無題「せんせえさ、なんか俺にしてほしいことないの?」
ここが夜更けの中庭やキッチンであったのなら、ネロのその唐突な問いに対して、ファウストは「ならもう一杯付き合って」と言ったかもしれないし、「明日はきみの作ったガレットが食べたい」と言うかもしれなかった。ただそうはならず、ファウストは意図を掴みかねるとでもいうような純粋な困惑を瞳で語っている。何故なら、ネロとファウストはふたりきり、ベッドの上にいたし、視線は厄災が仄かに照らす部屋の中で湿っぽく絡み合っていたので。
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二人が肉体関係を持つに至った経緯はともかく、ネロがファウストに挿入することになったのは、単に互いが互いの性経験の量だか質だかの違いを推し量ったからだった。元よりたわいない会話の多い二人であるのに、肝心なところは成り行きでどうにかなってゆくのは今に始まったことではない。
痛くねえ? うつ伏せなれる? うん、最初は後ろからのほうがいいよ、多分。そう? じゃあほら、クッションとって、腰んとこ置くから。ん、いいよ、待つ、待つって。大丈夫? 足の力もうちょい抜きな、変なとこ力入ってっと攣るよ。ゆっくりするから。
ファウストに対してじわじわと発露する自身の未知なる感情に、そしてそれらが表出した結果としての一挙一動に、心中では驚き戸惑い恥じらいながらも、六百年生きてりゃこういうこともあんのなと感慨深く息を吐いたのはいつの夜であったか。
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「なんか、俺だけが一方的にしてるみてえじゃん、いつも」
「きみ任せで悪かったな」
「いや、寧ろ俺は好き勝手してるからそれはいいんだけど」
「僕がまぐろだって言いたいの」
「ははっ、せんせえ、どう考えてもまぐろじゃねえだろ」
最近ユーモアを覚えつつあるものの、生粋の堅物先生から俗っぽい言葉を聞くのはいつだっておもしろおかしくて、一方で行為中の彼はそれはそれは可愛く啼いているので、見当違いに拗ねるファウストにネロは声を上げて笑った。
「そう?でも満足してるみたいならよかったよ、気持ちよくなってんのが俺だけだったら空しいじゃん」
「……ネロこそ、何か僕にしてほしいことがあるんじゃないのか?」
「俺?俺は不満なんてないよ、かわいい先生を見られるだけで身に余る幸せですよ」
「僕もネロを攻めればいいのか?」
「なんて?」
「だから、僕がきみを攻めるんだ」
「……」
「図星だな」
ファウストに問うてみれば、彼がその殆ど正解と言って差し支えない解答を導き出すに至った過程を理路整然と語ってくれるであろう。そもそもいくらでも取り繕えたのに、ネロがそうしなかったのは、降伏と甘えとであった。
果たしてファウストが自分をどのように攻めようとしているのかはかなり気になるところであったが、改まって「それで、どうされたいんだ」とファウストが言うのでその余裕も長くは続かない。
「指舐めてい?」
口で気持ちよくなれる気がしているので、口を弄って欲しい。歯も舌も頬の内側も嬲ってほしい。それがファウストの綺麗な指であったならなおさら良い。苦しいのも多分気持ちいし、とまでは言わなかった。
「なんでもするよ」
僕にできることなら。
強烈な肯定と共に、ネロの願いは諾われるのであった。
ネロはエプロンを外し、白シャツの裾をパンツのウエストから引き抜き、ベッドに腰かけたファウストの間に両膝をついている。一から十までファウストの指示であった。ファウストは、ネロの躯幹を招きいれるように足を開き、自身の両腿を架けるように巾を敷いた。張ったカソックに支えられて、巾は弛むことなく在る。
「ネロ」
ファウストがネロの顎に手を添える。毛羽立ち一つないきめ細やかな手套の生地がネロの顔の輪郭を顳顬から顎へと滑っていく。ネロはもう喋らなかった。強い語気と視線を以て名前を呼ばれ、揺蕩する自身の意思を半ば無理やりに撫でつけられるのは嫌いではない。そして素直に受け身をとって与えられるものに没頭したほうがよっぽど気持ちよくなれることも知っている。
ファウストはネロの両の頬を包んだまま、ネロの瞳の奥を見つめていた。なんてかわいいのだろう。自らの羞恥を晒けだした達成感と、その褒美への期待が滲む目。
親指で薄い唇をさすってやると、唇の間には急くように隙間ができる。ぐいと親指を入れて下の歯列に親指をひっかけると、その重みに委ねるように関節から口が開いた。そして右手の人差し指が検分するようにネロの口の中を隈無く辿る。歯のエナメルを擦るように撫で、歯茎を撫で、人差し指と中指で舌を挟んで弄んだ。
布一枚を隔てた感触がずっと寂しい。あたたかくてもつめたくても構わないから、その体温を直接に感じたかった。堪らなくなって歯で指の先を甘く喰むと、ファウストはネロに布を噛ませたまま小さく手を引いた。爪の先に寄った布は既に唾液をたっぷりと含んで僅かに色が変わっていて、熱い口内を微かに冷やした。伸びて形が崩れてしまいそうで、ネロはそれ以上引っ張ることはできなかった。それを知ってか知らずかファウストは濡れた手套を、併せて外した左手と重ねてベッドの隅へ置く。
ファウストの体温を待ち侘びて、口の中は勝手に晒された。舌の真ん中を人差し指でそっと押すと舌の縁が捲れて暖かく指を包んだ。そのままくるくると撫ぜると、唾液がじゅわりと溜まってあっという間に口から漏れ出た。重たく透明な糸を引いて巾へと垂れていく。繊細なその舌は今何を感ずるのだろう。指は上の歯列の裏を一通り辿ったあと、硬い骨に沿ってその位置を知らしめるように上顎をゆっくりと撫でる。そうして指の腹を上へ向けたまま奥へ滑らせると、つるりと滑らかに滑ったので、ゆっくり押した。
「」
ネロが苦しさに思わず目を見開くと、その虹彩の中で鮮やかに青空が広がる。ファウストの膝に添えられているだけだった手には力が入り、いよいよ縋るように服を握り締めると指先から逞しい腕まで血筋が走った。そしてぐいと僅かに背が伸びるのを、ファウストがきれいに揃えた二本の指で舌を押して咎めた。ファウストの指の下で唾液を嚥下しようと舌が忙しなく跳ねる。舌の付け根まで差し込まれた指は一度離れたかと思えば、その深さのまま再び上顎を擽った。
「ぉ、っ」
「ちゃんと息をして。気持ちよくなりたいんじゃないの」
ネロの苦悶の表情に、ファウストは一旦舌から指を離し、所在なげに頬の内の柔い肉を短い爪で引っ掻いた。唾液を飲み下す喉が数回上下して呼吸が落ち着くと、ネロはファウストの指を舌で舐め続きをねだった。そのあと指が増やされていく間も。ネロの口の端からは唾液が溢れ、真っ直ぐ巾に落ちなかった分は顎を伝って首元まで濡らしている。
「舐めてい?」
答えを聞く前にネロの右手は裾側からカソックの釦を外していく。
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「今日はもう僕もネロのを抜いて終わりにしようか?」
「……は、ぁ」
「疲れただろう」
「っは、そんな手厳しいこと言わないでよ」
ネロはとっくに床に落ちていた手近の巾を取ると、乱暴に口元のあらゆる体液を拭って再びベッドへ乗り上げた。
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抱き合って原っぱを転がってゆく気ままさで、場の主導権は代わる代わる移っていく。今度はネロの番であった。
「でもさ、せんせえもさ、挿れてるみたいで気持ちよかったでしょ、ちゃんと立派なのついてんのに普段使う機会ないもんね」
正常位でファウストを見下ろし、たんと肌をぶつけながら、わざとらしく煽るような言い回しをする。ネロは二人の身体の間で揺れていた熱の、裏筋を擽るように撫で、まるい先をゆるく手のひらで握りこんで捏ねた。体を弓形に反らせたファウストは、力を入れているからか首から顔にかけて肌が真っ赤になっている。
「き、みがしてほし、っていうか、ぁ、ら」
「うん」
ファウストの顔の横へ片肘をついて首元へ顔を埋めると、柔い髪に気まぐれに肌を擽られる。ファウストはネロの髪へ手櫛を通して、さらに自身へ引き寄せた。
「ねろ、かわいか、った」
「ごめんね」
「なんで謝るんだ」
「俺の酔狂に付き合わせてさ」
「そんなこと考えていたのか」
「次、ファウストの番だよ。なんかしてほしいことないの」
そうしてまた律動を始めれば、ファウストは抱かれるのを嫌がる猫のように腕を突っ撥ねるのだった。