Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    rubedoxx

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 4

    rubedoxx

    ☆quiet follow

    【12/18 神ノ叡智6】
    『感情教育』/ベドベド/カバー付文庫142頁/1100円
    *2号が1号に成り代わることを決意するまでの白雪イベ前日譚~白雪後に2号の情操が育っていく様子を描いた連作短編集。
    *カニバリズム、動物虐待、人体切断(薄っすら)の描写がでてきます。基本的に倫理がないので、苦手な方はご注意を。

    【12/18新刊サンプル】『感情教育』【収録作品】

    「影を逃れて」:2号が失敗作として捨てられ、ドゥリンの腹で目覚めて1号に成り代わることを決意するまでの白雪前日譚。
    *「特別料理」:2号が1号を食べて、同化することを夢想する話(カニバリズム要素あり)
    「標本」:白雪後の共存ルートで、2号が蝶の標本作りに執着する話。
    「運命の果実」:夕暮れの実を自画像として描いているという1号に2号がむかつく話。
    「感情教育」:他者への共感能力を2号が獲得し、1号と歩み寄る話。
    *「エチュード」:口内炎が出来たという1号に嫌がらせのキスをする2号の話。
    *「いのちの欠片」:誕生日に、アルベドが菱形の痕の意味を新たに見出す話。
    「燃ゆる男の肖像」:公式世界線の後もずっと長生きしている2人の話。
    *は再録。あとは書き下ろし。

    -----------------------------------------------------------------

    【「影を逃れて」】
     鈍色の空からしんしんと小雪が舞い落ちてくる。岩に腰かけた少年は、傍らの枝を数本折って、足許の小さな火に投げ入れた。炎は俄かに大きく踊り、ぱちりと薪が爆ぜる。少年は頭から被った襤褸を胸元で搔き合わせ、焚火の方へ体を寄せた。
     冷え冷えとした風が時折吹き抜けて、天幕を揺らしていく。いつから張られているのか分からないそれは、ところどころ破れかけ、もう幾ばくもすれば襤褸に変わり果ててしまうだろう。だが、少年にはそれでも十分だった。少なくとも風除けぐらいにはなる。
     少年は凹みのある小さな鍋を火にかけた。中へ雪を入れて、湯を沸かし始める。傍らに置いていた襤褸の塊から猪の肉片を取り出して、適度な太さのある枝に突き刺し、火で炙る。昼間に山を徘徊していたところ、崖下で一頭の猪が死んでいるのを偶然にも見つけたのだ。崖上から滑落したらしく、少年が見つけた時にはまだ体温が残っていた。切れ味の悪いナイフを用いて、その場で解体し、持てる分だけこの野営地まで持ち帰ってきた。残りは雪に埋めておき、明日以降、取りに行けばいい。
     肉の焼ける匂いが、凍てついた空気に混じって辺りに漂う。堪えきれず、少年は喉を鳴らす。まだ生焼けの部分があるにも関わらず、早々と火から肉を取り上げて、久々の馳走にかぶりついた。弾力のある歯ごたえに全身が快哉を叫び、溢れる肉汁を一滴もこぼすまいとして啜った。温かな肉の塊が胃に落ちる度、臓腑に活力が漲るのを少年は感じていた。
    肉を手に入れたのは随分と久しぶりだった。雪山を駆ける雪狐は罠を仕掛ければ割合簡単に仕留められるが、雑食なせいか、肉が酷く臭くて食べられたものではない。時折、肉を屠りたい衝動に負けて捕まえるが、それでも結局は鼻をつまみながら食べることになる。かと言って、猪を一人で捕まえるのも困難で、今日のように転落死したり、他の動物や人間に襲われて死んだりした遺骸にありつく以外に、猪を食べる手段を少年は持っていなかった。だから、最近は松の木の実ばかりを煮込んで食べており、今日転落死した猪を見つけたのは大きな幸運だった。
     腹ごしらえを終えた少年は鍋を片付け、余った肉は雪に埋めた。こうしておけば、肉は腐らず、また明日も焼いて食べることができた。風が強まり、少年はより体に密着させるように襤褸を纏い直して、岩に腰かける。手擦れした革表紙の書物を膝上で開き、凍ってしまったインク壺を焚火にかざして温めた。ペンの羽飾りがだいぶ痛んでいるが、少年には書ければそれで十分だった。液体に戻ったインクに摩耗したペン先を浸け、少年は何事かを書きつけ始める。この紙だけが、少年の唯一の話相手だった。


     そこは、何よりもまず温かった。ど、ど、ど、と何かが激しく脈を打ち、血の匂いと生命の気配とに満たされていた。光が瞼を圧迫し、揺蕩っていた少年の意識を緩やかに現実へと引きずり出す。朧気ながらも徐々に形を結んでいく視界で、少年がまず目にしたのは、赤く輝きながら生々しく鳴動する不気味な塊だった。
     少年は自分の身に、何が起きたのか、瞬時には理解することができなかった。おずおずと起き上がり、辺りを見回してみる。少年が目を覚ました場所は大きな洞窟のようになっており、赤々と脈動する何か――それは何か巨大な生き物の心臓のように見えた――はその空間の最深部にあった。瞼を閉じている時には明るいと感じたが、実際にはその不気味な心臓のようなものが光っているだけで、薄暗い。最深部の反対側は緩やかな上りになっており、岩の合間から薄曇りの空が微かに覗いている。外へ続く道には薄っすらと雪が積もっており、どうやらここは雪山らしいことが知れる。
    ――だとすれば、ここは。
     忌むべき光景が、記憶の底から浮かび上がってくる。雪山。母。捨てられた沢山の兄弟。喉の灼けつくような痛み。
    「……っう、ぇ……」
     烈しい吐き気がせり上がってきて、不意にえづきそうになる。慌てて口を掌で覆ったが、吐くものなどなく、ただ唾液が飛び散っただけだった。目覚めたばかりの体にはそれだけでも負担で、少年は傍らの岩にもたれかかった。彼の視線の先では、赤い巨大な宝石のような物体が相変わらずその鼓動を規則正しく刻んでいる。
     少年にも幸福な時代はあった。自分を生んだ女性を母と慕い、可愛い我が子と呼びかけられた輝かしい時間が、少年の心には確かに刻まれている。
     だが、その幸福はある日、突如として崩れ去った。少年には弟がいた。弟、と言っても、血の繋がった兄弟ではない。そして、少年も、その弟も、彼らを生み出した女性とは何の血縁関係もない。彼ら兄弟を生み出した女性レインドットは、かつて「黄金」と呼ばれた天才的な錬金術師であり、彼らはその科学技術から創造されたホムンクルスだった。
     レインドットは少年の誕生を喜んだ。それまで数限りなく失敗したホムンクルスの中で最も出来が良かったからだ。少年の前に作られ破棄されていった無限の兄弟たちは、知能が十分ではなかったり、理性に欠き魔物に近い気性を持っていたりして、レインドットが目指す「人間」には程遠かった。たとえ、知能や気性に問題がない者が誕生に成功しても、たった数日で死んでしまっていた。その中で、少年は十分に理知的であり、最も長く生きることに成功した。自分はホムンクルスなのだと知らされた時、少年が何も感じなかったわけではない。だが、レインドットから「私の可愛いアルベド」と微笑みかけられれば、そんなことは大した問題ではなかった。少年は、この愛すべき母の自慢の息子であることが誇らしかった。
    だから、弟の誕生を、少年はこの世で最も不可解なこととして受け止めた。
    ――僕がいるのに、ママは何故あいつを作ったの?
     嫉妬を含んだ問いに、レインドットは微笑むだけで、決して答えることはなかった。
     新しく作られたホムンクルスは、ひとまず二号と呼ばれた。二号は、美しい少年だった。プラチナブロンドの柔らかな髪、透きとおるような白皙の肌、海と空とを閉じ込めたようなターコイズグリーンの大きな瞳。レインドット以外の人間を見たことがない少年でも、弟の容貌が美しいと呼ばれる類のものであり、しかもそれが自分以上のものであるということに気づくのに、そう時間はかからなかった。少年と二号は直接の接触を禁じられていたが、時折、レインドットと二号が一緒に過ごす様子を、少年は盗み見ていた。レインドットから二号へ向けられる眼差しは、自分へ向けられるものよりも遥かに愛情に満ちていた。
     一体、何処でどう歯車が狂ってしまったのか、少年にも分からない。だが、レインドットに連れられて、ドラゴンスパインを訪れた日の晩に高熱を出し、数日間魘された辺りが境目だったのかもしれない。その日から、少年は烈しい劣等感に苛まれ始め、胸が灼けつくような嫉妬に悶え、御しがたいほどの怒りと悲しみに打ちのめされた。少年を絡めとる苦しみの無数の糸は、やがて憎悪へと織り上げられていった。
     それはほんの出来心だったのだ。少年は、レインドットを師匠として錬金術を学んでいた。彼女に褒められるのが嬉しくて、その勉強にのめり込んだ。弟が生まれてからは彼女の気を引くために、更に熱心に打ち込んだ。
    ある日、彼はトリックフラワーと呼ばれる魔物の性質について学んだ。この魔物は別の物に擬態する能力があり、調教し、錬金術を用いることで任意の対象に変態させることができると、レインドットは彼に教えた。彼はただ褒められたかった。彼女が愛するものを再現すれば、それだけで喜んでくれるだろうという、あまりにも幼気な発想だった。少年は練習用に与えられたトリックフラワーを、弟の姿に擬態させてみたのだ。だが、完璧にはいかなかった。体は魔物のまま、顔だけが弟の美しいものだった。
     レインドットは、その失敗作を見て、喜びもしなければ怒りもしなかった。ただ一言、元に戻しなさい、とだけ冷たく、だが力強く言い放った。だから、彼女の唇から微かに漏れた次の言葉はただの独り言だったのだろう。だが、それは少年が最も聞きたくない言葉だった。
    ――二号はもう、トリックフラワーの課題はとっくに終えたのに。
     その時、少年が手に持っていたのは、勉強に打ち込んだ証として先の摩耗した羽根ペンでしかなかった。彼はそれを弟の顔を持ったトリックフラワーに幾度も幾度も振り下ろした。弟の美しい顔には無数の傷が生まれ、魔物の青い血が勢いよく吹き出す。レインドットはそれを静観していた。それがまた悔しくて、少年は一際強くペンを突き立てた。そこでペンは嫌な音を立てて、真っ二つに折れた。
     翌朝、少年は再びレインドットにドラゴンスパインへ連れ出された。今いる洞窟のような空間は、この時初めて知った場所だった。「龍眠の谷」と呼ばれ、レインドットがかつて創造したという魔龍ドゥリンが眠る墓場だった。最奥部に鎮座する不気味な塊は、この魔龍の心臓であり、この時も赤く明滅しながら規則正しく拍動していた。少年はその深い神秘に瞠目したが、それよりも彼の心を揺るがしたのは、その周りに遺棄された兄弟たちの、無数の遺骸だった。既に白骨化しているものもあれば、まだ腐敗途中のものもある。だが、後者はどれも顔を潰されるか、身体がばらばらに切断されていた。少年は背筋が寒くなった。
     喉元にひやりとした金属の存在を感じたのは、眼前の暗鬱な光景に目を奪われている時だった。鋭い刃が食い込み、背後からナイフをあてがわれていると気が付いた時には勢いよく喉を掻き切られていた。視界いっぱいに血が飛び散り、灼けつくような痛みに襲われる。苦しい喉元を押さえながら地面に倒れ込むと、レインドットは魔龍の心臓にも似た紅い瞳で冷ややかに少年を見下ろしていた。手には血のべったりついたナイフが握られている。何が起きたのか、信じられなかった。どうして、とようやく絞り出した声は酷く掠れていた。
    ――あなたが失敗作になったから。
     かつて母と慕った女性は、路傍の石にでも言うように、そう吐き捨てた。

     少年の記憶はそこで途切れている。おずおずと喉に触れると、不思議なことに傷が癒えていた。ただ、横に切り裂かれた痕は蚯蚓腫れのように残っている。指先でそれをなぞり、過去の記憶が持つ痛みに、打ちのめされそうになる。
    だが、かつての兄弟たちとは違って、体はどこも損傷してはいなかった。あれからどのぐらい経ったのか、全く分からなかった。見渡せば、あの時あったはずの兄弟たちの遺骸はすっかりと姿を消している。自分の来ている服も随分と劣化していた。何かもが不可解だったが、目覚めてからしばらくすると喉の渇きと空腹を覚えた。少年は龍の腹から出ることにした。
    それからしばらくの間、少年はドラゴンスパインを彷徨っていた。記憶を頼りにレインドットの屋敷へ帰ることも決して不可能ではなかったが、最後の記憶がその選択を少年に躊躇わせた。
    ドラゴンスパインには、遭難した登山者の露営地がそのまま残されていることがしばしばあった。少年はそうした場所を頼り、薪を拾い集め、かじかむ手で石を打ち、火を熾した。雪をそのまま口に含むと体温を奪われるので、鍋で雪を溶かして飲み水を作った。食べ物はろくなものが手に入らなかった。動物を捕まえようにもすばしっこく、怪我をして弱っているのが見つかれば幸運だった。それ以外はひたすら木の実を齧っていた。飢えは日に日に募っていくばかりだった。
    どうしたら良いのか、途方に暮れていた。少年はレインドットの屋敷の外から出たことがほとんどなかった。この雪山を下りたところに、大きな町があるらしいことは昔それとなく聞いた覚えがあった。そこへ行けば、どうにか暮らしていけるだろうか。働いたことはないけれども、物体を変質させることができる錬金術は金になるかもしれない。少年は、夜の闇に燃え盛る炎を見ながら、数晩、そんなことを考えて過ごした。最初は躊躇いの方が強かったが、飢えが耐えがたくなっていくにつれて、町へ行くことの焦燥と希望の方が上回っていった。
    だが、その試みは雪山を下りる前に挫かれてしまった。
     ある夜のことだった。少年の野営地からそう遠くないところに、火が焚かれていた。龍眠の谷で目覚めて以降、初めて感じる人の気配だった。少年は空腹を持て余していた。もしかしたらパンの一かけらでも分けてもらえるかもしれない。祈るような気持ちで、少年は焚火の方へ近づいていった。だが、その選択はすぐさま後悔に変わった。
     その露営地には、登山者らしき男性が数人いた。焚火で肉を炙り、ホットワイン片手に夕食をとっている最中だった。野営する者の常として男たちは無論、少年の足音を警戒した。少年が闇から姿を現した瞬間、男たちは顔を引きつらせ、ある者は悲鳴をあげ、ある者は「この魔物め」と怒号しながら剣を振り下ろしてきた。少年は予期せぬ反応に驚き、雪に足をとられつつも慌てて走って逃げた。
     少年には、なぜ男たちが自分を拒絶したのかが分からなかった。自分はホムンクルスだけれども、容貌は人間そのものだった。屋敷には鏡はなく、少年は自分自身の姿を見たことがなかったけれども、レインドットは確かにそう言っていたのだ。きっと夜だから、暗くて魔物と見間違えたのだ。少年は自分にそう言い聞かせて、眠りに落ちた。
     翌朝、少年は水辺を探しに行った。かつてレインドットから、湖を覗き込んだ少年がそこへ映った自分を、自分とは知らずに恋をした、という神話を聞いたことを思い出したからだ。水面を見れば、自分の姿を確かめることができる。多少の不安はあったが、昨晩の男たちの反応の方が嘘であるという確証を得たかった。
    龍の腹から出た時に水辺を見た記憶があったので、そこを目指した。あの時、水を求めながらもそこへ近づかなかったのは武器を持った人間が何人もうろついていたからだ。今日はいないことを願いながら、雪道を下りていった。川の行き止まりのようなその場所は、凍っているかとも思ったが、水は凍結せずゆったりと揺蕩っている。
    少年は水辺に立った。だが、そのまま覗き込むだけでは水面と顔との位置が遠すぎて映らなかった。膝を屈し、雪の上にしゃがみ込む。試しに手を伸ばしてみたら、自分の手と同じものが水面に映った。どんな風に手を動かしても、必ず自分のそれと同じ動きを映すのが面白くて、少年は手を握りしめたり開いたりを繰り返した。これが鏡というものかと、少年は今更ながらに感動に近いものを覚えた。
    少年は恐る恐る水の上へ、身を乗り出した。見下ろした先には人間の頭部に見えるようなものが確かに映っている。だが、それは少年が思い描いてきた自画像を裏切るものだった。水面に映り、自分を見返している顔は酷くおぞましいものだった。眼窩は落ちくぼみ、色の異なる肌がいくつも縫い合わされて継ぎはぎだらけだ。凍てついた水に手を突っ込み、搔き消そうとしても、水はすぐさま醜い像を結ぶ。
    ――ああ、だからか。
     だから、あの屋敷には鏡がなかったのか。
    だから、自分では飽き足らず、美しい弟を創ったのか。
     だから、自分が失敗作になったのか。
     馬鹿みたいだった。自分の姿を見たこともないのに、普通の人間であると信じて。所詮より高次の完成品を生むための試作品に過ぎないのに、成功したホムンクルスとして創造主に愛されていると思い込んで。自分でさえも目を背けたくなるほど醜いのに、比ぶべくもない美しい弟に嫉妬して。これでは道化の方がまだましというものだ。
     おかしみを堪えきれず、涙が出るほど笑った。だが、ひとしきり笑ってしまった後には、酷く虚ろだった。
    ――こんな真実を知るぐらいならば、いっそ目覚めなければ良かったのに。
     あの時、喉を掻き切られて確かに死んだはずなのに、何故生き返ったのだろう。いっそのこと死んでしまっていた方がどんなに良かったことか。むしろ、醜いと言って捨てるのならば、何故生まれた時にこそ殺してくれなかったのだろう。そうすれば、こんな惨めな思いもせずに済んだのに。
     耳元ではうるさいほどに、風が轟々と唸っている。いつの間にか降り始めた雪が、横から体に吹き付けていた。――怒り、悲しみ、憎しみ。その全てがどろりと黒く渦巻いて、怒涛のように激しく押し寄せてくる。胸の奥がきつく締め上げられ、息が苦しくなる。荒い呼吸を繰り返すうち、涙がとめどくなく溢れ、吐くように泣いた。想像の中で幾度も幾度も自分の喉を切り裂きながら、泣き続けた。


     雪山での暮らしは単調だった。朝陽と共に起き、火を熾して簡単な食事をとる。雪を溶かした白湯だけで済ませることもしばしばだった。それから、体力を消耗しきらない程度に、陽の高いうちは山を歩き回り、食料となる木の実や焚火にくべる枯れ枝を集める。この時、罠にかかったり、何らかの事故で死んだりしている動物が見つかれば、だいぶ幸運だった。ドラゴンスパインを訪れる人間は多くないが、それでも時たま緑色の服を着た登山者が現れる。少年はそういった人間と遭遇しないように、細心の注意を払っていた。水面で自分の顔を確かめて以来、何かを被り、頭部を隠そうかとも思ったが、雪山を徘徊するのに視界が制限されるのは危険であったし、ここで暮らしている限り自分から人間を避ければ事足りる。魔物だ、と叫ぶ声が、未だに少年の耳に木霊していた。
     夜には朝と同様、簡単な煮炊きをして、質素な夕食を済ませる。時折、登山者が置き忘れていった野菜が手に入れば野菜スープにありつけたし、そうでなければ木の実を煮たものをひたすらに食べていた。肉は滅多に手に入らなかった。


    -----------------------------------------------------------------


    【「感情教育」】

     手渡された鍵を鍵穴に差し込んでまわすと、いとも簡単に閉ざされた扉は開いた。
     普段から鍵をかけてあるぐらいだから、容易には他人を踏み込ませたくはない空間であろうことぐらいは察しがつく。だから、絵を描くための新しいキャンバスが欲しいと二号がぼやいた時、だったら自分の古い絵を塗りつぶして使えばいい、とアルベドがこの部屋――かつてアトリエとして使い、今は倉庫代わりになっている――の鍵を渡してきたことには、少々面をくらったものだ。アルベドが人を揶揄うことなどあまり考えられないが、あまりにも素直に手渡されたので、本当にこの鍵で開けられるのかどうか半信半疑だった。
     木製のドアは年季が入っていて、開けようとすると酷く軋んだ。部屋の窓はカーテンで閉ざされて暗く、埃っぽかった。そして、油絵の具独特の、鼻を突くような嫌な臭いが埃とともに堆積していた。二号は早速これまた埃っぽいカーテンを咳き込みながら開け、窓も開放して、淀んだ空気を新鮮な空気に入れ変えようとした。
     光が差し込んだ室内は、古めかしくも清潔な雰囲気だった。四方の壁は白漆喰で塗られ、あちこちに大小さまざまなキャンバスが立てかけられている。部屋の中央にはイーゼルがあり、そこに置かれたキャンバスには黒い布がかけられていた。
     二号は改めて部屋の中を見回す。アルベドにはこの部屋にあるキャンバスならば、どれを使っても構わないと言っていたが、適当に一つ持ち出すにはあまりにも数が多すぎる。なんとなく油絵が描きたいと思っただけで、キャンバスの大きさについては特にこだわりを持っていなかった。なんとなく一番手近なところに立てかけてあったキャンバスに手をのばした。
     大きさが均一ではない複数のキャンバスには、様々な絵が描かれていた。モンドの穏やかな自然や雄大なドラゴンスパインを描いた風景画、見知らぬモンド人が微笑んでいる肖像画、夕暮れの実や酒瓶がテーブルの上に転がっているだけの静物画。中には、薄く下塗りをしただけのものや、木炭であたりをつけただけで放棄されたものもあった。
     アルベドの作品を見ることが今日の目的ではなかったが、いざ見始めてみると他にどんな絵があるのか、気になってしまった。灰色の埃が被っているのを払いながら、二号は部屋中のキャンバスを検分した。大概は風景画か、静物画だった。変わったものとしては恐らく観察目的で描いたのであろう、ヒルチャールやスライムといった魔物の絵があった。油絵具でやけに写実的に描かれたスライムには、思わずおかしみを誘われた。
     部屋の片隅には、白い布で覆われた一角があった。シルエットから見て、それもまた壁にもたれかかった複数のキャンバスに違いなかった。二号は少しだけ迷って、その布を取り去った。好きなものを持って行って良いと鍵を渡されはしたものの、明らかに隠されているものにまで手を触れたとばれたら、面倒かもしれないからだ。だが、好奇心の方が勝ってしまった。
     布を取り去って現れたのは、この部屋のあるどの絵とも違うものだった。色遣いは暗鬱で、筆のタッチも激情的で荒々しい。だだ、何よりも二号の目を驚かせたのは、その題材だった。そこには、モンドの自然や生活の風景は一切なかった。代わりに描かれているのはどこか悲劇的な光景だった。罠にかかって激しく咆哮する雪狐や、雪原で絶命している裸体の人間、あるいは切断された脚や腕。何故、こんなものを描くのだろうと思わせられるようなものばかりだった。
     二号は部屋の中央にあるイーゼルへ歩み寄った。そこに置かれたキャンバスにはどっしりとした黒い布がかけられ、あたかも絵の番人のようだった。いつだったか、自分がまだ雪山に暮らしていた頃も、こうして布で隠されている絵を盗み見た記憶があった。
    布を取り払って現れたものに、二号は息をのんだ。黒々とした絵で、無数の屍が積み重ねられるように描かれている。目を背けたくなるような、おぞましい絵だった。
    傍らにある木製のテーブルには、使いかけのパレットや絵筆がそのまま投げ出されている。パレットに残された絵の具に触れると、硬く固まっていた。ここに残された物たちが、この不可解な絵の制作が中途で断念されたことを物語っていた。布を丁寧にかけ直し、キャンバスはどれ一つ持ち出さず、扉に鍵をかけて部屋を後にした。その晩は向かいの席でパンを千切っている相手に、例の絵のことを訊くか訊くまいか悩んでいる間に、夕飯のシチューを食べ終えてしまっていた。
    騎士団の急ぎの仕事があるらしく、アルベドが工房に引きこもってしまったため、それから一週間はあの部屋の鍵を借りることができなかった。新しいキャンバスを手に入れ損ねたため、絵画へ向けられた制作意欲は宙吊りとなってしまい、二号は仕方なく家の裏手にある庭で薔薇の剪定に励んだ。見た目の良くないものは摘んで、薔薇のジャムや砂糖漬けにしたり、あるいは紅茶の香りづけに使ったりした。
    鍵を借りられたのは、それから更に数日後だった。この前はどのサイズのものを使うか決められなかったから、と言うと、またもや容易に鍵を渡された。再び訪れた古めかしいアトリエはやはり埃っぽく、どこか秘密めいていた。
    持ち帰るキャンバスを決めると、二号は部屋にただ一つ置かれていた丸椅子を引っ張り出してきて、例の絵の前に座った。暗澹とした色調で、激しい筆遣いの画面はやはり二号の理解の埒外にあったが、これと良く似た光景を知っていた。自分が失敗作として捨てられた龍の腹の中のそれだ。死んだはずの龍の心臓が未だ赤く脈打つ、あの禍々しい空間は、自分と、自分以外の失敗したホムンクルスたちの墓場だった。そこに捨てられた遺体は、みな顔を潰されるか、体を切断されるかして、まるで割れてしまった皿のように無造作に投げ出され、積み重ねられていた。
    ――あいつも、あの光景を見たことがあるんだろうか。
     自分が目覚めた時には恐らく土に還り、消え去ってしまった顔も見たことのない兄弟たちの遺骸。それを、あいつもあの無垢で美しい顔で眺めたのだろうか。一体どんな気持ちで眺めたのだろう。絵には随分と物悲しい雰囲気が漂っている。だとすれば――。
    二号は陥りかけた思考を振り払うように、首を横に振った。そして、今しがた眺めていた絵に乱暴に布をかけ直した。こんなものは、いわば成功作という立場から無数の失敗作を描いた絵に過ぎないのだ。
    その晩、二号は持ち帰ったキャンバスをアルベドに見せた。白く塗りつぶして再利用していいか、念のための確認だった。アルベドは懐かしがり、再利用してくれて構わないと言った。例の不可解な絵については一言も触れなかった。

     雪を踏み分けながら、轟々と吹き付ける風に二号は辟易していた。山の天候は変わりやすい。アルベドがドラゴンスパインでの研究活動のために設えた拠点を出た時には、小雪がちらついていたものの、風は穏やかだった。銀色の絵の具を作るために、星銀鉱が欲しかったのだ。一、二時間で帰る予定だったが、奇しくもその間に天候が悪くなってしまった。
     龍の腹で目覚めてからというもの、しばらくこの雪山で暮らしていた二号には、この程度の悪天候は別段苦にするほどのものでもない。レインドットが何故そのように設計したのかは謎だが、どうしてだかホムンクルスは体温が人間よりも低いらしく、この雪山でもそれほどの寒さを感じずに済んだ。だから、二号は長く雪山に暮らすことも出来たし、アルベドもまた研究調査で山を歩き回れるのだ。
     凍てつく風を頬に感じながら、ふと自嘲めいた気分になる。どれだけ人間に似せて作られようが、その中に溶け込もうが、結局のところ自分も彼も単なる化け物なのだ。ドラゴンスパインは自分たちの創造主たるレインドットに創られた魔龍ドゥリンの墓場でもある。いわば、兄弟の死骸の上を自分もアルベドも歩き回っているのだ。
     風の強さが気掛かりなのは、拠点に戻る前に一つ寄らねばならない場所があるからだった。アルベドに頼まれたお遣いで、雪狐の餌場にラズベリーを置いてきてほしいというものだった。自分で行けばいいじゃないか、と突っぱねてみたが、先週皿を割ったのは誰だったかな、と言われ、黙って頷くしかなかった。
     教えられた餌場は拠点に向かう道を途中で逸れて、石造りの廃墟をのぼっていくと辿り着く。露営用の天幕が張られているが、ところどころ破れている。設営した人間があえて放棄したか、それとも遭難したかしたような、人間の気配のしない場所だった。長い雪山生活でここに無人の露営地があることも、アルベドに成り代わる決意をして彼の一挙手一投足を観察し始めたことでここが雪狐のたまの餌場になっていることも知っていたが、こうして餌を携えて訪れたのは初めてだった。
     辺りを見回すと、天幕から少し離れた場所に雪狐が一匹だけ座っていた。明らかにこちらを視認しているはずなのに、逃げようとしない。この姿であるから、いつも餌をくれる存在だと思い、警戒心を緩めているのだろうか。試しに、銀の餌皿にラズベリーを数個置いてみる。だが、鼻をひくつかせるだけで、寄り付こうとはしない。自分が近くにいるからなのかと思って少し離れて様子を見てみるが、結果は変わらなかった。
    雪狐の方へ近寄った時、ようやくその理由が分かった。雪に点々と血が滲んでいる。。人間か魔物かに襲われでもしたであろう、何か鋭いもので傷つけられたように脇腹が抉れ、毛の間から肉が生々しく露出している。
    雪狐は金の瞳でじっと二号を見上げてきた。自分が動けない分、危害を加えてくる相手かどうか警戒しているのだろう。二号はそれを無感動に見下ろしていた。雪山での生活のなかでこんな風に怪我をした雪狐は数限りなく見てきたし、死んでから間もない新鮮な死体は時折食べて飢えを凌いできた。二号にとって、雪狐は不運にも死んでくれれば自分が肉という幸運に恵まれる生き物だった。
     アルベドに持たされた分のラズベリーは全て銀の餌皿にあけた。怪我をした雪狐は物欲しそうにそれを見つめている。
    「……食べたければ、ここまで来て食べればいい」
     狐はぴくりと耳を動かすだけで、立ち上がろうとはしなかった。二号はますます強まってきた風に苛立ちを覚えながら、拠点の方へ道を下っていった。戻るとアルベドに餌を置いてきたか訊ねられたので、適当に相槌を打った。
     翌日、前日には採掘しきれなかった星銀鉱を探しに出ようとしたら、再び雪狐用のラズベリーを持たされた。昨日のように天候が悪くなってから行くのでは面倒だと思い、鉱石を採掘する前に用事を片してしまうことにした。怪我をした雪狐のことなどすっかり忘れていた。
     例の場所に着いた時、二号が目にしたのは無残な雪狐の死骸だった。怪我をして動けないところを血の匂いを嗅ぎつけられて、他の動物に食い荒らされたようだった。白と灰色とに満たされた色のない世界で、死骸だけが赤く鮮やかだった。二号はそれを冷ややかに一瞥しただけで、持たされたラズベリーを餌皿にあけ終えると、その場を後にした。その日もやはり風が強く、轟々と耳障りな音を立てて吹き荒れていた。
     お遣いの不備を指摘されたのは、その日の夕食の席でのことだった。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator