英霊の座にてここには何もない。
辺りに光はなく、ただ暗くて寒々しい空間が広がっている。暗闇の中で前後上下の区別もつかないから、この場所がどこからどこまで続いているのか分からない。変わり映えのない風景により時間の流れも緩慢に感じられて、いつからそうしているのかもう分からないが己1人だけが在った。
時折、誰かに呼ばれたような気がして周囲に目を配るが、それで特別何かが見つかったりこの場所に変化が生じることはなかった。呼び声の主を見つけてやろうとしたことがいつかあったが、そんなこともすぐに止めた。広く終わりのない暗い空間の中をいくら探しても己以外は見当たらず、ここはそんなものなのだと諦観している。
ややあって、誰かに呼ばれた際に顕界していたのであろう己の分体が役目を終えたらしく、例によって記憶を還して来る。分体の記憶はいつも似たり寄ったりだ。過程はどうであれ、判を押したように使い捨てられてお終い。目新しさのない記憶は塵のように積もって、埋もれた記憶から熱を奪い色を褪せさせていく。記憶が記録となって久しく、今では記録に実感が持てない。全ては他人事だ。
同じことを繰り返して、どれくらいここに在るのか分からなくなるほど長い時間を過ごした気がする。柔い精神は降り積もった記録に押し固められて摩耗することも既になく、この場所と己は凪いだままこの先も変わらずに在り続けるのであろうと察せられた。
ふいにまた、己を呼ぶ微かな声が届く。
その瞬間、時間が止まったかのように体が硬直するが、同時に跳ねた心臓が全身へ熱を送り出して体を突き動かそうとする。
「以蔵さん」
今度ははっきりとした音を伴って名が呼ばれた。この声を知っている。いつかの記録で知った、己のマスターであった女の声だ。有象無象の記録の中でもとりわけ異質だったから埋もれていてもなお目立っていた。人斬り風情が女の隣に並び、共に世界を救うなどと夢物語の記録だ。体の奥底から生まれた衝動のままに声の方向へ振り向くと、初めからそこにいたかのように女は近くで佇んでいた。
遠慮がちに細められた目の色と朝焼けの空を思わせる髪色の鮮やかさに目が眩む。暗闇の中で際立つ白いその肌に、触れた時の感触を記録が教えてくる。考えるべきことは他にあるはずなのにこんな時も鈍い己の頭はうまく働かず、ただ手だけが吸い寄せられるようにふらふらと女の方へ伸びていた。
女は抵抗せず腕の中に収まった。預けられた小さな体からゆっくりと染みてくる体温や、顔を埋めた首筋から香る匂い、柔く滑らかな肌の感触を知っている。記録が鮮やかに色づいて、確かな記憶として彼女の1つ1つを覚えている。
ずっと欲しかったもので、放しがたかったものだ。
「また、そばに居てもいいですか」
「べこのかあ…来るんが遅いき」
記憶のままの彼女が確かに今腕の中にいる。
分け合った熱が暖かかった。