面白い冗談だ、お前には荷が勝ちすぎるよヴォクシー。その仕事は俺みたいな善良な羊飼いに任せた方がいい。お前の仕事はその矢鱈いい声で贖罪の山羊たちを率いることだろう?」
食い縛った牙の合間から、低い唸りを漏らしてしまう。なんとまあ、うるさい男だろう。きっとあの口は喋り散らかすことにのみ最適化されているに違いない。その証拠に、赤い義手に握られたチキンラップは1時間経ってもまだまだ嵩を残している。
電球色の灯りを赤く照り返す黒髪をガリガリ掻き回し、ヴォックスは喉に渋滞した言葉の列を飲み下す。そして通りの良くなった道に新たな言葉を昇らせつつ、箱の中から辛気の種を引っ張り出した。
「ならばお聞かせ願おうか羊飼い殿、これは一体何なんだ?」
時刻は窓から差し込む西日も色褪せきった頃。煌々と灯された室内灯の下、闇色のネイルに抓まれて、銀色の細長い棒が示された。
先端とグリップの根元に作られた数珠状の細工と、全体を湾曲させる緩いカーブが艶々と灯りを反射させる。それを眼前に突き付けられたファルガーは、棒と同じ銀の髪の下、銀色の目を二度ほど瞬かせた。けれど答えを返すべき口は、チキンの欠片を悠長に幾度も噛み潰している。
いい加減キレそうになる直前、赤と黒の機械を巻いた喉がごくんと口の中のものを飲み下す。そして、いい加減キレさせようとしているのかと思ってしまうような口調でヴォックスの問いに答えた。
「見たことないのか? 尿道ブジーだよ」
Fワードを怒鳴り散らす。今更そんなもの恐れもしない半機械の男は、実にリラックスした顔つきで夕餉をちまちま味わっていた。
「ファルガー、ファンガス、このクソったれの錆び付いたトースターめ‼ ケツの穴に飽き足らず小便の穴まで開発し始めたのか‼」
「いや、使ったのは一回きりさ。挿れてみたんだがメチャクチャ痛くてな、開発のしようがない。どうやら俺にはソッチの才能はないらしいから安心していいぞ、ヴォックス」
宥めるようなことをほざくが、その声はチキンラップを含んでいる所為でモゴモゴとくぐもっているし、内容も内容だ。食事を摂りながらあっけらかんと口に出すような話題ではない。ヴォックスはその長い黒髪を逆立てる勢いで食って掛かった。
「安心⁉ 何を安心しろと言うんだこのファッキン・セクサロイドめ‼ 少し目を離しただけでアレコレ勝手に咥え込んで、お前はハイハイが出来るようになったばかりの赤ん坊か⁉ それとも食っていいものと悪いものの区別もつかない犬や猫か⁉ ビニールを飲み込んで死ぬ魚の方がよっぽど賢く見えるぞ‼ その真っ赤な2本足で、立って歩いて無意味にペラペラ口を回しているなら最低限人間らしい知能を披露したらどうだファルガー‼」
呼びつけられて、機械を巻いた白い喉が再び夕餉を嚥下する。薄い唇の合間から舌を伸ばし、満足げに口の端を拭う姿は先程口に出した通り猫のようだった。けれどあの尻尾の生えた小さな天使と比べるべくもなく、目の前の男には可愛げというものが不足している。特にヴォックスの前ではそれが顕著だ。紫の滲む銀のまなこを撓め、口の端を愉快そうに吊り上げてファルガーは嘯いた。
「何をそんなに怒ってるんだい、お爺さん。大体にしてだ、俺にこの手のオモチャを紹介してくれたのは他でもないアンタだろう、ヴォクシー?」
「…………」
それを言われると、ご自慢の舌鋒もポッキリ折れてしまう。白い牙を擦り合わせ、喉の奥を不気味に震わせながら、敗北感に他所を向く。そしてヴォックスは、悔恨に塗れた過去について思い返すのだった。
はてさてあれは、何の集まりだったか。ENの皆で集まる前のことだったか、それとも解散した後だったか、たまたま都合の付いた者同士で顔を合わせたのだったか。
仔細は思い出せないが、とにかく3人で落ち合ったのだ。ヴォックスと、ファルガーと、あと一人で。
サイボーグから「少し遅れる」との連絡が来る前から、鬼はご機嫌になっていた。何か面白いことでもあったのか、既に酒が入っていたのかも覚えていない。だが後輩の遅刻を知った瞬間、もう一人に何を言ったのかはしっかりと覚えている。
こともあろうに、「あいつのあのガラクタの手じゃオナる時cockの皮を挟んじまうんじゃないか? 今後の健全な生活の為に、何かひとつセルフプレジャーの道具を見繕ってやろうじゃないか」などとほざいてしまったのだ。
誓って言うが、ヴォックスとて所構わず、誰彼構わずこんな卑猥なことを言ったりしない。当時の居場所が歓楽街でなければ。そして共にいたのがピュアな呪術師や、POGなマフィアのボスや、可愛らしい文豪であったなら、きっと舌の先にだって上らせたりしなかっただろう。
だがそこにいたのは、ミスタ・リアス──ピュア度テストで最低点を記録した、susな探偵だけだったのである。
ヴォックスの馬鹿げた発言に、ミスタはバカウケして躊躇もせずに乗っかった。そのまま二人で怪しげな店に入り、アニメチックな女の子が描かれたメイドインジャパンのオナニーホールを購入。そして遅れてやってきたファルガーを捕まえてその辺のパブに入り、席に着くなりそれを渡したのだ。2022年へようこそ、寂しい夜はこれで愉しんでくれたまえよ、と。
サイボーグは真っ白い瞳孔までもを丸々と見開き、オナホールを見つめてこう言った。
──これは何に使うものなんだ?
まあ何とも無垢で可憐な質問に、悪い先輩方は爆笑して使い方をご教授してやったものだ。後輩は恥じらうでもなくハハアと頷き、「そうか、この時代だとこういったものを使ってオナるんだな」と研究者みたいな口を利いたのだった。
聞けばファルガーの元いた時代では、バーチャルリアリティーを使った自慰が主流なのだという。首のコネクターに直接ケーブルを繋いで、電気刺激による偽物の五感に身を委ねて愉しむのだそうな。後日、ヴォックスが映画『フィフス・エレメント』を見せてやった所、当該のシーンで「あぁ確かにこんな感じだな、流石にわざわざ施設まで足を運んだりはしないが」などと言って笑っていた。
ミスタはサイバーパンクのオナニー事情に興味津々らしかった。男が女の、女が男の快楽を疑似体験できるだけでなく、動物になって同族との繁殖体験も出来るジャンルがあると聞いて、テーブルをバンバン叩きながら大笑いしていた。ヴォックスには、何ひとつ面白く感じられなかったけれど。
400年前からやって来た鬼にとって、セックスで最も重要視しているのは交歓だ。自身の声に、体に狂わされ、どろどろに蕩けて愛を乞う相手の姿にこそヴォックスは興奮する。
たぶん、だからだろう。つい矢鱈と高圧的に、
「へえ。じゃあVRオナニー中毒のふーふーちゃんは、まだcockが坊やのままなのか?」
などと突っかかってしまったのは。唐突にきつい揶揄をされたファルガーは変な顔をしていたし、ミスタは更にけたたましく笑い出した。
「おいおい聞いたかファルガー、ヴォックスはロボットがどんなセックスすんのか気になってんだってさ!」
「だから俺はロボットじゃなくてサイボーグだと……あぁまあいいよ」
既に強かに酔ってしゃっくりを繰り返している探偵の前に、真っ赤なサイボーグアームが水を置く。ほら飲んでおけ、他に食いたいものあるか? と甲斐甲斐しく世話をしてやりながら、銀のまなこはヴォックスをも観察していた。
ミスタと同じく酔っ払っているのか? それとも機嫌を悪くするようなことがあったのか? 銀の中央に浮かぶ真っ白い瞳孔の、その診断するような視線が肌に痛い。けれど、先に突っかかった手前ここで敗走する訳にはいかなかった。腕を組んでふんぞり返り、顎を上げて未来人を嘲り笑う。完全に虚勢だった。
「どうしたファルガー? どうか俺に教えてくれないか、天下無敵のロボットのセックス遍歴というやつをさ」
「はぁあ。お前も相当酔ってるな、ヴォクシー?」
そのパブがどんな内装だったのか、ヴォックスは覚えていない。ただ、色付きのライティングだったことだけは記憶していた。
こんな色の灯りの中でさえ、白々と素面の顔をしやがって……と、ファルガーを憎たらしく思った記憶だ。赤い装甲に覆われた手で頬杖を突いた顔は、対比でいよいよ白く見えた。
「遍歴、と言えるほどのご大層な経験はないよ。大体one-night standでお終いだったし」
「へえ~、なんか意外だわ」
酔っ払いのふわふわした声で、ミスタがヴォックスの代弁をしてくれた。
「なんか、ファルガーはレンアイ長続きするイメージあったわ、あれ、あの、浮奇! 浮奇とするみたいなさぁ、スウィ~~~トな感じ」
「スウィートねえ」
取り上げたグラスから飴色の酒を舐めつつ、サイボーグは赤い三角波の走る目を眇めてみせる。
「俺もそうしたいのは山々なんだが、相手がどうもなあ。ヤッた後か、酷い時にはヤる前からこう言われるんだぞ?」
肉厚のガラス底が、テーブルに当たって重い音を立てる。つるりとした光沢の、銀の髪の先が揺れた。赤くなりやすいのだと聞く肌は、けれど未だに染まっていない。暗い色の、そこは自前だと言う短い睫毛をピンと上げて、銀色の瞳があどけなくヴォックスを見つめている。
そしてファルガーは、リキュールに濡れる薄い唇を開いて囁いた。
「──『それで、cockのサイボーグ化手術の日程は?』」
甲高く裏返らせた下手くそな女声に、ミスタがテーブルを叩いて大笑いする。
「ねーーーわ! ねーーーわそれヒッデーーーわ‼」
「な?」
先程までの無垢な顔を拭い捨てて、半機械の男は粗野な仕草でグラスを呷る。そうしながらも、笑い過ぎてテーブルに突っ伏した挙句にソファからも落ちそうになっている天才探偵を、片手で引っ張り上げてやっていた。
「オレ、お前の時代に行ったら絶対にcock改造するわ。ブルブル震えたりグルグル回ったりさせる」
強力なサイボーグアームに優しく抱え上げられながら、ミスタはゲラゲラ笑って冗談を言う。対するファルガーは、長い前髪の下の眉を顰めた。
「やめとけ、危ないぞ。手術代が高い癖に保険はきかないし、それ以前に安全性が確保されてないんだ。ご自慢の長物が使い物にならなくなるぞ、ミスタ」
ご忠告に返って来るのはしゃっくりだけだ。ヴォックスも只管、舌をアルコールで痺れさせる作業に従事し続けた。
なるほど、なるほど。その決して安価ではない、しかも安全ではない手術を、一晩を共にしただけの相手に強請るような奴らとファックしていた訳だ、この電気羊は。
不機嫌な唸り声を、重たいウイスキーで胃の中に落とす。天才探偵をソファに凭れ掛けさせたファルガーは、笑いを含ませた銀瞳でヴォックスを流し見た。
「……と、こんなもんだが。どうだヴォクシー、お前の知的好奇心を満たすことは出来たかな?」
「……あぁ、あぁお陰さまでな。どうもありがとう、兄弟」
「どういたしまして」
長い前髪の下で、銀の瞳が紫色を滲ませて笑う。その何でも分かっているかのような視線を瞼で切って、鬼は只々酒で舌を馬鹿にさせ続けた。
そのまま痛飲した結果。ほどなくベロベロに酔っ払った先輩ふたりの世話を、ファルガーに押し付けるという報復には成功した。しかし同時に翌日、ヴォックスは酷い二日酔いを味わう羽目に陥ったのである。
──何もかもあのポンコツのせいだ。情けなく自宅の便器にしがみつきながら、齢ウン百歳の鬼はゲロと一緒に呪いの言葉を吐いたのだった。
まあだがしかし、これはまだ笑い話の範疇である。これに続くのは、まったく冗談に出来ない酷い話だ。これで笑う奴がいたら、そいつは人間の心を持っていない。鬼が言うんだから間違いないだろう。
それは、二日酔いの後悔が薄まった頃のこと。とうに日も暮れた夜の時間、ヴォックスは酒のグラスを片手にパソコンに向かい合っていた。いつもの配信ではない。完全にオフの通話だ。そしてそのお相手は、件のポンコツ電気羊ただ一人であった。
『あぁそうだヴォクシー、ちょっと訊きたい事があったんだが』
「何だ、ファルガー? 言ってくれ」
当時のヴォックスは、それはもう酒の席を愉しんでいた。誰に憚ることのないプライベートな時間に美味い酒、そして相手は気の置けないENの仲間。
特にファルガーは、とても話しやすい相手だった。口喧嘩を期待されていない状況であれば、あの銀の舌が毒や皮肉を吐くこともそうそうない。ヘッドホン越しに耳へ流れ込む低く深みのある声、穏やかな話しぶり、温かな言葉の数々。ヴォックスは日々の緊張を解きほぐされ、家族といるような気分で寛ぎきっていた──そんな時に、かの偉大なポンコツトースターはこう言った訳である。
『ディルドとバイブレーターってどっちの方がイイんだ?』
喉に流し込んでいた酒が逆流した。きついアルコールが鼻の方にまでせり上がり、粘膜を焼かれるツーンとした痛みがヴォックスを襲った。堪えられる筈もなく目に涙が浮かび、肺が引っ繰り返りそうな勢いで咳き込む。マイクを遠ざける余裕もない先輩に、後輩は艶やかな髪の先を揺らして首を傾げた。
『大丈夫かヴォクシー? カメラ越しじゃ良く分からんが、もしかして相当酔ってるのか?』
ちょっと早いがお開きにするか、などと親切ごかして言う常識人ぶったツラを、鬼は涙に濡れた金色の目でギロリ睨む。思わずサイボーグの口癖が飛び出した。
「How Dare……お前のクソッタレなジョークの所為だろうが」
あのケロリとした態度から察するに、どうせ先程の発言も“Deeze nuts”や“Under where”のようなジョークに違いない。どこぞから新しいネタを仕入れて、年寄りを揶揄おうとしているのだ。
嗄れた喉でそう断じてやれば、薄く紫がかった銀瞳が丸く見開かれた。
『ジョーク? 何の話だ?』
「さっきのディルドだバイブだって話に決まっているだろう」
本当なら、この5倍は口を回して糾弾してやりたい。だが酒に焼かれた気管が痛み、咳も未だ治まり切らない。涙を拭きながら、横に置いた水のボトルに手を伸ばす。忙しいヴォックスを後目に、画面越しのファルガーはアマレットのグラスを揺らしていた。
『いや、ジョークなんかじゃないよ。開発と拡張が終わったから、そろそろ次の段階に行こうと思って』
「は???」
手元のボトルから水が吹き溢れた。キャップの封を切った瞬間に思い切り握ってしまった所為だ。お気に入りのスウェットがびしょびしょに濡れたがそんなこと気にしている場合ではない。
「な、なに? 何だって? か、開発? 拡張? 何の話だ? 土地か???」
『ヴォクシー、お前やっぱり酔ってるって。水を飲んでもう寝た方がいい。明日が辛くなるぞ』
「俺が酔ってるんじゃなくてお前がおかしいだけだ‼」
一口も飲まないまま量を減らしたボトルをデスクに叩き付け、椅子を引き摺ってウェブカメラに近付く。頭がクラクラするのは、決してアルコールの所為などではない。ヴォックスは必死になって、銀髪の下の膚を赤く染め始めた男を掻き口説いた。
「聞け、聞けファルガー! お前さっきから何の話をしている? ディルドだのバイブだの開発だの、お前、それじゃあまるで、」
まるで、の後が続かない。何百年と親しんだ英語が頭の中でさえ生成されない。吐き出す単語もないのに、唇が無意味に開閉する。そして鬼を混乱に陥れたサイボーグは、酒の口紅を舌で拭い。
『あぁ、アナル開発の話だよ──もちろん、俺のな』
頼んでもいないのに、そう正解を口にしてくれた。ヴォックスは俯き、頭を抱えてしまう。
アナル開発? もちろん俺の? どうして「もちろん」などと──「言うまでもなく」なんて意味を持つ言葉をわざわざ添える? というか、なんでそんな場所を開発している? 何のために? ……誰のために?
『で、ヴォックス。水飲んで寝る気がないなら、俺の質問に付き合ってくれるんだろう? どっちがイイのか、参考にするから聞かせてくれよ』
衒いもなく強請る声。垂れ落ちる前髪の間から、挑発的に顎の先を上げるファルガーの姿が垣間見えた。どうして二人の間に液晶が挟まっているのだろうとヴォックスは思った。こんな邪魔なものさえなければ、今すぐに腕を伸ばして襟首掴んで引き寄せて、それで……それで?
何をしようと言うんだ、ヴォックス・アクマ?
「し、……知るかそんなこと‼ お前のファックバディに訊け‼」
デスクを平手で叩き、動揺を激昂で誤魔化し隠す。
脳を沸き立たせる激情の中、一匙の冷静さが「まずいことを言った」と悔恨を漏らした。怒鳴るにしても、何故「ファックバディ」などと限定してしまったのか。セックス以上の関りを持たない相手ではなく、……互いに愛情を交わす……恋人、がいる可能性だって、ない訳ではない。……かもしれない。
そして真面目な交際の相手をファックバディなどと呼ぶのは、紛れもない侮辱だ。今すぐ謝罪すべきだと説諭するボックス・テンシと、ここまで虚仮にされながら何で謝らなきゃならんと駄々を捏ねるヴォックス・アクマが頭の中で殴り合いを始める。
だが喧嘩の決着を待たず、呑気な羊が一声鳴いた。
『いや、ファックバディなんかいないよ。仕事が忙しいからな、恋人探す暇もない』
「は???」
天使と悪魔は掴み合ったまま、ぽかんと同じ間の抜けた声を漏らす。ファックバディなんかいない。恋人探す暇もない。……となれば、ファルガーは正真正銘の独り身である、という訳で……。
「じゃ……じゃあ何で、ケツの穴の開発なんかしてるんだお前は?」
『ただのセルフプレジャーだが?』
酒精で頬をぽっぽと赤らめたサイボーグが平然として言う。羞恥による赤面であれば、どれだけ可愛らしかっただろう。上機嫌に緩んだ顔の中、人工的な銀色の瞳は、真っ直ぐヴォックスを見つめている。
『未来に居た頃、偶に尻の穴を弄って貰うタイプのAVで遊んでたんだがな。この間、お前とミスタからオナホを貰っただろう? それで興味を持って、セックストイを調べてみたんだ。そうしたら、本当に色々なものがあって……で、考えたんだ』
一見して冷たく見える色素の薄い細面は、よくよく覗き込んでみれば品良く整った清楚な顔立ちをしている。内面に反した清らかな造りの顔で、ファルガーはいっそ愛らしく微笑んでみせた。
『こんなにオモチャのある現代なら、リアルに尻で感じられるんじゃないかってな』
そこでようやく、愚かなヴォックスは気付いたのである。
このファッキン・淫売・サイボーグの、押してはいけないスイッチを押してしまったということに。
回想終了。ヴォックスは黒い睫毛を上げ、滅菌ボックスの中身を見下ろした。
さきほど羊飼いからご教授いただいた尿道ブジーを筆頭に、この騒動の元凶たるオナホール、リアル志向のディルドや長短太細が揃ったバイブレーター、ビビッドカラーのアナルビーズにピンクのローター、色とりどりのアナルスティック、大人しい色合いのアネロスや大小のアナルプラグ──いつ見ても頭の痛くなるラインナップである。
そうだ、いつ見ても。ヴォックス・アクマはファルガー・オーヴィドの「宝箱」を、ちょくちょく検めていた。新しいオモチャが大体いつ頃増えたのかも知っているし、使用頻度も把握している。何なら使い方だって知っているし……使ってやったことだってある。
鬼は下げていた頤を僅かに上げた。怪しい箱から視線を剥がし、その持ち主に焦点を当てる。うねる黒髪の合間からジロリ見やったサイボーグは、相も変わらずチキンラップをちまちまと齧っていた。
トルティーヤ越しに生野菜を噛み潰す口元は、上機嫌そうに緩んでいる。飯が美味くて笑っている訳ではない。人を怒らせるのが好きなこの性悪は、ヴォックスの怒りを感じ取って喜んでいるのだ。畜生め。
性格の悪い半機械に向けて足を踏み出す。ベルトを付けた特製の雪駄は、ヒールの付いた洋靴のように威圧的な音を奏でない。足音の主が、どれだけ苛立ち腹を立てていたとしても。
スタスタとファルガーに近付いたヴォックスは、その真っ赤な義手の先から本日の夕餉を奪い取った。あっ、と呆気にとられた悲鳴を他所に、収奪品に喰らい付く。電気羊が小一時間かけて半分まで減らしていたチキンラップは、わずか1分足らずで鬼の食道を滑り落ちて行った。
「おいヴォクシー、それは俺の夕飯だぞ! 人のものを漁るのに飽き足らず人のメシまで盗むとか一体どういう了見ンむ!」
「静かにしてろクソガキめ」
口の端を汚したハニーマスタードを拭った親指を、クソ喧しい口に捻じ込んで黙らせる。そして黙らせた口より物を言う銀瞳を至近距離で覗き込んでやりながら、続けざまに罵った。
「尿道ブジーだったか? あからさまなオネダリをしやがって。痛くて開発のしようがない? ソッチの才能がないだって? 楽しくもないオモチャなんか、とっとと捨ててしまえばいいだろうが。それを態々、あんな目に付くところに出しておく理由なんぞ知れている──お前、俺にアレを使って虐めて欲しかったんだろう、ファルガー?」
銀の長い前髪の奥、深く寄っていた眉根が、途端に脱力した。吊り上がっていた眉尻と一緒に、薄い瞼が下りていく。短い睫毛の影が落ちる頬は、アルコールも入れていないのにほんのりと赤く上気していた。
あの忌々しいオナホも、リアル志向のディルドも、長短太細のバイブも、アナルビーズも、ローターも、アナルスティックもアネロスもプラグも。この箱の中身のすべてを、ヴォックスは使ってやったことがある。他でもないこの部屋で。もちろん、このいやらしい羊を相手にしてだ。
度し難いマゾヒストの挑発が、愛らしい哀願に変わるまで。
狂暴なサイボーグの手足が、震えるだけのガラクタに変わるまで。
クソ生意気なファルガー・オーヴィドが、我を失いヴォックスに縋りついて媚びを売るまで──徹底的に、容赦なく。
おしゃべりの口に捻じり入れていた親指を、温い舌がおずおずと舐める。言い訳の代わりか、肯定の阿りか。それとも単に発情しただけか……まあ、どれであっても愉しいが。
親指を咥えさせたまま、人差し指で顎裏を擽ってやる。猫にするような愛撫にぶるりと震え上がり、ファルガーは薄っすらと瞼を上げた。滲む紫を深めた瞳は、いよいよ頬を赤らめる熱に炙られて濡れている。
ついさっきまでの、いけ図々しく口喧しいサイボーグのものとは思えない、淫蕩な表情。どろどろに蕩けた、愛を──まあ単なるファックを愛と呼ぶスラングもある──乞う顔。ヴォックスが興奮して止まない、自身に狂わされた人間の顔だ。
親指を引き抜いてやれば、この短時間で興奮に粘った唾液が可愛らしい音を立てる。うるうると濡れた目が、鬼の指を物欲しげに視線で追う。ヴォックスは大変お優しいので、その視界を遮る銀の前髪を鷲掴みにして捻り上げてやった。
痛みと屈辱から漏らされる呻き声は、取り繕いようもなく甘い。それに満足感を覚えながら、鬼は己の懐に入れたサイボーグを憐れみ深く罵った。
「いいだろう、この救いようのない淫売め。お前の望み通り、あの玩具で小便の穴も犯してやる」
言い終わるや否や、掴んだ髪を引いて背後のベッドへ半機械の体を突き倒す。普段ならば倍は言い返してくる口は、今は掠れた息と押し殺した悲鳴ばかりを零している。俯いた顔は乱れた髪に隠されたまま、どこを見ているのかすら伺い知れない。
けれどヴォックスには解るのだ。背けられたファルガーの顔が──
「随分と嬉しそうじゃないか、ファルガー?」
「……っ!」
喜色を浮かべて歪んでいることに。