family.2 ピピピと静かな部屋に電子音が響いた。アルバーンが脇から体温計を取り出すと、液晶画面には38.7という数字が並んでいる。
数日前から喉の違和感は感じていた。しかし特に他の異変もなかったので、そのうち治るだろうと高を括っていた。ところが今朝起きたら、頭は内側から軋むような痛みがあるし、体は鉛のように重いし、休日の朝だからとリビングで寛いでいたサニーにかけたおはようの声は、とんでもなくガラガラだった。
その場ですぐにサニーに手を引かれて部屋に戻り、あれよあれよという間にベッドに寝かしつけられて、今に至る。
「何度だった?」
ベッドの横で椅子に腰かけ、心配そうにサニーがアルバーンを覗き込む。アルバーンは無言で体温計の画面をサニーに向けた。数字を見てサニーはやっぱり、と眉を顰めた。
「この前雨に打たれたのが原因かな」
サニーは体温計をアルバーンの手から受け取ると、ケースにしまって立ち上がる。ついでに、アルバーンの片方の腕が掛布団から出ていたので、布団をかけ直した。
「今日は大人しく寝て。父さんたちは今買い物に行ってていないから、俺が代わりに朝食つくるよ。何か食べれそうなものはある?」
休日の午前はきまって、父と母の二人で揃って、一週間分の食料を買いに出かけることになっていた。一番近くのスーパーマーケットでも、車で行かなければならない距離にあるためだ。
この外出はデートも兼ねているため、ついでにカフェや公園に寄っているようで、朝はいつも早めに出て、帰ってくるのは昼の少し前になる頃だった。多分、今日もそうなるだろう。
「うーん、野菜以外」
「ちょっと待ってて」
サニーはキッチンへ向かうと冷蔵庫を開ける。基本的には母が冷蔵庫を管理しているが、家にあるものは好きにつかっていいと言われているので、目ぼしいものがないか、かき分けながら漁る。
父が再婚する前は、料理はサニーが担当することが多かったので、人に食べさせるのに困らない程度の、腕前と知識はあるつもりだ。とはいえ、自分が病気のときは、適当にアイスやシリアルを食べていたため、いざ人に作るとなると何をつくるか考えあぐねてしまう。
上から順に冷蔵庫を物色していると長ネギを見つけた。サニーが好きだからと母が常備してくれているものだ。アルバーンが食べることのできる、数少ない野菜の一つだからというのもある。そういえば、前世のアルバーンも野菜は嫌いだったけれど、ネギは好きだった。リクエストでああは言っていたが、できれば栄養があるものを食べさせたい。
いくつか見繕った材料を手に取ると、よし、と気合を入れて調理を始めた。
トレイの上に乗せた料理をこぼさないように、サニーは慎重に階段を上る。作った料理は猫舌のアルバーンに合わせて少し冷ましたが、柔らかな湯気はゆったりと器から上っている。
もしかしたら寝ているかもしれないと思い、アルバーンの部屋のドアを控えめにノックをすると、中からおにい?と呼ぶ声がしたので、ほっとしてドアを開けた。
「おまたせ、今食べれそう?」
ん、と返事をしながらのそのそとアルバーンが体を起こす。熱のせいか、いつもより動作が緩慢になっているようだ。
サニーはベッド近くのデスクにトレイを置くと、持ってきた器を手に持ち、先ほど座っていた椅子を、改めてベッドの方に更に寄せつつ腰掛けた。
アルバーンは器の中をちらりと覗くと、そのまま目線をあげてサニーに聞く。
「何?これ」
「おかゆ、食べたことある?」
「ううん」
器にはいつもより小さめに切られた鶏肉と刻んだネギ、スープで柔らかく煮込まれた白米が入っている。顔を近づけたときに香る優しい匂いに、アルバーンは興味をもったようで、器を受け取ろうと手を伸ばすが、サニーはそのままスプーンを手に取ると、一口分の粥をすくった。
「昔見たアニメとかでよくあってさ、こういうシチュエーション。風邪ひいた家族とか恋人におかゆつくってあげたりとか。ちょっと憧れてたんだよね」
そのままスプーンにふうふうと息を吹きかけると、スプーンからふわりと上がる湯気が、息に合わせ靡いてはまた立ち上る。
何度かそれを繰り返すと、サニーはそのスプーンをアルバーンの方に向けた。
「熱いかもしれないから気を付けて、はいあーん」
「えぇ…食べるくらい自分でできるよ」
アルバーンは首を振って躊躇していたが、いいからいいからとスプーンを更に近づけると、遠慮がちにぱくりと食べた。アルバーンがゆっくり噛んでいる間に、もう一口分をスプーンに乗せる。飲み込むと同時に再びスプーンを向けると、今度は渋ることなく口を開けた。
最初の一口を食べたときに無言だったので、口に合っていたか心配だったが、この様子を見るに、問題はなさそうだなとサニーは安心した。むしろ一口食べる度に、次の催促を目線で訴えてくるのが愛らしくて、雛鳥に餌をあげる母親はこんな気持ちなのだろうかと思う。
普段アルバーンに感じるものとは、また違った種類の可愛さに、口元がにやけないように表情を保つのが大変だった。ここで笑ってしまったら、やっぱり自分で食べると言い出しかねない。
「これで最後」
器に残った米粒をスプーンでかき集め、アルバーンの口に運ぶ。
アルバーンはそれを素直に口にすると、もぐもぐと口を動かしながら、まだ中身が残っていないか首を伸ばして器の中を確かめる。しかしもう粒ひとつ残らず空になってしまっているのを見ると、口の中の物を飲み込み、諦めて横になった。
「ごちそうさま。ありがとう、おいしかった」
そう言ってアルバーンは、サニーを見て満足げにふにゃりと笑う。その顔が可愛くて、思わず頭を撫でた。
「早く良くなれよ」
ふわふわとした髪の感触が懐かしい。アルバーンの髪を撫でるのが好きだった。撫でた後に嬉しそうにするアルバーンも好きだった。アルバーンは驚いたようにぱちぱちと目を瞬かせる。
そのとき、アルバーンのこちら側に傾けた目の端から、ぽろりと涙が落ちたのが見えた。どきりとしてサニーは焦って手を離す。
「ごめん、嫌だった?子ども扱いしすぎたかな。それともどこか痛い?薬あるかな。探して来るよ」
「違う。ごめん。熱があるからかな。その…昔仲良かったお兄ちゃんみたいな人のこと、思い出しちゃって。だから大丈夫。気にしないで」
アルバーンも方も、慌てたように掌を顔の前で振る。その言葉とは裏腹に、アルバーンの目からは、堰を切ったように涙が溢れて止まらなくなっていた。
もう自分でも止め方がわからなくなってしまったのか、観念したように腕全体で顔を覆ってしまう。
「うわあ、最悪。見ないで」
「へえ、そんなに仲が良かったんだ、そのお兄ちゃんみたいな人と。どんな人だったの?」
自分が知らない昔のアルバーンへの興味と同時に、想って涙を流す程の仲の人物がいたということに妬ましさがあった。サニーは聞き出さずにはいられなくて、嫉妬からくる苛立ちが表に出ないよう、できるだけ優しい声で尋ねる。
「ええと、何て言ったらいいんだろう」
「うん」
「その…変な意味じゃないよ」
「うん」
アルバーンは答えを紡ぎ出そうとしては、躊躇ってしまうのを繰り返す。どうしてもその先を知りたいサニーは、ゆっくりと相槌を打つことで、アルバーンが言葉を止めてしまうことを防いだ。
時間をかけて少し落ち着いたアルバーンが、腕の隙間からサニーを見ながら言う。
「おにいみたいな人、かな」
よっぽどいい思い出なのだろう。その人物のことを思い出しながら話すアルバーンの声から、嬉しさが滲むのを感じる。
「すごく似てるんだ、おにいと。それで、その人に撫でてもらうのが好きで…だからちょっと懐かしくなっちゃった。ごめん」
その言葉をどう受け取るのが正解なのか、サニーは測りかねていた。
アルバーンが自分に対して、好意的な感情を持ってくれていることはわかるが、その好意が自分以外の人物に、向いていたという事実は、正直面白くない。
「謝らなくていい。俺にもいたから、アルバーンみたいな可愛い弟。もう会えないけど」
かつてのアルバーンを思い浮かべながら、再びアルバーンの髪に触れる。
自分は昔も今もアルバーンだけなのに、アルバーンは違う。そいつもこうやって髪に触れたのだろうか。髪以外にも触れたことがあるんだろうか。涙を流す程、今でもそいつを好きなのだろうか。
自分以外の人物が、アルバーンの心を占めているのが許し難かった。
「…ねえサニー、変なこと聞いていい?」
暫く大人しく髪を撫でられていたアルバーンだったが、目を手の甲で擦ると、体を起こしてサニーと向き合うように座る。もう涙は止まっていた。
付け加えるように「もし意味が解らなかったら忘れて」とか、「熱があるからおかしいこと言っちゃうかも」とか言い訳をたくさん並べるので、妙な引っ掛かりを覚えながらも「大丈夫だから言ってみてよ」とサニーは声を掛けた。
アルバーンは意を決したように、息を吐いて言う。
「その僕みたいな人って例え話?…それとも昔の僕自身のこと?」
アルバーンの「サニー」と呼ぶ声の調子の懐かしさに、普段と違う呼び方で敢えて呼ぶ意味に、もしかしたらという気持ちが1%もなかったかと問われれば、ないと言うのは嘘になる。ただ、実際にその可能性が提示されると、これは現実でなくて夢かもしれないという思いが生まれてしまう。
思い返せば、今のアルバーンに名前を呼ばれるのは初めてではない。それこそ数日前のバスルームでアルバーンが咄嗟に声に出たのは、いつも自分に呼びかける「おにい」や「お兄ちゃん」ではなく、「サニー」だった。まるで、そっちの方が口馴染みがあるかのように。
「…本当にあの『アルバーン』なのか?」
サニーはくらくらする頭を、必死に落ち着かせながら聞く。アルバーンの口から確証さえ得られれば、今すぐにでも抱きしめたかった。会いたかった。好きだ。愛してる。これからずっと一緒にいよう。伝えたい言葉は一つの人生分溜めてきた。
それと同時にアルバーンにも言って欲しい。会えて嬉しい。よかった。君を待ってた。離れてからもずっと愛は変わってないと。
アルバーンの口から次に出る言葉を、息をすることさえ忘れるくらい、早く欲しいと待っていた。張り詰めた心臓が痛い。
しかし待ちわびていたアルバーンの言葉は、予想と違いどこか冷たさを感じさせるものだった。
「初めて会った時びっくりしたよ。新しいパパにも子供がいるとは聞いていたけれど、写真は見せてもらってなかったから。でもどうせ、記憶はないと思ってた。今まで会った他の人がそうだったように」
「他の人って?」
「浮奇が今同じ学校にいる。ファルガーも。記憶はないけどね。だからサニーもそうだと思い込んでた」
アルバーンはヘッドボードを背もたれにしてベッドに座り直すと、サニーと目を合わせないように、俯いたまま言葉を続ける。
「仲良くならないようにしよう思った。浮奇とは友達だけど、君とはそれだけじゃない。近付いて特別な感情を抱いたらダメだと思った。でも君といるうちに、家族としてなら、兄弟としてならいいかもしれないって、どんどん気持ちが緩んでいっちゃった。…でもやっぱりそれだけじゃいられない。記憶があるならなおさら」
「何で好きになっちゃダメなんだ。俺はアルバーンとのこと忘れたことはないし、今でも好きだ。それを否定する理由なんてない」
サニーがアルバーンの腕を掴む。こっちを見て欲しいという思いで縋るが、アルバーンは下を向いたまま、頑なな態度を取る。
「あるよ。僕らは本当に兄弟になっちゃったんだ」
「でも、別に血の繋がりがあるわけじゃない。離れてもずっとアルバーンのことを思ってきた。アルバーンだってそうじゃないのか」
本当に拒否したいなら、この手を振り払うはずなのに、それをしないということは、まだきっとアルバーン自身にも未練があるためだと、サニーは一層手に力を込める。
「それでも…僕はママの幸せを壊したくない」
しかし、アルバーンが絞り出したのは、サニーが望む答えではなかった。
「サニーのことは今でも大好きだけど、ここまでたくさん苦労して僕を育ててくれたママのことも好きなんだ。そんなママがやっと幸せになれたなら、僕はそれを守りたい」
一つひとつの言葉を吟味するように、アルバーンはゆっくり話す。どうしたら自分の言葉がサニーに伝わるのかと、探っていた。今ここで何を訴えても、アルバーンの意志が覆らないのを、サニーも感じ始めていた。
可愛いところ、一緒にいて楽しいところ、アルバーンの良いところを上げていくとキリがないが、その中の一つに人を想う心の温かさがある。
だからこそサニーは、アルバーンが言葉にしたその気持ちを蔑ろすることができなかった。手に込めていた力が抜けていくのを感じる。ここまで来たのに、再び巡り合えたのに、どうしてこうも上手くいかないのか。
「だからもう、優しくしないで」
サニーはそのアルバーンの言葉を否定も肯定もできなかった。同様にアルバーンも、サニーの手を握ることも払いのけることができない。何が正解かわからない。
二人がやっと動けたのは、両親の車が自宅の駐車場に、停まったときのタイヤの音が、窓の外から聞こえてきたときだった。
***
熱がなかなか下がりきらず、結局二日ほど学校を休んでしまった。やっと登校できるようになったアルバーンが、母の運転する車で学校の前に到着する。そのまま仕事へ向かう母にお礼を告げて、車が角を曲がるまで、手を振って見送った。
「おはようアルビー。元気になった?」
門を通りすぎ、校舎へ向かっている途中、後ろから声を掛けられた。ふんわりとした甘さを持つ声に、該当の人物を思い浮かべながら、アルバーンは振り向く。
「おはよう浮奇。あー…僕が休んでる間に、また新しいボーイフレンドが増えたみたいだね」
「俺の周りに魅力的な人が多いだけだよ。ねぇ、先輩」
予想の通りそこには浮奇がいたが、隣にいる見慣れぬ男と腕を絡めて歩いていたのは、予想の範囲外だった。浮奇は笑みを浮かべながら、先輩と呼ぶ人物の顔を、下から覗き込むように声を掛ける。
アルバーンは大げさに肩をすくめて見せた。本当に呆れているわけではなく、ただのポーズだ。浮奇がハーレムを作るのは、今に始まったことじゃない。向こうもそれを知った上で、浮奇とのいちゃいちゃを楽しんでいるので、アルバーンから彼らに言うべきこは何もない。
校舎に入ると同時に先輩と別れて、自分たちのロッカーへ向かう。しばらく横を歩きながら、アルバーンの様子を伺っていた浮奇だったが、いつもより静かなアルバーンに訝し気な表情をすると、顔をじっと見詰めてくる。
「何、浮奇?僕の顔に何かついてる?」
「風邪が治ったとは思えない顔してる」
心当たりしかないアルバーンは、はははと乾いた笑いを返した。
浮奇には、自分たちがかつて知り合いだった時の記憶がない。中学の入学式で初めて会った浮奇に「会えて嬉しい!」と抱き着いたとき、「はあ?アンタ誰?」と冷たい視線を返されて、半泣きになったのを、今でも鮮明に覚えている。
そこで変な奴認定されながらも、浮奇がアルバーンに興味を持ってくれ、こうして体調を気遣ってくれるくらいの仲にはなったので、結果オーライとも言えた。
「まあ、色々あってね」
「言いたくないなら言わなくてもいいけど、無理はしないで」
浮奇にもし記憶があれば、サニーのことを相談できるのに。もしくは、サニーに記憶がなければ、こんなに悩まなくてよかったのに。そんなないものねだりをしてしまう自分が、嫌になりそうだった。
ジリリリとベルの音が鳴る。周りが一斉に教室へ動き始める中、急ぐ気持ちになれずに必要な荷物を一つひとつゆっくりとロッカーから取り出す。
「アルバーン何やってんの。一限目遅刻するの絶対嫌なんだけど、早く行くよ」
「ファルガー先生の授業だから?」
「わかってるなら急いで、ほら」
浮奇に手を引かれるままに、アルバーンも一限目の教室へ向かう。
ファルガーとは高校生になってから、教師と生徒という関係で出会った。浮奇のことがあったので、最初から馴れ馴れしく接することはせずに、しばらく様子を伺ったが、彼も記憶は持っていないようだった。
こういったことが連続すると、自分の記憶が事実だったのかどうかもわからなくなってくる。前世の記憶だと思っているのは、ただの自分の夢で、本当はそんな現実はなかったのかもしれない。自分の生まれた時代から過去に飛んで出逢った、兄弟のような友人も、その中でも一番特別な、サニーと自分が呼んでいた人物との記憶も。
だからサニーも記憶がないものだと思い込んでいた。むしろ、今の状況を考えるとその方が都合が良かった。
まだサニーに未練がある自分の気持ちが、変に伝わらないように、最初は距離を取ろうとしていた。けれどサニーは新しくできた弟と仲良くなろうと、彼なりに試行錯誤しつつ接してきた。そんな姿が自分の記憶の中の、優しかったサニーと重なり、懐かしさに惹かれてしまい、引いていたはずの一線の輪郭がぼやけてしまった。
ここにきて、サニーは記憶を持っていたなんて…。
「急げよ、アルバニャン。俺が先に教室に入ったら遅刻になるぞ」
背中を軽く叩かれたことで、アルバーンの頭の中に潜っていた意識が、現実に戻ってくる。
横を見るとファルガーがいた。小脇に国語の教科書を抱えている。そういえば休んでいた日に浮奇から、次の授業で古典文学の感想をディスカッションするから、読んでくるようにと連絡を受けていたのを思い出す。
頭の中がそれどころじゃなくて、すっかり宿題の存在を忘れていたので、もう一日くらい休んでおけばよかったと、アルバーンは思った。
「じゃあ先生はゆっくり歩いてよ。アルバーンに巻き込まれて遅刻するなんて、ごめんだからね」
前を歩く浮奇は、ファルガーの方を振り向きながら、不満そうに口を尖らす。ただその瞳は、今浮奇がファルガーへ向けているのが、抗議の感情だけでないことを示していた。
アルバーンはそんな様子をどこか俯瞰で見ながら、もしサニーが先生だったら、クラスメイトとして会えていたら、なんて不毛なことを考えてしまう。そうしているうちにも浮奇が手を引いてくれたおかげで、ファルガーより数歩だけ早く、教室に入ることができた。
****
休んでいた分の授業の内容を教えるからと、浮奇がアルバーンの家に来た。
再婚を期に、以前よりも浮奇の家から離れたところに引っ越しをしたため、今の家に来てから浮奇が遊びに来るのは初めてである。行き来はどうするのかと尋ねると、仲のいい先輩が車を持ってるから大丈夫と言っていたが、朝とはまた別の先輩の車に乗って家まで来たのを見て、アルバーンは流石だなと感心してしまった。
「今新しいお兄さんって家にいる?」
ノートの書き写しが8割ほど終わったところで、浮奇がアルバーンに尋ねてきた。
必死にペンを走らせているアルバーンの横で、浮奇は部屋にある漫画をペラペラとめくっていたが、ついに暇になってしまったようだ。
「まだ大学だよ」
「なーんだ」
「僕の勉強のために来てくれたと思ったのに、もしかしてそれが目的?」
そう言って睨んでみるが、浮奇はそんなアルバーンを意にも介さず、近くにあった猫のぬいぐるみを手に取ると、ゆらゆらと揺らして遊ぶ。
「目的って、いくつあってもいいと思わない?」
「それはまあ、そうだけど…」
「写真とかないの?スマホに」
「そんなものあるわけ…あ、リビングに飾ってあるのはあるかも」
アルバーンは言葉の途中で、一緒に暮らし始めた日に、サニーが記念に撮らないかと声を掛けて撮った写真が、飾ってあるのを思い出す。父が嬉しそうに何度もカメラの角度を調節して、撮っていたのが印象的だった。
リビングの棚のところにある写真を見るために、浮奇を連れて一階に下りる。
写真を手に取り浮奇に渡すと、浮奇は大げさに驚いた声をあげて、アルバーンの肩に手を置いた。
「かっこいい!紹介してよ」
「そう言うと思った。絶対嫌だ!」
すぐさま浮奇の手から写真を取り上げ、元の場所に戻すと、もう写真も見たし部屋に戻ろうと、浮奇の肩を掴んでぐいと押す。その様子を見て、浮奇はふうんと目尻を下げた。
「ってことは、アルバーンもかっこいいと思ってるんだ。新しいお兄さん」
「はあ!?どうしてそうなるの?」
揚げ足取りだという気持ち半分、図星だという気持ち半分のアルバーンは抗議の声を上げる。アルバーンがあまりにも良い反応をするので、浮奇もついいたずら心が顔を覗かせてしまう。
「違うんだったら紹介してくれてもいいよね?」
「だーかーら!嫌だって言ってるでしょ!!」
リビングから浮きを階段の下まで連れて来たとき、玄関がガチャリと開く。大学から帰ってきたサニーだった。よりによってこのタイミングかと、アルバーンは心の中で頭を抱える。
ドアをくぐる途中、こちらを見て驚いた顔をして、サニーの動きが止まった。
「はじめまして、アルバーンのお兄さんですよね。俺はアルバーンの友達の浮奇です。よろしくお願いします」
浮奇はすすっとサニーの元に行くと、とびきりの笑顔で挨拶をする。
予め浮奇のことを話しておいてよかった、とアルバーンは思った。浮奇にとってははじめましてだが、サニーにとってはそうではない。サニーは一瞬戸惑った顔をしたが、アルバーンの話を思い出したのか、切り替えていたって普通に振舞う。
「はじめまして。いつもアルバーンと仲良くしてくれてありがとう」
「ほら、浮奇もういいでしょ。行こ」
「いや、それより俺はそろそろ帰るよ。ノートは明日返してくれればいいから」
そう言って浮奇はスマホを取り出した。気になっていたサニーを見れて満足したので、誰かに迎えに来てもらうのだろう。
アルバーンとしては納得いかない部分はあったが、浮奇の丁寧に取られたわかりやすいノートを受け取ってしまった手前、何も文句は言えなかった。
「帰るなら車出すよ。乗っていけば?」
「いいんですか?嬉しいです」
サニーが声をかけると、食い気味に浮奇が返事をする。
突然の展開にアルバーンがあっけに取られている間に、サニーと浮奇で地図アプリを見ながら、送りの話がどんどん進んでいく。いい気持ちはしないが、ここでそれを阻む権利が自分にないことも理解している。
焦るアルバーンは、ええいままよと浮奇の腕をガシッと組むと、サニーと浮奇を交互に見ながら言った。
「僕も一緒に浮奇を送るよ。友達だからね」
ちゃっかりと助手席に乗ろうとした浮奇を、アルバーンは腕を組んだまま後部座席に引きずり込んだ。車に乗っても腕を離さないアルバーンを面白がる浮奇は、ほっぺをむぎゅっと潰したり、猫みたいに喉をゴロゴロ撫でたりして遊ぶ。アルバーンもされるがままに車に揺られていた。
浮奇の家の前に着いたので、アルバーンは組んだままになっていた腕を外そうとするが、今度は逆に浮奇が腕を絡めて、一緒に車を降りようとしてくる。抵抗する間もなく車から降ろされると、浮奇が向かい合って見つめてきた。その真っ直ぐな視線にどぎまぎしていると、浮奇が優しく笑って言う。
「朝より大分ましな顔。明日は朝からそれで来てよね」
そんなひどい顔してた?とか、心配してくれてありがとうとか、それとももっと気の利いたセリフとか、アルバーンが何を言うべきか迷っているうちに、特に返事を求めていない浮奇は、ひらりと体を返すと家のドアへ向かって行った。
振り返ることなく建物の中に入っていくのを見送ると、後ろから助手席のシートを叩いてサニーがアルバーンを呼ぶ。
「こっちに来れば?」
数日前にサニーを拒絶しておいて、その提案に乗ることが躊躇われたアルバーンは、サニーの言葉を躱して後部座席に乗り込んだ。運転席から対角線上の一番右端に座る。
「ここでいい」
「ん、わかった」
アルバーンが座ると、車はすぐに出発した。先ほどは運転席の後ろに座っていて見えなかったが、ここからだとサニーの顔が少しだけ見える。
サニーは車を運転するときだけ眼鏡をする。そのせいか、いつもより大人びて見えるような気がした。そんなサニーと、自分で突き放しておきながら、嫉妬が表に出てしまう子供っぽい己を比べて嫌気がさす。
「随分浮奇に親切なんだね」
「アルバーンの友達にまで、優しくしないでって言われてないから」
もっともすぎて返す言葉もない。棘のある言い方になってしまったのに、サニーが冗談めかして返してくれたのが救いだった。
アルバーンがそのまま目線を窓の外にやると、先ほどまで夕焼けでオレンジ色に染まっていた空が、夜に向けて少しずつ青に傾いていた。もういくつか星も見える。
「俺、あれから色々考えてさ」
しばらく沈黙のままに車を走らせた後、サニーがアルバーンに話しかける。
「アルバーンが望むように、母さんの幸せを大事にするなら、変に距離を置くのは違うかなって思って。一緒に暮らし始めたばかりの頃言われたんだよ、兄弟仲良くしてねって。だから俺はこれからもそうしたい。母さんのためにも、俺自身のためにも」
それができればいいのは、アルバーンもわかっている。しかし、今まで抑え込んできた想いが、サニーに触れられたあの日に溢れてしまい、体の中にさえしまっておけずに涙という形でこぼれてしまったくらいだ。
今はお互い記憶が残っていることも、触れる以上のその先の関係が、望めばできてしまうことも知っている。そんな中で、中途半端に仲良くなんて器用なことは、少なくとも今は難しかった。
「僕もサニーみたいに割り切れればいいのに」
「割り切れてなんかない」
アルバーンが言い切らないうちに、サニーが言葉を被せてきた。アルバーンはびくりとしてサニーの方を見る。サニーは真っ直ぐ前を見たまま運転をしているのと、日が完全に落ちて車内が暗いのとで、表情はあまり見えない。
「好きだよ、アルバーン」
一番欲しいけど一番欲しくない言葉に、心臓が締め付けられる。胸の痛みを堪えるように奥歯を噛みしめた。今のアルバーンは、サニーへ返せる言葉を持ち合わせていない。
「だからこそ、アルバーンの母さんへの気持ちは、俺も尊重したい。それで、俺なりに母さんのことを考えたら、今まで通りがいいんじゃないかなって」
「何も知らなかったときと、今は違う。今まで通りにできる自信なんてない。正直、今頭の中がぐちゃぐちゃなんだ。君のことを好きになっちゃダメだって思うのに、君が他の誰かを好きになるのは怖い。でもママを守りたい気持ちもあって…」
思いを口に出せば出す程、色々な考えや感情が溢れてきて余計にまとまりがなくなってしまうように感じた。サニーは自分なりの答えを見つけているのに、自分は未だ着地点を見つけられないで宙を彷徨っている。
「今すぐにこれからのことを決めてって話じゃない。ただ、俺はこうするってのを、アルバーンに伝えておきたかっただけだから」
「…うん」
車が家の庭に到着する。リビングの明かりがついているので、もう親は帰っているようだ。ドアをくぐれば、何もなかったかのように、兄弟の振りをしなければならない。
駐車場に停まった車はシフトレバーをパーキングに入れられる。ガチャリという音がドライブの終わりを告げる。
これから何をするべきかアルバーンはわからなかったが、今これだけは伝えておかなければならないと思った。
「僕とかママのこととか、考えてくれてありがとう、サニー」
アルバーンの言葉に頷いて、サニーは静かにエンジンを切った。
***
何となく寝付けなかったアルバーンは、静かに部屋を抜け出すと、リビングに降り電気を付けぬまま冷蔵庫を開けた。
ミネラルウォーターを取り出してグラスに注ぐ。それを全て飲み干したところで、パッと周囲が明るくなる。母がリビングの入り口で、電気のスイッチを点けていた。
「ごめんママ、起こしちゃった?」
「ねえ、アルバーン。ちょっとお話しない?」
「何で?」
母はアルバーンの横に立つと、傍にあるキッチンカウンターに腰を預けた。
「最近様子が変だからよ。…環境が変わって大変?」
「家のこと?それなら新しいパパもおにいも優しいし、大好きだよ」
アルバーンも母に倣ってカウンターにもたれかかる。新しい家族ができてからは、家族全員で過ごす時間を多くとってきたので、こうして二人きりでじっくり話すのは久しぶりな気がした。
「ママは今まで一人で僕のために頑張ってくれたよね。だから今、ママが自分自身の幸せを見つけてくれてすごく嬉しい」
アルバーンには自分の父親の記憶がほとんどなかった。母はアルバーンの物心がつく前に、仕事の失敗が原因で、アルコール中毒になった父と離婚していた。そのため、アルバーンが父親と過ごしたのは、父子面会の短い時間の中だけだった。
それさえも、酒に酔ったまま運転して起こした単独事故で、父が亡くなることで終わってしまった。アルバーンが小学校に上がる直前のことである。
父親からの養育費にも頼れないため、母は身を粉にして働いていた。忙しい日々の中でもアルバーンの学校行事には必ず顔を出し、そんな日はアルバーンが寝室に入った後に、ノートパソコンと夜遅くまで向き合っていた。
そうやって育ててくれた母から、一緒に暮らしたいほど好きな人ができたと聞いたときは、心から喜んだ。母はアルバーンに本当にいいのかと遠慮がちに聞いたが、アルバーンには賛成以外の選択肢はなかった。
この再婚は予想外のこともたくさんあったけれど、母が今笑顔で暮らせていることに関しては確実に、あのとき賛成してよかったと思っている。
「ありがとう、アルバーン。とても優しい私の可愛い子」
母がアルバーンを横から抱きしめる。アルバーンもそれに応えるように、背中に手をのばす。
前にハグしたときよりも、母が小さくなったように感じるのは、自分が成長したからだろうか。小さい頃は、母の方から屈まないと、手が届かなかったのに。
「私も、あなたの幸せを一番に願っているわ」
自分がそうであるように、母は自分の幸せを願ってくれている。それならば、母の望む自分の幸せって何だろう。
頭にちらつくのは、もう長い時間ずっと想い続けている人の姿だった。
「もし…もしもの話だよ。僕の幸せがママも幸せを壊すものだったら…どうする?」
「あらやだ、あなた悪いことでもしてるの?」
ハグしていた体を少し離して、母は心配そうにアルバーンの顔を見つめる。
誰かを好きになるということが、悪いことかと問われれば、当然答えはノーである。ただそれならと、母にこのままサニーへの気持ちを、伝えることができるかと言われると、そういうわけにもいかない。アルバーンはどう答えていいのかわからず、歯切れの悪い返答になってしまう。
「いや…悪くはない…かもしれない、けど……」
しばらくアルバーンの言葉の続きを待っていた母だったが、それ以上は続かないのを悟ると、アルバーンの頬を掴み自分の方を向かせる。母の真っ直ぐな視線がぶつかった。
「もし悪いことしてたら、私はあなたのこと叱らなくちゃいけない。でも、その後はいっぱい抱きしめてあげる。私はどんなあなただろうと、あなたの一番の味方よ。それだけは忘れないで」
そう言って、先程よりも強い力でアルバーンを抱きしめる。どうにか自らの愛情を示そうとしているのだろうか。そんなことしなくても、十分伝わっているのにとアルバーンは思う。
「わかってるよ、ママ」
肩に乗る母の頭に、少しだけ自分の頭を寄せて、アルバーンはゆっくりと目を閉じた。
(続)