Yellow Belly 1.
絶好調を標榜して憚らない男がその病を得たのは単なる偶然だった。
任地から離れた街にある静かなバーのスツールのうえ、グラスの底に残ったわずかなバーボンを楽しみながら帰宅の頃合いを窺っていた彼の背に見知らぬ男が手を触れた。剣呑な気配に振り向くと男は慌てたように手を放し、失礼、とごく簡単に詫びてみせる。失礼した…知った顔だと思ったものだから。
誰だか知らないが口説かれるつもりはない。笑顔に拒絶を滲ませると、気圧されたように男は身を引いた。本当に違うんです…あなたには、他意も興味もありません。ただ、ただ…死んだ親友に…見えて…。
それは予想以上に弱い口調だったので、彼は初めて相手の顔を見た。誠実そうな男だ。そして疲れている。清潔なシャツの襟は崩れ、タイを引き抜いた胸元は漂うアルコールに薄っすらと赤らんで、しかし秀でた額は蒼褪めていた。なおも迷惑を詫びつつ去ろうとする男の体がゆらりと傾いだのを思わず抱き留めたのは生まれ持った何かのせいだったが、その腕の中で件の男は口許を押さえ激しくせき込み崩れ落ちる。いささかの切迫感を以て名も知らぬ男に呼びかけ、脱力するからだを抱きなおしたそのとき、真夏の草原のようなにおいが立ち込めた。思わず見おろした足元には、淡い紫のアスターが降り積もっていた。
2.
そんなことがあって半日も経たないうちに、ハングマンは初めての花を吐いた。
「嘔吐中枢花被性疾患?マジかよ」
「俺は流行も逃さない男だからな」
二人掛けのカウチの上に窮屈に寝そべったまま優秀な男は嘯いてみせる。ダイニングテーブルの前に腰を下ろした親友は困ったような顔をしてしばらく考え込み、それから静かに呼びかけてきた。なあ、ジェイク。
「なんだよ」
「どうするんだ、これから」
「さあな」
肩を竦めて寝返りをうち、不安な男は思いを巡らせる。医者の話、SNSで見る虚実綯交ぜの体験談、ジャーナルサイトで読める最新の学術論文。情報量は多いが花を吐く理由と解決策は一つしかない。片恋の捻れと、恋の成就だ。
前者については思い当たる節しかないが、後者については完全な無理筋だった。快癒の見込みがない以上、折り合いをつけて生きるしかない。花を吐けば消耗する。度重なればいのちを脅かすだろう。しかしあらゆる精神的鍛練を課された身上に、男は幾許かの自信を持っていた。しかも想う相手の任地はここから遠く離れている。恋を自覚さえしなければいいんだろ、と男は考えた。余裕だな、俺にならできる。
予見はあっさりと覆された。
ふとしたときに脳裏によみがえる相手の名、仕種、歌声、技倆、表情、何もかもに男の心は刺激され、軟弱な咽喉はつぎつぎと花を生み出した。せりあがってくる熱はそのときどきで異なっていたが、どれも一様に黄色かった。ばら、小ぶりのひまわり、カーネーション、マム、パンジー。濃淡とりどりに咲き乱れる自らのいのちを、ただ淡々と片づけダストシュートへと運び続けるうちに、不本意ながらすっかり花言葉にも詳しくなった。誰の目にも、誰の手にも触れないように包んだ花を入れた黒いプラスティックバッグの口をかたく閉ざしながら、男は遠いところにいるただ一人を想う。夜明けを告げるものの名を負う男。何をしてもどんな言葉にもその心をうごかさなかった男。笑顔を絶やさずにいながら瞳を和ませない男。不可能と思われた任務で花開いた男。自分ではないだれかに心焦がれる男。かすかに、あざやかに、想いだすたびに唇からは花がこぼれていく。苦しかった。それでも物理的な距離という要塞が男の身と心を護った。それさえあれば耐えていけた。
3.
「調子よさそう…だな、ハングマン」
「実際調子いいぞ、ルースター」
それに優秀。眉をはねあげて口角を吊り上げると、相手はちょっとだけ笑い、ビールでももらってくるといって踵を返した。
「ジェイク」
さりげなく自分の左側に滑り込んでいたコヨーテが囁きかけてくるのを視線だけで制して、ハングマンはビリヤード台に手をつく。胃のあたりが燃えるように熱い。後頭部が激しく痛み、脈打つ心臓は耳許で酷い音をたてていた。ただでも信頼を喪いがちだった自制心は粉々に砕け散り、跡形もない。
あの特別任務のメンバーのリユニオンが提案されたのは半月前だった。そこから調整を続けていたにもかかわらず、夢にまで見ていた「実物」は想像の何千倍何万倍もの高重力をもって男のすべてを破壊しようとしていた。運の悪いことにこの店はフリーのピアノを置いている。あれを弾かれたら死ぬ。直感的にそう思った。
「悪い、先に帰る」
「ああ、また明日な」
物わかりのいい親友が切り開いた活路を無駄にするわけにはいかない。途中でぶつかったボブとあたりさわりの無い挨拶をかわし、重い扉を押し、外に出て、ワンブロック歩いたところで立ち止まり、震える指で顔を覆う。これまでのあらゆる努力とそれによって培われた自信が、ぬるい涙となって指の間をすり抜けていく。
「クソ…帰るか…」
ハンカチを出そうと下ろした指さきが宙をかき、手首に何かが巻き付いてきたのはその時だった。
「ハングマン」
「なんだ…ルースター」
わずかに震えた声を立て直そうと必死でもがくのをそっちのけで、相変わらずのんびりとした声はもう帰るのか、お前と話せるの楽しみにしてたのに、などと牧歌的なことばばかりを次々と紡ぐ。生憎明日が早いんだ、ほかのやつらとピアノが待ってるんだろ雄鶏くん、込み上げる殺意と愛着を投げ捨てていつも通りのトーンで次々に撃ち返しながら、黒い死神はゆるゆると歩く。相手も同じ速さでついてくる。
「そろそろ手を放せよ」
「…顔を見せてくれよ」
嫌だ、という声が震える。見たい。いやだ。みせてよ。…いやだって言ってる。
「なぁハングマン、顔を」
「いいかげんにしろ!!」
想像以上に大きな声がでた。どこかの家から柔らかな叱責の声がきこえてくる。緩んだ手指を振り払い、抑えた声でもう一度いいかげんにしろ、と難じてから花を吐く男はゆっくり顔を上げた。何か月も、それより前からずっと焦がれてきた男の目が驚きに見開かれる。
「え?お前なんで泣いてるんだ」
「俺が泣くわけないだろ」
「見間違いってことか」
「だろうな」
肩に温かい掌が労わるように触れて、離れていく。少しやせた?気楽な問いかけに適当なこたえを返して、今度こそハングマンは完璧に笑ってみせた。怒鳴ったりして悪かったな。俺は帰る。お前も店に戻れよ。
「いや、送るよ」
「いらないって言ってんだろ」
「なんかおかしいだろ。一人にできない」
行こう。背に掌を添えられたとたんに熱が咽喉を焼いた。くぐもった声とともに零れ落ちた黄色いガーベラを握りつぶして、ジェイク・セレシンは叫んだ。頼む、一人にしてくれ。俺のこころを覗かないでくれ!!
「ハングマン」
「やめろ」
「ジェイク」
「やめろ!感染る!」
触らせまいと握りこまれた拳を抉じ開けて、ルースターはひしゃげた花をつまみ上げ、本当に花なんだな、と感心したように言うと、あろうことかそれを口の中に放り込んだ。
「何考えてるんだ!!!!」
悲鳴のような絶叫に応えるように、遠くで犬が吠えはじめる。もごもごと口を動かしていた男は、特に味はしないなといって笑い、それから両手を広げておどけた顔をつくって、飲んだ、と宣言してから一歩こちらに踏み出した。
「…どうかしてる」
「そう思うか?」
どんな嫌味にもびくともしなかったヘイゼルの瞳がゆるぎない親愛を込めてこちらに向けられている。父親のことに言及したときにだけ自分へと向けられた激情の翳り、命を拾って帰還したあとの温かな光、どちらとも違う穏やかで慕わしい色だ。そうか、何でもないのか。そう思うと安堵が胸に広がった。
「何も起きないな」
「そうみたいだな」
残念だ、という相手にありったけの皮肉を練り上げながら、ハングマンは強張っていた背筋を緩める。ところが声をかけるよりさきに、ルースターは喉元を押さえた。呆然と立ち尽くす男の目の前で、濁った音と真っ赤な花とが形のいい唇から溢れてくる。
「ルースター!!」
悲痛な呼びかけとは裏腹に、男はホントに花を吐くのか、だの結構きつい、だのとくだらない感想を述べ、それから掌のうえの花をつまみ上げた。
「俺の見立てが正しいとすると」
「お、お前、大丈夫なのか」
「大丈夫そうだな」
「信じられん…」
文字通り頭を抱えるハングマンに、それより聞いてくれ、と男は嬉しそうに言う。みてくれよこれ、薔薇だろ?
それがどうした、というより早く、陽気な男は腕を伸ばして皮肉屋を胸元に引き寄せた。
「赤の薔薇の意味くらい、どうせ知ってるだろ」
「どういう意味だ」
「熱烈な恋」
誰に、という問いかけはうすい脣に甘く吸われた。おまえ、と答えて夜明けを運ぶ男は嬉しそうに笑った。
こうして平和な街の一角を騒がせたふたつの翼は、しきりに小突き合いながらおなじ塒へと帰ることとなった。それぞれの手にしろくかがやく、大輪の百合を携えて。