薄氷を踏むように 路地裏での出来事からすぐ。
天照の本部へと戻った玉響菊花は、「遅くなってごめんなさい。今から戻ります」とバディの小芝冨子にメッセージを送った。
天照より支給された携帯端末"すまーとふぉん"は、はじめの内こそは操作の難解さに戸惑い複雑な絡繰のように思えて仕方なかったが、もはや現代人以上に現代慣れした兄・首切からの指導により、江戸時代から現代にかけての時間が空白となっている玉響でも、これを人並み程度には扱えるようになっていた。
兄曰く、「朱理の物覚えの悪さよかよっぽどマシ」だそう。朱理、というのは兄と十年近く共に仕事をこなしてきたバディで、この手の絡繰がどうしても扱えない──いわゆる機械音痴、だそうだ。よく世話を焼いてやっていると愚痴を聞かされることだって、未だにあるのだ。
そして、玉響からのメッセージの送信から数分も経たずに冨子からの返信が来たため、すぐさま施設の警備につく人間に門の内側へ通してもらい、少々急ぎながらバディが待つオフィスへと向かった。
都内にある天照本部の敷地は広大だ。それはもう、とてもとても。
広い場所や地域に対し、「ここは東京ドーム何個分」という表記、ないしは例え方をよくするものだが、一体天照の敷地はその東京ドーム何個分に相当するのだろうと……。そんな疑問を抱く程には広く、目覚めたばかりの玉響はよく道に迷っては迷子になり、刀遣いや在籍して長くなる刀神の世話になっていたものだ。
ゆえに。そんな広い敷地だからこそ。知り合いとすれ違い、または知らない人物ともすれ違い────今、あまり会いたくない、もしくは会いに行きづらいような人物と遭遇してしまうことだって、ある。実際にあった。
「……っ!」
気持ち急ぎながら廊下を進んでいると、先にある曲がり角のあたりに杖を突きながらふらふらと歩く長身の男が見え、玉響は思わずその場で呆けたような表情のまま立ち止まってしまった。
遠目にでも誰なのかが解る、特徴的な立ち姿。
軍服に軍帽、黒髪が僅かに掛かる顔には包帯、外套の左側から伸びる筈の腕はなく、だらんと袖だけが頼りなく垂れ下がっている。全身黒ずくめ。姿かたちだけならば人間に近くはあっても刀遣いとは言い難い出で立ちの彼は刀神で、今の玉響にとってはあまり会いたくない、会いに行きづらいような男だった。
(天霧、様……)
どうしようか。向こうはどうやら鉢合わせた誰かと会話をしているようで、まだこちらに気がついていない。今のうちに少し道を戻って遠回りでもするべきだろうか。もしくは、路地裏で白蛇姫に話しかけられる前のように、文字通り消えて、何も居ないのを装って真横を通り過ぎてしまおうか。
そんな事すら考えた─────が。
『野郎からの告白じゃあなく、まずは己自身の中にあるわだかまりにケリを付けろ』
脳裏で、つい先程の路地裏にて説かれた白蛇姫の言葉が思い起こされた。
『相手の事より手前のこと。手前に応えてから相手に答えればよいのではないか?』
────そうだ。そうだったではないか。
ケリをつけるのだ。天霧からの告白よりも先に。
まずは自分自身に必要な答えを、解を見つけることが今の自分にとっての最優先事項なのだ。
(そんなわかり易い逃避をしていたらずっと前進などできないでしょうに。何を愚かな事を考えているの、わたくしは……!)
そうだ。そうやって天霧を避けるのはずるい。それは"逃げ"だ。紛れもなく。
天霧がそうしたように、自分も彼とまっすぐ向き合う為にこころの準備をするべきなのだ。少しずつだって進んでいると、きっと大丈夫だと信じればいい。だって、今の玉響は無力で、それくらいの事しか自力ではできないのだから。
「……」
玉響は顔を僅かに上げ、前を見据えた。
意を決して、廊下をそのまま前へ。すると向こうも近づいてくるこちらの姿に気がついたようで、一瞬だけハッとしたように曇った左の目元が動いたが、すぐに元の形に戻った。
「こんにちは」
ちらりと目を合わせ、口角だけを上げ、軽く会釈を。
こちらがそのままの姿勢で真横を通り過ぎようとすれば、天霧の方からも低く、内側に籠もったような声で「こんにちは」、と返ってきた。杖を軽くだが前に、既にしゃんと伸びているとは言い難い背がもっと丸く。赤の他人であれば至って普通だったであろう会釈と挨拶が返ってきて、玉響は内心ホッと胸を撫で下ろしたところはあるものの、やはり、どうしても歯がゆかった。これまでの彼との楽しいやりとりが途端に懐かしいもののように感じて。────恋しいと感じた。
願うならばもう一度、花を置いた卓を囲んで茶を楽しみ、また彼とあんなふうに接する事ができればいいのにと、どうしても思ってしまって。
今はこうするしかないのに、歯がゆさに平静を装いきれない自分が嫌で仕方ない。行くべき道を辿りながら玉響は天霧と最後に飲んだ紅茶の味を思い出してはため息を吐いた。
あの日、雨がけぶる窓の外を見ながら口にしたダージリンの赤茶色は、やけに苦かったような記憶がある。気の所為だろうか。
それは彼も、天霧の方もはたして感じ方は同じだったのか。
いずれにせよ。二人の間には答え合わせが必要で、その時が来るのは玉響が玉響自身の言葉であの告白へのこたえ方を見つけた後になるだろう。
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オフィスではバディが事務椅子に腰掛けて待っていた。背後から声を掛けると、後頭部全体で纏めた綺麗な髪を揺らし、回転する椅子ごと彼女は振り向いた。
「ただいま戻りました、冨子様」
「玉ちゃん、おかえりなさい。長かったね。何か用事だったなら、行く前に言ってくれれば良かったのに」
「いいえ……大したことでは……」
────大した、こと。
一連の流れの当事者である玉響にとってはまあ、大したことなのだが、この人にとっては知らなくたっていい事だ。誤魔化すように、玉響はふるふると首を横に振った。
「ええ、大したことではございませんよ。……冨子様はもうお帰りのご準備を?」
「うん。やる事は終わったし。定時になったから玉ちゃんが戻ってから帰ろうかなって」
「あら……! それは申し訳のないことをしてしまいましたね。以後、気をつけます」
「気にしないでいいって。帰ろう?」
「はいっ」
玉響は固定バディに任命されて以降、この刀遣いの住居に住み着き生活を共にしている。バディゆえに出勤時も退勤時も揃って行動したり、連れ立って買い物に出たりと、バディが決まらずふわふわしていた頃よりも人間というものを身近に感じ、仕事をしながら彼女と楽しい毎日を送っているのだ。
既にいつでも帰宅できるようにと荷物を綺麗に纏めていた冨子と連れ立って、玉響は天照本部を後にしたのだった。
天照の施設内を歩く中で、エレベーターに乗り込む中で、また彼に鉢合ってしまわないかと内心ではこそばゆいような、それでいて重苦しいような不安を感じながら。
「玉ちゃん……今日一日、何かあった?」
夕暮れの帰路につきながら、それまでは冨子と他愛のない話をしていたが、不意におずおずと、少し遠慮がちに。冨子の方から玉響にそう尋ねてきた。
ここは川を跨ぐ橋の上。二人揃って前へと進む足が止まった。
「……ぁ。……えっ、と…………」
しまった。────きっと今、自分はそんな風に固まったのだろう。動揺してしまったし、脳裏には先程廊下ですれ違った時の天霧の姿まで浮かんできて。
「今日は……っ今日は………何も………!」
冨子からの質問にしどろもどろ答えてしまう。手まで浮かせてわたわたと。なんとわかり易い反応なものだろうかと我ながら滑稽だった。
───────思い返せば、だ。
今日の自分の業務態度では、どこかしらおかしいのではと疑われるのも当然だという気がした。
冨子との会話は例に漏れず、彼女の上司からの話には上の空で返事も短い。ほとんどが数秒遅れて慌てての空返事だった。
浮いてふよふよ移動しながら前方の自動販売機に激突した。思考が回らず呆けていたせいで障害物が全く見えていない状態での正面激突だった為に、ものすごく痛かったのを、そこだけはしっかりと覚えている。
冨子が任された部署経由のお使いに着いて歩く中で、猫を見かけは「かわいいワンちゃんですね」などと言う。
バディが居る刀神の知り合いから旅行土産として頂いたお菓子を机の上に残し、包み紙の方を口に入れる
────などなど。
今日のうちの半日だけでも、玉響の行動は挙動不審な者のそれだったと、今更ながらにじわじわと思い出して恥ずかしさに白い頬が火照ってしまった。いくらなんでも挙動が可笑しすぎるというのによく隠せると思っていたものですね……? とも思いつつ、玉響は自嘲気味に目を細めた。
「……本当に何でもないの? 困っているなら私、聞くよ?」
「困っているというか……ええと…………」
(あぁ本当に……もう……この方は……)
本当に優しい方だと、つくづく思う。
かつて長期に渡る遠征任務に赴く際、臨時バディとしての時間を共有し、固定のバディに任命されるまでにそう時間は掛からなかった。出会いも、バディになる流れも刀遣いと刀神としてはごく自然で一般的な、自分達はそんな二人だ。
出会うきっかけとなった任務のため遠征先に居る間も、彼女は誰にでも優しくて、親切で。自分が怪我をした状況でも周囲に、そして何より己自身にも気丈に振る舞っていた。
そんな優しい彼女だからなのか。自分が「おかしい」事になっている理由を尋ね、知ろうとしてくれているのは。
(この方を、わたくし個人の事情で困らせていいのでしょうか……?)
────こんな重たい話を突然されても、彼女は困るのではないか。そもそも何からどう話せばいいのか。
(おしごとでもご迷惑をかけてしまいましたし、明日はわたくしはお供しない方がいいのかもしれません。おうちで大人しく……一人で過ごす方が……)
────この調子で傍に居たって役立たずになってしまうかもしれないと、そう思った。思ったけれど。
「玉ちゃん……?」
────優しい貴女様が、あまりにも真剣にこちらを見つめるから。
足元に黒い影を垂らす蜜色の夕陽の中で立ち止まって、玉響を覗き込む彼女があまりに心配そうな顔をするから。
「………………ごめん、なさい。冨子様……。理由は言えません。わたくしにも分からないことばかりで、辛い事なのです。理由は言えませんし、また明日も考え込んで冨子様のおしごとにご迷惑をかけてしまうやも。それでも……」
それでも、の先が詰まった。
自分自身の重たい、ましてや少しも知らないであろう他人との事情を聞かせて困らせたくない。心配を寄せてくれるバディに対して申し訳ない気持ちがあるものの、そこだけは譲れないのだ。
けれど、これだけは聞いておきたい。自分の事情と一緒に喉の奥へと飲み込みそうになった言葉だけれど、吐き出してみよう。信じてみよう。
「今日はこんなわたくしでしたが、バディとして、明日も貴女様のお隣に居てもよろしいですか?」
「……どうしたの、いきなり? いいに決まっているじゃない。理由だって無理に話してなんて言わないし……ただ、相談してくれた方が嬉しいかなってだけ。様子によっては玉ちゃんだけお休みしてもいいし……。お使い中に玉ちゃんが猫を見てワンちゃんだって言った辺りからホントに大丈夫……? って思ってはいたんだけど」
「お、お恥ずかしい話を……!あれは猫ちゃんです……猫ちゃんっ!」
玉響の必死さが滲み出た言葉に、冨子はあたりまえだというふうに言った。それだけではなく、にこりと笑いかけてくれた。玉響にとってはその事がとても恥ずかしいけれど、同時にとても嬉しい。そして、自分のバディはなんと頼もしいものだろうか。
透き通るように肌白く、小さく端正な顔に浮かぶ柔和でやさしい笑み。見ているとどこか安心できる笑みを浮かべるひと。その笑みを見て、玉響はもしかしたらひどく緊張していた中でどっと安心したのかもしれない。
張り詰めすぎなくていいのだと。すべての事情が話せなくたって少しくらい他者に寄り掛かってもいいのかもしれないと。
「ありがとうございます、 冨子様……。わたくしってだめですね。本当に、だめです……」
「わっ、わ……!どうしたの⁉ だめって何が?」
「ううっ……情けなくって……! 己が情けなくて……!」
「そっ、そんな大きなミスはしてないし大丈夫! ……ねっ? 泣かないで玉ちゃん……!」
あぁ、違います、そうではないのです……と、そう返したかったけれど、視界がうるんで、喉がつまって、言えない。
ああ。情けない。嘆いてばかり。泣いてばかり。なんと、自分は不甲斐ないものか。護り刀がこんなふうにひとに守られてどうするのだと。
これは他者に頼ってはいけない事だと自分自身にきつすぎるほど言い聞かせていたことが、今になって仇となっている。寄りにもよってこんなにも優しくて心の強い人の前で。
───────『張り詰めすぎないで。もっと楽に物事を考えていいのですよ。ご自分をお大事になさってくださいな』
それは、玉響自身が他者に投げかけがちな言葉だったことを、ふっと、思い出した。
(……天霧様も、今のわたくしのように温かい気持ちを感じていたのでしょうか? 嬉しかったのでしょうか? ────わたくしがお節介のように笑いかけて、暗いお顔をした貴方様にも笑ってほしいと願ったことが)
それならば、いいと思う。
そうだとしたら、自分はこの上ないほど嬉しいと思えるのだから。
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後日、日曜の休日にお出かけをしようと言って、約束通り玉響は冨子に連れられて区内でもかなり大きい部類の商業施設でバディ水入らずの休日を満喫した。
春色の衣服が並ぶ小綺麗なアパレルショップで、少し高くない? と相談しながらも、思い切った買い物をした。
少し背伸びして購入した色違いのブラウスをそのまま着て、食事をしたり雑貨屋に寄って可愛らしい髪飾りを手元に揃えたり────。
きっとその日の誘いも、振る舞いも、冨子から自分への気遣いだったのだろう。そんなふうに温かい気持ちを向けてくれるバディの存在が、今の玉響にとっては本当にありがたかった。
(主様のことも、天霧様のことも、まだ詳しいことまでを冨子様にお伝えできる決心まではつかないけれど……いつかは)
身近な他者からの優しさをこれでもかと浴びると同時に、自分が今まで彼に、天霧へと向けてきた気持ちだってこんなに暖かいものではあったのだと、自惚れかもしれないがそう自信を持って思えるような、そんな気がした。