乾燥は嫌いだ、まあ好きな奴なんかいないけどな。薬局で買ったリップクリームを忘れてきてしまった私は、無意識のうちに舌で唇を舐めていた。
「あ~あんたって子は、またそうやって横着するんだから!」
「…なんか母親みたいな言い方だな」
「ふふっお母さんにも言われるの?」
「いや、母さんはそんな物言いはしない」
くすくすと笑いながら泉が小さいポーチを取り出した。その中からリップクリームを手に取り、反対の手のひらが私の頬に添えられる。
「っ、なんだよ…」
「もぉ、じっとしてて…」
「んっ」
平べったい面が口のはじに付き、そのまま上下に小刻みに揺らしながら横へと滑っていく。見ていられなくてつむったままだった目をそろりと開ければ、今しがた唇に当てられていたリップを手に何かを考えている面持ちの泉が見えた。
「いきなりやめろよ…。でも、ありがとう」
「…ねえ、ちょっと顔貸してくれない?」
「……は?」
そのセリフは、この後殴ってもいいかってことなんだろうか。いつの間にか地雷を踏んでいたのかと焦りをにじます私に「なんて顔してるのよ」とけらけらと笑い声がかかった。
「ねぇ、私のリップ塗ってもいい?」
「ん?今塗ったじゃないか」
「ちーがーう~」
そう声にしながら、今度はきらびやかな一本を手に取ってみせた。
「これ!」
「…はあ」
「はい、塗りまーす」
「ちょっ、おい泉!」
かちゃりと軽い音をたてながら蓋を外し再び頬を撫でてきた。
「…そういうの、興味ないんだが」
「似合うと思うよ?それに、この後拓也と会うんでしょ?」
「…そうだけど」
「これは予言です。
…これ塗った唇でキスしたら、たまんない気持ちになるわよ」
耳打ちされた言葉にカァッと顔が熱くなった。勢いよく後ずさる私ににやりと笑う。ここで「お願いします」と返せば、奴と口づけることを肯定しているようなものじゃないか。
だがコイツのいう言葉の真相が知りたくて、目一杯間をあけてから小さく頷くんだった。
***
「おーまーたーせっ」
「ぅわっ!おい、抱き着くな!」
背中にどんと衝撃が走り、前のめりになりながら振り返りざま叫んだ。腹の前に回された腕が苦しい。さっき泉と食べたパンケーキが出てきたらどうしてくれるんだ。
「だってさぁ……全然会えてなかったじゃんか…」
「仕方ないだろ、お互い都合がつかなかったんだから」
バイトだ試験だ課題だと、二人とも見事に時間が合わず久しぶりに顔を合わした。メッセージや電話でやり取りはしていたが、こうやって面と向かって話せてほっと胸が温かくなる。
拓也の目線がまじまじと注がれる。何か言うんだろうか…ここで「油ものでも食ったの?」とか言ってみろ、お前のその頬っぺたにキレイな紅葉柄が付くことになるからな。
「…なんかいつもと違う?…ん〜…気のせいか」
「……はぁ、なんでもない!ほら!行くぞ!」
「えっなに怒ってんだよ!!」
「怒ってなんかない!!」
そうだった、コイツはそういう奴だった。これが輝一とか友樹なら「綺麗な色だね、似合ってるよ」って褒めてくれるんだろうな。純平なら「泉ちゃんとお揃い?」とかまで気が回りそうだ。たまにだが、なんでコイツと付き合ってるんだろうと思う時がある。がさつで、私の扱いも女性に対するそれではない雑な感じでさ。別に花よ蝶よと扱ってほしいわけじゃないけどな、そんなのは今更気持ち悪ィ。
温かくなった気持ちが瞬時に冷え切り、一歩先を速足で進む後ろから「なぁ!なぁ!」と声と足音が追いかけてくる。掴まれた腕をぐんと引かれ足を止めた。
「…なんだよ」
「久しぶりに顔見れたのに、喧嘩なんかしたくねぇんだけど…」
「…はぁ…いや、私が悪かった。気にするな」
変に期待してしまったのは自分で、そんな気の利いたことが言える奴じゃないってのを承知の上で交際してるんだから。ここで不毛な喧嘩を吹っかけても時間の無駄だな、そう考えた私の言葉に、腑に落ちなそうな表情を浮かべた拓也が首をひねっていた。
「とにかくだ、ほら!飯行くんだろ?」
「おっおう…」
「なんだよ…」とぶつくさ口にしながら拓也の手のひらが差し出され、一瞬たじろいだ後そっと指を絡めた。
パンケーキを詰め込んだ胃袋じゃ何も入るわけもなく、それを前提で拓也が食べたがっていたラーメン屋へと入っていく。泉に知られたら大目玉を食らうだろうな。目くじら立てて「彼女と二人でラーメン屋なんて!ありえない!」とか怒りそう。別にそんなのまったく気にならないし、こんなうまそうに食べてる顔を見れるならどこだっていい。食べさせてもらった一口がおいしくて、レディースサイズの小ラーメンを頼んでしまったぐらいだ。
「…無理して食うなよ?」
「うっ…いけると思ったんだけどな…」
「あはは!苦しそうな顔~!」
「…笑うなよ」
すでに空っぽになったどんぶりを横によけ、私の前に置かれた二周り小さい器を拓也が引き寄せた。代わりにセットの杏仁豆腐を差し出せれ、悔しい思いをしながらスプーンでなぞりあげる。
「忘れるとこだった、はいこれ」
「ああ!そうだそうだ!ありがと~!」
今日の目的その2、コイツが私の部屋に忘れていった学生証を届けること。ちなみにその1は、コイツの顔を見ることになる。いそいそと財布へとしまい込んだあと、箸を手に取り器の中身を空けていく。
「わざわざ悪いな」
「かまわないさ、ここ奢ってくれるんだろ?」
「いや奢るけど…今更だけど、ここで良かったわけ?」
「何か問題あるのか?」
「いやだってさ…一応、デート?なわけじゃん…」
あーなるほど、いっちょ前にそんなことを考えていたのか。
くすくすと笑う姿に頬を膨らませ、今度は拓也が「笑うなよ」と不貞腐れる。笑い顔のまま完食できた杏仁豆腐に向かって両手を合わせ席を立った。
「ちょっとお手洗い行ってくる」
「はいよ~」
ハンカチに、「貸してあげる!気に入ったらもらっちゃって?」と渡されたリップを包んだことは気づいてないようだ。
***
「さっみぃ~!」
「…だな…」
店を出て、吹き上げる風の冷たさにそろって身震いをする。すり合わせていた手を奪い取られ、拓也のジャケットのポケットへと突っ込まれた。
「おぉ…なんか恋愛ドラマみたいだな」
「…輝二は俺のことなんだと思ってんの?」
「拓也」
「…そうだけど、そうじゃないんだよなぁ」
ポケットの中で手を反転させ「悪い悪い」と笑いながら手のひら同士を合わせ指をすり寄せる。
「彼氏だもんな」
「…最初からそう言えよ、バカ」
「はいはい、そう拗ねるなよ」
そっぽを向いてしまった拓也が大げさに咳ばらいをしてから足を踏み出した。向かう先は駅、明日1限だと言っていたからこのまま解散の流れだろう。
街灯が二人の影を伸ばし、帰宅する人、これから街へと繰り出す人、いろんな人とすれ違いつつ談笑しながら歩みを進めた。
唐突に方向転換をした拓也が路地へと入っていく。
「ちょっと、どうした」
「いいから…」
「っん!」
建物の壁に背中を押し付けられ、口に柔らかい感触が伝わってきた。驚きに目を見張り、抵抗する必要もないしなと、ジャケットに押し込まれたままの手で返事を返す。ただ合わさるだけの口づけが離れ、代わりに額がこつんとくっついた。
「…いきなり盛るな」
「…ごめんて」
ゆっくりと離れていく拓也の顔が、入り込んできた街灯のかすかな明かりで照らされる。
「あっ」
「ん?どうした」
ああこれか…泉の言っていたことは。
厚みを感じさせる彼の唇にピンクが移りきらりと光った。なるほど、これはいいな。無骨なこの男が文字通り私の色に染まってる様は気分が上がる。
ふっと笑みをこぼし、その首へと片腕を回した。
「へっ、えッ…こーじさん?!」
「…なあ拓也、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「えっとえっと…なんでしょう?」
殴られるとでも思ってるのか強張った表情で返事が返ってきた。背伸びをして、可愛らしい色付きになった唇に色の元を重ねる。身を屈めた拓也が驚きの声をもらした後素直に従い、ポケットの中で手が強く握られる。
「…もう少し一緒にいたいって言ったら、どうする」
「……ずっる、そんなこと言われちゃったら帰せないだろ…」
開かれた指が私の手を残しポケットから出て行き、両腕が背中へと回される。そのまま首元に頭を埋めぐりぐりとこすり合わせてくるから、髪の毛からするラーメンの匂いと拓也自身の匂いが鼻をくすぐった。
「……うち来る?」
「…行く」
準備なんか何もしていないが、一人暮らしの拓也の部屋には必要最低限のものは置かせてもらっているから問題はない。
終電?まあ…部屋に寄ったとしても間に合うだろうが、帰らせようってものならそれこそ殴ってやる。平手じゃないぞ、ちゃんと握ったやつをお見舞いしてやるからな。
鞄に仕舞った泉のリップは、お礼と引き換えに貰い受けることにしよう。