旧友じっとりと重さを持った手袋を外す。
年季が入りひび割れた合皮が血液を吸い、かつての光沢を失っていた。
生白い手が露出する。
手袋ををずっと付けていたせいか肌がかぶれていた。いつか揉み合った時に力を入れすぎたのか、爪が割れて血が出ていた。
目視してやっとその痛みを認識した。
最近感覚がおかしくなっている。
鈍っているのではない。まるで体が痛みを感じることを忘れているかのように、怪我をしていると頭で認識しなければ傷に気付きもしないのだ。
商店街の方から濁った煙が出ていた。
段々と風に溶け、寺尾の元には香ばしい香りだけが届いた。
焼き鳥屋か何かがあった事を思い出す。
排気口から立ち昇る煙を眺めた。最後に食事をした日はいつだっただろうか。
長らく何も口にしていないのに、不思議と空腹を感じない。
寺尾は商店街に背を向けた。一歩踏み出すごとにチャッ、チャッと音を立てて広がった血液が跳ねる。
自分が喉を切り裂いて殺害した男には目もくれず、暗く染まり始めた住宅街を歩いた。
寺尾は少年の首に当てていた刃物を下ろした。
髪を乱暴に掴み、うつ伏せになるよう押し倒す。
少年の体をガラガラ男の真っ黒な影が覆った。
夕陽を受けて輝いていた髪は、影が落ちても綺麗な色をしていた。
少年が目線だけで寺尾を捉える。
「……寺尾」
名前を呼ばれて、やっとその少年が旧友であった事を思い出した。
しかし記憶にある田畑と目の前にいる少年とが結びつかない。うつ伏せにしたまま、できる限り首を捻らせ顔を覗いた。
アスファルトに押し付けていた頬に痕が残っている。見開いた目に溜まっていた涙がぽろぽろと流れ、肌に付着していた砂や小石を洗い流した。
血の気の引いた唇が震えている。過度の緊張からか、時折体がひきつけを起こすように痙攣している。
記憶に残る精悍な顔立ちは見る影も無くなっていた。
あの聡明な田畑が、ガラガラ男を前にして怯えている。同性すら憧れるこの整った顔を自身が歪めているのだと思うと、耐え難い程の加虐心をそそられた。
ナイフの刃を眼前に晒す。先程殺害した男の血にまだ濡れていた。
押さえつけている背中が激しい呼吸に合わせて上下する。見せつけるようにしながら刃先をゆっくりと喉元に近づけた。
田畑は大量の脂汗をかきながら逃れようと体を捩っている。
やめてくれ、助けてくれとか細い声が聞こえた。
刃先で喉を撫でると体の震えが大きくなった。
喉仏の下辺りに峰を添わせ、腕を真横に引いた。
当然皮膚が切れることなどなかったが、刃に付着していた血液が一本、赤黒い線を残した。
くぐもった悲鳴をあげ、田畑の体から力が抜けた。
たとえ体が傷ついていなくても、脳が傷を受けたと誤認すれば死に至ることがあるらしい。ずっと前に見た実験の記事を思い出した。
田畑の呼吸を確認する。頬に涙の跡ができていた。上半身を持ち上げ、ずるずると引きずって歩く。
いつの間にか日は落ち、街灯が疎に灯っている。
ぐったりとした田畑の体が、闇へ闇へと飲み込まれていった。