水奈瀬コウがタカハシという男と出会ったきっかけは、彼がアルバイトでさとうささらの家庭教師として彼女の家を出入りするようになった事だった。
とある日、授業が終わり玄関先で軽い挨拶をしていた時に、ヘラヘラしながら鍋を持って現れた男がタカハシである。突然、カレーを作りすぎたからお裾分けしに来たという男に、コウの持った最初の感想は「変わった男」であったのだが、それなりに付き合いが続いている今でもその感想はあまり変わっていない。
話を聞くと、このさとう家とタカハシの家は昔から付き合いがあるらしく、幼馴染という訳でもないがささらが幼い頃からたタカハシが遊び相手になってあげていた事もあって、今でもこうやってたまに様子を見に来たりしているとの事だった。所謂タカハシにとってささらは妹分という奴で、最近若い男を家庭教師に雇ったという話を聞き、問題の無い奴なのかどうか、コウにとっては大変失礼な話だが大事な妹に手を出すような奴じゃないかどうか確認の為にあの時顔を出した、という話をタカハシ本人から聞いたのは二人が付き合い初めて最初の頃である。
「コーウ、これ作りすぎちゃったから食べて」
「作りすぎたというか、端から俺の所に持ってくる算段だよね」
爽やかに笑みを浮かべて大量にカレーが入ったタッパーを押し付けて来るタカハシに、コウは若干呆れの色を浮かべながら食器棚から皿を二枚取り出す。
さとう家に持ち込まれていたお裾分けは、今は水奈瀬宅に持ち込まれる機会が多くなった。教師になり、忙しさから日々の食事がちょくちょく疎かになるようになったコウを慮ってタカハシが「作りすぎた」という名目で持ってくるのだ。
タカハシがコウの食生活を心配して差し入れを持って来ているのは明らかなのだが、コウに余計な遠慮をされたくないのか、あくまで作りすぎたという名目で持ってくるのだ。ただそれももうお互い分かっているので、今はお決まりの挨拶のようなものになっていた。
タカハシの事をコウは「変わった男」と今でも思っているが、こうやって細かな気遣いをしてくれたり、軟派な見た目の割に(コウが言えた義理もないが)誠実な男であるという事も知った今では、ただ単に変わっているという印象では無くなっていた。
「けど、いつも飯持ってきてくれるのは嬉しいけど、面倒じゃない?」
「ん、なんで?」
「いや……なんでと言われても、料理作って、詰めて、俺の家にわざわざ持ってくるのってどう考えても手間だよね」
コウが率直に普段思っていた事を伝えると、タカハシは今までそんな事考えてみた事もなかったと眉を上げながら首を傾げ、
「好きな人に対してやる事に手間だって思うことあるか?」
と至極当然だと言わんばかりに答えたので、逆にコウのほうがバツが悪そうに口を開く。
「タカハシの想いがいつも真っ直ぐ過ぎて、受け止めきれないのがいつも申し訳なくなるよ……」
「えっ、もしかして俺って重い?」
「別にそういう訳じゃないから安心して」
今度は慌てふためきながら酷く情けない顔をするタカハシに、コウは二度目の呆れ顔、いや苦笑いを浮かべた。この男は本当にコロコロと表情を変える。基本的に感情をそのまま表に出すタイプなので、裏がないタカハシはコウにとって付き合いやすく、しかもこんな風に明け透けなくコウに好意を向けてくるので悪い気もしない。逆に少し擦れている自分のほうがタカハシに対して少し不誠実なのではないかとすら思えてくる。そんなバツの悪さを何処かで感じながら、それを払拭するようにコウはタカハシ特製カレーを口に運んだ。
「相変わらず美味しいな」
「隠し味が効いてるからな」
色々と自作するのが趣味だというこの男は、料理においても拘りがあるらしく、前にナルトを自分で作ったという話を聞いた時には「何故にナルト?」と思わず突っ込みを入れずにはいられなかったものである。そしてそんな男の作るカレーが不味いハズもなく、顔を緩く綻ばせるコウにタカハシはにやりと白い歯を覗かせて胸を軽く叩いてみせた。
「まさか愛とか言うんじゃないだろうな」
「ははッ」
コウが冗談めいて言えば、どうやら図星だったらしい、何故か変な所で気恥ずかしく感じる性分なのか知らないが、わざとらしく視線をコウから外して自らもカレーを食べ始める。そんなタカハシにコウは一旦食べる手を休める。
「けど前どこかで目にしたけど、愛を込めるってつまり食べさせる相手がこの味が好きだからこの味付けをしようとか、好きな食材を入れようとか、そういう事を思いながら作る事だって聞いたことがあるよ」
二口、三口とそのまま運んで、コウは続ける。
「まあだから、今、俺は大変タカハシの愛を感じているという訳だ」
「……それは味の感想の続き?」
「タカハシの愛をちゃんと受け止めている、という話のほうかな」
「重くないようで良かったです」
「あはは」
そうして茶化しあうような取り留めのない会話をしながら食事が終わり、後片付けをしている最中、タカハシが思い出したというように「そういえば」と口を開いた。
「ん、なに?」
「さっきの面倒臭くないのか? っていう話なんだけど」
「ああ、何、やっぱり面倒臭いって?」
「いやいやまさか。そうじゃなくって、毎回作って持ってくるのはいいんだけど、それだと途中で冷めて、コウに作りたてを食べて貰えないんだよなあって思って」
「別に温め直してるし、俺は気にしないけど?」
とコウが返せば、タカハシは少しムっとした顔で「俺が良くない!」と珍しく口調を荒げるのだった。と思えば今度はわざとらしい笑顔をコウに近づけた。
「そういう訳でコウさん。次からここのキッチンで作っていいですか?」
「俺んちの?」
「そそ、そうしたら作りたて食べさせれるしさ」
「どんだけ俺に作りたて食べさせたいんだよ」
呆れ顔を浮かべたものの、コウは首を横に振ろうとは思わなかった。作りたて云々というよりはタカハシが自分の家で料理をしている姿というものを見てみたかったという興味がよぎったからだ。
「いいけど、俺んち、タカハシんちの台所みたいに調理器具とか全然ないよ?」
コウも自炊くらいはするが、タカハシのように凝り性でも料理が趣味でもないので、最低限のものしか置いていない。
「ああ、それは大丈夫。俺持ってくるし」
「まあタカハシがそれでいいなら、いいけど」
半分タカハシの圧に押し切られたような感じもしながらコウは首をこくこくと縦に振った。基本的にコウの意見を優先する男なのだが、たまにこんな感じで我を通す所がある。コウのほうもタカハシの押しに弱い所があるのも事実なのだが。
話は決まったと、早速何を作ろうかと楽しそうにぶつぶつ呟くタカハシを見て、コウもつられて笑った。
そして、コウの家のキッチンがよく分からない調理器具で埋もれたのは、また後の話。
―――――
「一緒に暮らさないか?」
突然にも等しい水奈瀬コウの提案に、タカハシは一瞬電池切れの玩具のようにぴたりと全身の動きを止めた。
例えば、「今日はこれが食べたい」とか「あの店に行ってみよう」と同じようなテンションで言うコウは至極真面目な顔で、冗談だとか軽口でない事はタカハシにもすぐに分かった。そもそもコウがこの手の冗談を言うタイプではないのだが。
そもそも、何故コウの口からそんな話題が出たのかといえば、コウの家にタカハシが自身の愛用調理器具を持ち込み始め、彼の家で料理するのが当たり前の光景になったある日の事だった。
「俺んちの台所、完全にタカハシに侵食されちゃったな」
今日も今日とてコウの家のキッチンで鼻歌を歌いながら夕飯を作っていたタカハシの後ろで、コウがしみじみとした口調で言うので、タカハシは手を止め後ろを振り返る
「侵食って……他に言いようがあるでしょ」
「……征服?」
首を数度傾けて疑問符を浮かべるコウにタカハシは呆れ顔で返す。
「それもなんか意味が違うような気がするんですが先生」
「間違いを指摘できるなんて優秀な生徒だねタカハシ君」
けらけらと頬杖をつきながら微笑むコウはえらく楽しそうで、そんなコウの表情にタカハシも毒気を抜かれて頬を緩ませて笑顔を返す。
「しかし実際問題、俺んちのキッチンの限界完全に超えてるでしょ」
「そうかな」
キッチンに振り返り今度はタカハシが首を傾ける。申し訳程度の収納スペースにはコウにもよく分からない鍋だの器具だのが詰められ、壁にもそんなに種類が必要なのかというほどキッチン用品が引っ掛けられていた。
「そうだよ。完全にタカハシの領域だよそこ、俺んちなのに」
「持ってきていいって言ったのはコウじゃん?」
「限度というものがあるんだよ、タカハシ君」
「えー、これでも足りないくらいだよ。コウには俺の本気の料理食べさせたいからね」
「その気持ち自体は嬉しいよ、恋人として」
タカハシという男はコウに対して真っ直ぐで誠実で、大胆でもある。そして時折予想外の行動をする。今回は真っ直ぐで誠実で予想外の行動と言ったところか。
「……うん、そう恋人として」
「コウ?」
どこか自分に言い聞かせるように呟くコウに、タカハシは怪訝そうに名前を呼ぶ。呼ばれたコウは体ごとタカハシに向けて、口を開いた。
「なあタカハシ」
「ん?」
「一緒に暮らさないか?」
「」
「タカハシ」
「」
「タカハシ、聞いてる?」
「」
「おいラーメンバカ」
「誰がラーメンバカだ!」
「それには反応すんのかよ」
コウが呆れ顔で眉を下げると、タカハシはハッとしたように首を左右に振り、恐る恐るといったようにコウに聞き返した。
「あ、いやそんなことより、コウさっきなんて言った?」
「俺と一緒に暮らさないか?」
コウが再度言葉にすると、タカハシは頭を抑えながら呆然とした表情で呟く。
「幻聴じゃなかった」
「幻聴だと思ったのか」
「だってあんまり急な事言うから」
「うん、まあ急には聞こえるよね」
「もしかして、結構前から考えてた?」
コウの言いように、タカハシは思い至ったように訊ねた。
「まあそうだね、台所がタカハシに侵食されはじめてから」
コウは再び机に腕を乗せ、顎をつきながら喋り始める。
「タカハシの私物でいっぱいになる台所見てたらさ、思ったんだよね。これ一緒に住んだほうが早くない? って」
キッチンに視線だけ送り、タカハシに半分問うように話すコウにタカハシは、
「確かに」
とエラく合点がいくように頷くのでコウは思わず苦笑を浮かべてしまう。
「タカハシがどこまで考えてるかは知らないけど、俺はお前との将来(こと)、真剣に考えてるよ。だから提案した」
真っ直ぐな碧い視線がタカハシに向けられる。この瞳は前にも見たことがあるとタカハシは思った。あれはそう、コウのほうからタカハシにほぼ告白近い言葉を投げかけられた時。あの時もこんな吸い込まれそうな真っ直ぐな碧だった。
「……まあ、確かに急な話でもあるから返事は今じゃなくていいんだけど――」
「住もう! 一緒に!」
「……タカハシのそういう所、俺好きだな」
二つ返事ですぐ隣に飛びついてコウの手を握るタカハシに、コウは呆れたような、でも酷く嬉しそうに自分の手を握るタカハシの手を見つめる。
「でもちゃんと考えて答えてる?」
「酷いな、まるで俺が考えなしみたいに」
胡乱げなコウの言葉にタカハシは唇を尖らせる。そして少し悔しそうな表情を僅かに滲ませた。
「告白された時もそうだけどさ、大事な事はいつもコウに先に言われちゃうの悔しいな。ささら相手にはお兄ちゃんしてたのに、コウには頼りない所見せちゃうんだ」
「そりゃ俺はお前の弟じゃなくて恋人だし、タカハシのいろんな面見れて俺は嬉しいけどな。というか、そもそもタカハシを頼りないなんて思ったことないよ俺」
「そうなの?」
「そうだよ、お前が頼りなかったら、この世の大部分の男は頼りないよ」
「褒め殺しじゃん……」
流石のタカハシも居た堪れないといった様子で顔を赤らめ、目尻を下げる。そんな様子が愛しくてタカハシの唇にコウは軽く自らの唇を重ね合わせた。一瞬、驚いて目をぱちくりさせたタカハシだったが、すぐに恋人の顔に戻るとタカハシの方からもコウの唇に吸い付く。
そして、そのままタカハシにゆっくりと後ろに押し倒され、ぎゅうぎゅうときつく抱きしめられた。幸福感を味わうようにコウは息を深く吸い、そして小さく笑った。
「ふふ、じゃあ今度一緒に部屋探すか」
「俺、キッチン広いとこがいいな」
「俺は本たくさんしまえる部屋欲しい」
お互いが好き好きに住みたい部屋を語り合う、また今までと違う未来に思いを馳せながら。