シャンウタ転生パロ 第四話 花炎※キャプション必読でお願いします。
いつからだろう、こんなにも赤い炎に惹かれるようになったのは──
◇
暗闇にぽつりと浮かび上がる一粒の炎に、ウタは手を伸ばしていた。
「ウタ!」
カシャンと、何かが割れる音と共に、甲高い義母の声がする。それでいくばくか、視界が開けた。
「母様……」
義母がウタの手元にあるアロマキャンドルを奪い取り、ふっと、火を消す。
「まだ、治ってなかったのね」
ため息混じりのその言葉に、ズキ、と少し胸が痛む。
ウタは火を見ると、触れようとする癖があった。触ったら熱いだけ、危険なもの、そう、頭のどこかではわかっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。──それに、燃え盛る"赤"にどこか安心感を覚える自分もいた。
「ごめんなさい……」
「あ、いいえ、責めてるんじゃなくてね。それに、私の方こそ、消さないまま出ちゃって、不用心だったわ」
ウタはもう寝たものだと思っていたらしい。事実、連日取材やらなにやらで遅くに帰ることもあったし、まして、今日はさっきまでうたた寝してしまっていた。
「これからお風呂? だったら早く入っちゃいなさい」
「は、い」
パチン、と義母が洗面所の電気をつける。さっき割れたのはワイングラスか何かだろう。義母はたまに、アロマキャンドルだけに照らされた湯船で酒を飲むことがある。お楽しみを邪魔してしまった、という罪悪感に苛まれながらも、肉体疲労は如何ともしがたかった。
◇
どんよりと翳った空模様がウタの心象を表しているようだなと思っていると、後ろからフルートのような高い声が聞こえた。
「おっ、これはこれは天下の歌姫ではありませんかー。今日も送迎付きとは贅沢ですねー」
「ちょっとペローナ、やめてよ」
「悪い悪い、冗談だよ。おつかれ」
そう言って肩を寄せてくるのは、この学校で唯一心開ける親友・ペローナ。軽口を叩きながらも、自作したらしい、顔のついた日傘でウタを隠してくれる。
ここ最近、ずっと学校や家の入り口にマスコミが張っている。テレビやラジオや雑誌のインタビューなど、どれもきちんと人を通して受けているから、多少減ったものの、いつになっても張り込む人はいなくならなかった。
「はぁ……」
「随分久しぶりの登校だな。一ヶ月ぶりくらいか?」
「ちょくちょく来てはいたよ。まぁ、確かに朝からちゃんと登校するのはずっとなかったけど」
チラ、と周りを確認する。
うちの大学──エレジア芸術大学は、数多くの作家やアーティストを輩出しているだけあって、マスコミ対策はしっかりしている。それでも、生徒の中に情報を流そうとする人がいると、防ぐのが難しいのだが。自意識過剰かもしれないが、どこ行っても見られてる気がする。はぁ、と、再度ため息をつく。
「大変だな、嫌だったらファッションショー出なくてもいいんだぞ?」
「いや、それは出る。ずっと前からの約束だったでしょ」
「ん……私は出てもらいたいから、ウタが出てくれるっつーなら、あんまり強く止められねーよ。でも、無理そうだったら遠慮なく言えよ」
「ありがとう」
別に、と、照れくさそうにそっぽを向くペローナに目を細めるウタ。
美術学部服飾学科と音楽学部声楽科。接点のなさそうな二人の交流のきっかけは、ペローナの方からファッションショーのモデルになってくれ!と、ウタに声をかけたことだった。初めはやや強引で毒舌なペローナに圧倒されていたウタだったが、口では反発していても内実は、真面目で気遣いのできるいい子だった。
人を寄せつかない高圧的な態度や毒舌で友人がほとんどいなかったペローナと、理事の娘だからと媚を売られるか、才能に嫉妬され除け者にされがちなウタ。はぐれもの同士、何か通じ合うものがあったのか、すぐに長年の友であったかのように付き合い始めた。
「そうだ、昼時間あるか? せっかくだから久しぶりに一緒に何か食おう」
音楽学部の建物の前に到着する。ウタに傾けていた日傘を担ぎ直したペローナは、にっこり笑って提案した。
「もちろん!」
こちらも満面の笑みで返すと、手を振りつつ、あんぐりと大きく口を開けた化け物のような扉をくぐった。
◇
「へぇ、さすがにもうそんな話も出てくるんだな」
そう言って、ズズっと今流行りのスムージーを啜るペローナ。 そういえば忘れてたけど、と、シャンクスに勧誘された話をした。この間乗った船も楽しかったし、本格的に受けてもいいかなーと思ったが、もう決めていいものかと誰かに相談したかった。
「いや、これはあんなことになる前にあった話」
確かにあれから色々話は来てるけど、と、これまた今流行りのカップケーキを頬張る。といっても、学内で流行っているというだけで、世間にはそれほど浸透していない。うちの大学のカフェテリアはオシャレで安くて美味しい、と学生に評判である。
「ふーん。まぁ何にせよ在学中に声がかかるなんて羨ましい限りだよ。いくら名門の芸大出てても売れないやつは売れないからなー」
遠い目をして言うけれど、ペローナはペローナで大学内外でそこそこ高い評価を得ているのをウタは知っている。この間も雑誌の記事にデザインした衣装が載ったと言ってたような。
「やっぱそうだよね。保留って返事にしたけどあそこ以上にいいところは今のところないし──受けようかなぁ」
「ま、そこはお前の好きにすればいいんじゃねぇの。まだ一年くらい猶予があるんだろ、ゆっくり決めな」
まあるい目をふっと細めるペローナ。ついてる、と口元を拭ってくれた。
「んむ」
このカップケーキ、クリームたっぷりなのはありがたいのだが、どうもうまく食べられないのが難点だ。
ふと、後ろからガタッと大きく椅子の揺れる音がした。不審に思って振り返ると、一人の、学生と思しき者が慌ただしく席を立っていた。
「うわ」
どこかで見た覚えがあるような気がしたのだが、記憶を探るよりも前に、ペローナの嫌悪感に満ちた声に遮られた。
「ん?」
再びペローナの方へ顔を向けると、出た声とリンクした表情になっていた。
「いや──」
と、ペローナは耳を貸せというジェスチャーをする。頬張っていたカップケーキを一旦皿に置くと、少し立ち上がって正面に座るペローナの方へ身を乗り出した。
(あいつ、前に美術学部でモデルやってた子に付きまとったせいでちょっとした騒ぎを起こして、停学になってた奴だよ。いつの間に学校に戻ってきてたんだな)
なるほど、小声で話すだけの内容である。
(知らなかった)
さすが、ひと学年上かつ人より一年長く通っているペローナは、情報量が違う。
(まぁ、騒ぎっつっても美術学部内での話だからな、そっちまでは伝わんなかったんだろ。なんにせよ──)
「気をつけろよ」
例の人の姿が完全に消え去るのを確認したペローナは、スカートを抑えながら座り直す。
「何が?」
「いや、お前、近頃前にも増して妙なファンが多くなってるだろ。だから、狙われないよう気をつけろよ」
「えぇー? 特に接点ないはずだし、大丈夫だと思うけど」
なんとなく見たことのある顔立ちだったが、そんな人、大学にはごまんといるものだ。同じ講義を取っていたら、話さずとも顔は合わせる。
「そうかぁ? なんかあったら、いつでも相談しろよ。私が助けてやる」
ペローナはなんてことないように言うが、相互に心底信頼していなければ、出てはこない言葉である。
「────ペローナって、たまに、こう、そういうとこ、あるよね」
「は?」
なんだろう、男前、とでもいうのだろうか、同性異性関係なく惚れそうな気概をたまに見せるんだよな、この人は。
「というか、ペローナこそ心配だよ。見た目は超かわいいのに口悪いし」
「おいそれ貶してねぇか」
「あ、ごめん」
「おいっ」
くすくすと口を押さえて笑う。ああ、心地いいな。シャンクスと離れてから忙しいし色んな人からの視線が痛いしでずっと気を張っていた。肩の力を抜いて笑うなんて、ほんとに一月ぶりな気がする。
「おっと、そろそろ行かねぇと」
「ああ、この後講義なんだっけ」
「そうそう、この間休講になったかわりにこんな眠くなる時間に変えやがってよぉ」
文句を言いながらも開始時刻に間に合うよう早めに移動を始めるあたり、根の真面目さが出ている。どうして他の人は彼女のこういう良いところに気づかないのだろう。
「頑張ってね」
「おう。お前も気をつけて帰れよ」
「はぁい」
と、言うも、今日は図書館で溜めに溜め込んだレポートやら何やらを終わらせようと思ってたんだよね。
スムージーの入っていたグラスを食器返却口に置いて去るペローナを遠目に見つつ、ウタは最後の一口を飲み込んだ。
しまった、寝過ごした!
図書館の自習スペースではっ、と顔あげる。窓の外はもう暗い。幸い、本にヨダレがたれる、なんてことにはなっていなかったが、そろそろ閉館時間だろう、ウタは急いでカバンにノートや本を突っ込んでいく。
「おじゃましましたっ」
司書が清掃を始めようとしている。もしかして、寝ているのに気を遣って起こさなかっただけで閉館時間は過ぎているのかもしれない。ただ、そう思ったのは図書館を出た後だから、今更確かめようはないけれど。
あんなところで寝るなんて、よっぽど疲れているんだろうな、と、他人事のように思う。でも、たくさんのファンが私の歌を待っていてくれている。それに、来週には学園祭のステージに立つための試験もある。立ち止まってはいられない。今日も帰ったら練習しよう。
「ウ、ウタちゃん……ウタちゃん!」
「えっ?あ、はい!」
西門へ向かう途中、そびえ立つ外灯の明かりがあまり入らない木影に差し掛かったあたりで何者かに声をかけられた。
「え……っと?」
振り返るが、闇に紛れていてそこにいるのが誰なのか、はっきりしない。声も特に聞き覚えはない。
「クルーズ船の歌姫になるって話、ほんとなの?」
「え、どこからその話を」
「いいから答えて」
にじりよってくる声の主。ウタは一歩後ろに下がる。
「────保留中だよ。ま、悪くはないかなー、と思うけど」
シャンクスと仕事をするのは楽しそうだし、あの人の側は居心地が良かった。ま、いちいち揶揄ってくるのは癪だけれど、あれはあれで彼なりのコミュニケーションの一環なのだろう。それ以外の面では好印象ばかりだ。手を擦ってお金のことしか考えてないやつよりずっと良い。
「そ、そんな、だめだよ、ウタちゃん」
「は?」
冷や汗がたれる。何だこの人。ウタが後ろに下がるにつれ、相手も近づいてくる。だんだんと、顔が外灯に照らされていく。
「ウタちゃんは、ボクの、ボクたちだけの歌姫なんだよ?! 許さない、みんなにチヤホヤされてさ。最初に見つけたのはボクなのに、あいつらに君の本当の良さなんてわかってない!」
不審者は何かを懐から取り出した。ウタがそれが何かを認識したとき、咄嗟に視界を塞ごうとしたが、もう、遅かった。
カチ、という音と共にライターに火が灯った。
「────っあ」
小さなライターは、火薬なぞがなければそこまで脅威にはならない。しかし、たった小さな炎の一粒でも、ウタにとっては脅威になりえた。それこそ、金縛りにあったように、その場から一歩も動けなくなるくらいに──
「ふ、やっぱり、あの話は本当だったんだね」
顔面蒼白、まさにそんな状態のウタをみて、恍惚とした笑みを浮かべる不審者は、ボトッボトッと、着火剤らしき直方体の固形物を地面に落とした。
「や、め」
ウタの絞り出すような必死の制止に効果などない。口角をこれでもかと歪める不審者は、しゃがみこんで、ひとつ、またひとつ、と火を付けていく。
「あ、あ、あ」
逃げなきゃ、逃げなきゃ、と頭の中で警鐘が鳴る。そう、頭では判断出来ていても、体が言うことを聞かない。そして不審者は、そんなウタに追い打ちをかけるかのように、語り始める。
「『エレジア芸大の惨劇』」
ヒュッと喉の奥が鳴った。
「12年前、芸大での学園祭のときに起こった事件、覚えてるかい?」
眼前の炎と象徴的な言葉が相まって、心の奥底に押し留めていた、忘れたい──忘れてはいけない──記憶が呼び起こされていく──
◆
十二年前──
当時も今も、このエレジア芸術大学の学園祭は、秋に行われる。いかんせん規模が大きいため、各学部は二日間の日数を与えられており、約一週間かけて開催される。文学部、音楽学部、美術学部の順だ。どの学部もメインイベントを抱えているが、中でも注目度が高いのは、四日目、音楽学部のフリーステージだった。
舞台の様子は学校全体に中継される上、著名な音楽家が数多く訪れているこの学園祭では、無名から一気に表舞台にのし上がるチャンスが大いにある。学生だけでなく、一般参加も募っているため、毎年応募者は星の数ほどいた。そしてその中には、齢九歳のウタも、いた。
「うわぁ、すごい、こんな大きなステージで歌っていいの?」
みごと抽選での出場権を勝ち取ったウタは、ゴードンに連れられてステージ横に来ていた。
「もちろんだ、存分に歌声を響かせなさい」
ゴードンは参加証明書を提示し、エントリーナンバーの印刷された名札を受け取り、ウタにかけた。
「はい!」
張り切って胸をはったウタを、スタッフに任せ、観客席に向かう。後方に、遠目でも目立つ赤髪がいて、ふっ、と口を緩めた。彼の隣で聴こうとも思ったが、今は自分がウタの父親なのだと思い直し、前方の席に座る。
五、六人の参加者の後、ウタの番が来た。
「お次は今年最年少の歌い手!エントリーナンバー39番、ウタ!」
「こ、こんにちは」
かちこちと、明らかに緊張した様子で登場するウタ。幼いが故の愛らしさに、会場の空気が和む。緊張するのも無理はない。今まで幾度かステージ発表をする機会はあったが、聴衆は学校に付随するミュージックスクールの生徒や保護者のみのものばかりだった。
「えっと、」
ウタは、ステージ中央に立って、小さな手にはやや不釣り合いなマイクをぎゅっと握る。キョロキョロ誰かを探すような視線をしているかと思えば、ゴードンと目があった途端、安心したような笑みをこぼした。ぐぅっと胸が熱くなる。
「それじゃあ、歌います。曲名は、『─────』」
今一度目を閉じ、真っ直ぐ前を見たウタは、すうっと大きく息を吸い、スピーカーから流れてきた伴奏に合わせて歌い出した。
初めこそ、声に震えが見られたが、中盤にさしかかるとウタも思いっきり楽しむように、体を揺らしたり、ステージを歩き回ったりしながら、歌った。それはもう、見事に。見事としか言いようがないくらいに。
終わる頃には、学園中を覆っていた喧騒が鎮まり、誰もが立ち止まってウタの歌声に耳を傾けていた。ある者はうっとりと耳を傾げ、ある者はキラキラと目を輝かせ、ある者は涙を零し、ある者は、作業の手を止めて、聞き入っていた。
ことが起こったのは、歌い始めから約五分後。ウタの歌が終わり、会場中、否、学園中が拍手喝采していたときだった。ステージに面した大通りに立ち並ぶ屋台から、火が出た。乾燥した季節で、一度燃え上がると、途端に、どんどん飛び火していく。隣の屋台、背後の植え込み、林──建物。屋台周りのものでは消火しきれないほどの大きさになった。
悲鳴と叫び声と炎とで、あたりはどんどんパニックになっていく。いち早く動き出したゴードンは、近くにいる係員に指示を出していく。チラ、とステージに目をやると、スタッフがウタの手を取り火のない場所へ導いていた。これで大丈夫だろう、と安心したかったが、どうにも胸が騒ぐ。
「シャンクス! すまない、ウタを頼めるか!」
スタッフに混じって呆然とする人に避難するよう促していた赤髪の人物──シャンクスに呼びかける。
「わかった」
やや驚いたような顔をされたが、シャンクスはすぐに動き出してくれた。隣にいたシャンクスの右腕たるベン・ベックマンはゴードンを補佐してくれるらしく、その場に残った。ゴードンはありがたく、その統率力と声量とを活用させてもらった。
◆
「ねぇ、あの、スタッフさん? もう大丈夫だよ、それに、こっちの道じゃ、火に近づいちゃうよ」
手を引かれて走っていたウタは、無言でどんどん突き進むスタッフが怖くなってきていた。初めは人の流れに沿って移動していたのに、そこから外れて、だんだんと火の進む道筋に近づいて行っているような気がする。
「そうだね」
思わず声をかけると、スタッフはピタ、と、立ち止まってくれた。しかし、このあたりは風向きからして、うかうかしていると、すぐ火が回ってきてしまう場所だ。現に、周りには誰もいなくなっている。
「あ、あの、痛い、です」
走っていたときは気にしていなかったが、随分強く握られている。
「あぁ……」
右手にある建物の屋根に火が昇ってきた。そのせいで逆光となり、スタッフの顔がよく見えない。
ごめんね、と、手を離されたが、すぐに手を返して握り直された。手のひらと甲がすっ、と、指で撫でられ、ぞわぞわっと鳥肌が立つ。
「え、」
不快感に耐えられなくて、強引に手を引く。そのまま後ろに下がろうとしたが、できなかった。ガバッと抱きしめられた。
苦しい、気持ち悪い!
「君の、君の歌は素晴らしいよ! とても感動した、とても心に刺さった! ずっとずっと聴いていたい、九歳でこれほどなら大人になる頃にはもっとずっと良い歌い手となっているだろう! 待ち遠しいよ!!」
「あ、りがとうございます」
耳元で叫ばれて、うるさかったが、いくら身をよじっても逃れられそうにないので、一応、対話の糸口になることを期待し、礼を言った。
スタッフから、くふぅっと、奇妙な笑い声がでた。そこでようやく、体が離れる。しかし、肩に手を置かれた。
「でも、それと、同時に、激しい羨望の気持ちもあるんだ。羨ましい。たったの九歳でこれほどまでの才能があるとは。ボクとはまるで大違いだ。何年もかけてやっとのことで入学したのに、君はいとも容易く超えるんだね、ボクを。羨ましい、いいや、妬ましい、憎らしいよ」
声からも、ぼんやり見える顔からも、笑っているはずななのに、呻き声が出るほど肩を強く掴まれている。
「ボク、ボクさ、なんかもう、あんなの聴いちゃったら、もういいかなって思ちゃったんだよね。学祭のステージにも立てなかったし……」
ウタはぼんやりと上を向いたスタッフ──不審者の様子を見て、チャンスだ、と、逃げ出そうとする。火の手はもうすぐそこまで来ている。汗が吹き出すほど近くに炎があった。煉瓦で舗装された道から離れた芝生の上だから、瞬く間に炎が広がっていく。
そろそろ離れないと、まずい。しかし──
「待ってよ。一緒に炎に包まれよ?」
必死に身を捩って離れようとしたが、無意味となった。体が持ち上げられ、再度人形のように抱きしめられる。いくら手足を、全身をバタつかせても、成人男性と女児の力の差は歴然としている。
「ひぅっ」
ここにきて、ようやく己の置かれている状況の最悪さをウタは自覚した。叫ぼうにも、肺が押しつぶされていて、うまく声が出ない。前後左右に周り始めた炎のせいで、酸素も足りていない。まさに、絶体絶命。
視界がぼやけてきた。もう、だめなのか、と、意識を手放す、その時──
「ウタ‼︎」
己を呼ぶ誰かの声。ゆっくりそちらに首を向けようとすると、ぐぁっという不審者の唸り声と共に、身体に解放感が訪れた。
「だれ……」
見知らぬ人だ。炎による逆光で顔が上手く見えない。先程の不審者の様子を思い出して、再度体をこわばらせたウタだったが、すぐに緩めた。背後の炎にも霞まないくらい美しい赤髪を持つその人が、とても丁寧にウタを抱いてくれていたからだ。場違いにも、キレイ──と炎に照らされた髪に手を伸ばしかける。
「もう大丈夫だからな」
優しいその声を、聞いたか聞いていないか、ウタは、今度こそ意識を手放した。脳裏には、燃え盛る炎と、"赤"が残っていた。
◆
「事件のきっかけは、毎年開かれるフリーステージ。学内各所に中継されるこのイベントは多くの人に聞いてもらえるチャンスでもある。それでこの舞台は、芸大生だけでなく、一般の人や下克上を狙うアマチュアの人にまで門戸を開いている。そしてその年参加した人の中には、当時わずか九歳の、音楽学部理事の娘もいた。そんな彼女の歌には、聞いた誰をも魅了する力があった。老人も子どもも、善人も、悪人も───」
うまく答えられないウタをよそ目に、不審者は、あの日のことを、酔いしれるように語り続ける。
「どのくらいかって? そうだね、それはもう、彼女の歌を聴くため、学園中が動きを止めて、静まるくらい。そう、誰もが動きを止め、手を止め、立ち止まった。調理中であろうとね。もうわかったかい? 歌が終わる頃には火の手が各所から上がり始めた。時期は乾期だった。学校には植え込みや林だけでなく、古い木造の建物もあった。ありとあらゆるところに飛び火して、人々はパニック状態に陥った。あんな状況じゃあ、人の本性が出るというものだよね。あるスタッフが、避難という名目で、少女と二人きりになった。後に全身火傷を負うも助け出された彼が言うには、彼女の才能に嫉妬して無理心中しようとしたためだとか。まぁ、すんでのところで偶然通りかかった人に少女は助けられたけどね。
その後なんとか鎮火して、事件は終結──なんてことには、もちろんならない。被害は甚大だった。死傷者を多く出した。捕まった犯人だけでなく、学校も批判にさらされ、莫大な借金を抱えることになる。
────ところで、世間は学校や屋台のスタッフを糾弾したけれど、本当に責められるべきなのは──誰かな? ボクは冷静な判断ができるから、少女のせいだと思うけれど、君は、どう思う? ウタちゃん。いや、天使の歌声を持つ、少女さん?」
「───っ」
うまく声が出せない。蘇った幼い頃の記憶と、彼の話が混じり合う。今ならわかることが、たくさんあった。どうして彼がそこまで知っているのか不思議でならないが、当事者からしても、ほとんど事実だ。そしたら、やはり、責められるべきは──
「近頃『新時代の歌姫』、『幸福を運ぶ救世主』だとか言われているけど、君の歌は誰かを幸せになんかしない。破滅をもたらす呪いの歌だ! だってそうだろう? ────12年前の悲劇を、また起こす気かい?」
ガラガラと、足元が崩れ去っていくような感覚がした。膝に力が入らない。
ああ、そうだ、そうなんだ、この人の言う通りだ。ぜんぶぜんぶ、私のせいだ。私が歌ったから、火事になって、たくさんの、これからの未来があった人を傷つけた、失わせた。忘れちゃいけないことなのに、周りが優しいからと目を逸らし続けてしまった。
それにそうだ、やっぱり虫が良すぎる話だったんだ、これまでのことは。この一ヶ月、舞台に立つ度賞賛されて、話題になって──でも、私はそんな大層なものじゃない、ただの、学生。だから、きっといつかお釣りがくる。こんな私は舞台に立つべきじゃないのかもしれない。だったら────
「でもボクなら!! 魔王のような君だって愛してあげれる!! ね、ボクと逃げよ? ほら、はやくこっちへおいでよ、ウタ──」
ウタの瞳の中には、炎と、手を差し出す悪魔のような男だけが、映っていた。
胸騒ぎがする。このままノコノコ帰ったら取り返しのつかないことになる、そんな予感があった。
「おい」
車内から、迎えに来たミホークに声をかけられる。ペローナはドアノブに手をかけたまま動かない。
「おいどうした、何か忘れたか」
「いや──」
自分一人であれば、多少帰りが遅れても誰にも迷惑はかけないのだが、今日はよりにもよって、ミホークが迎えにきてくれる日だった。きっと杞憂だ、と自分に言い聞かせて助手席に乗り込む。
「──ん?出ないのか?」
ハンドルは握っていても発進する気配のないミホーク。その視線は窓の外に向いていた。窓に映る顔は、険しげである。
「なんだよ、お前こそ何か忘れたのかー?」
ミホークはこの学校の関係者ではない。そんなことは無論わかっていながら、ペローナはカラカラと冗談を飛ばす。しかし相変わらずミホークは外を見ている。なんだよ、と、ミホークの膝に手を置き、身を乗り出して視線の先を追う。
遠くの方で、ぼんやりと何かが照っていた。外灯にしては明るすぎるし、ちらちらと不安定だ。ん、あれはもしや──
「お前はあれをなんだと思う?」
「っ、そこまで言うんだったらわかってんだろ、いくぞ!」
面倒ごとはごめんだとばかりにやる気の無さげなミホークを急かし、ペローナは車から飛び出した。
「おい! 大丈夫か!」
駐車場と西門へ続く道とを阻む林を迂回すると、曲がり角の近くで案の定火の手が上がっており、人もいた。
「っと、それじゃ、答えはまた今度聞くよ。バイバイ」
炎よりこちら側にいた人物は、何事をか呟いたあと、闇に紛れて消え去った。それを追う気配を背後で感じたが、ペローナは眼前の景色から目を離せなかった。
「ウタ……?!」
炎に照らされ浮き上がる影、それはウタ特有の髪型をしていた。影は、ペローナの声に触発されたかのように動き出す。しかもそれはだんだんと炎に近づいていくもので。
「おい! 危ねぇぞ!! 離れろ!!」
炎は周囲に燃え広がり、胸の高さにまで達するものもある。あの距離でも熱いだろうに、なぜ近づこうとするんだ。ペローナはすぐさま駆け出した。
「ウタ!!」
あと数センチで伸ばされたウタの手に炎が触れる、というところで間一髪、思いっきりウタにタックルした。倒れ込んだのは、火の回っていない舗装された地面の上。擦ったり打ったりして、普通に痛い。だが、体の痛みも服の汚れも気にしてなんか、いられない。
「ウタ……!」
起き上がって、なにやっているんだ、と、怒ろうと思ったのに、声が震える。涙がでてくる。
「ペローナ……」
ぼんやりしていたウタを強く、強く抱きしめていると、ポツリと耳元でそんな声が聞こえた。
「ウタ……」
正気に戻ったか、とウタの肩に手を置き、体を引き離すと、ウタの目にも涙が溜まっている。よかった、と安堵するのもつかの間、ウタは顔を大きく歪ませ、ペローナの胸に顔を埋めると、嗚咽をもらしはじめた。
「ペローナ、わたし、わたしっ!!」
「いい! 喋らなくていい、大丈夫だから、後でゆっくり聞いてやるから、今は、休め」
「ちがう! ちがうの!! っう、ごほっげほっ、はっ、は」
ヒューッヒューッとウタの喉がいやな音を出している。咳まじりの呼吸、これはいわゆる過呼吸というものか? ど、どうしたらいいんだ??
「あぁ、そこからなら五分とかからないだろう。早く来い」
ペローナがおろおろと、ウタの背をさすっていると、どこかへ行っていたミホークが誰かに電話をしながら戻ってきた。
「ミホーク!!」
「あぁ」
「ど、どうしよう、どうしたらいいんだ、これ」
ペローナは焦りを隠そうともせず、ミホークのコートの裾に縋り付く。そうこうしているうちに、ウタは痙攣し始めた。
「あ、あ、ウタ、ウタが死んじまう!」
「落ち着け。過呼吸で人は死なない」
「そ、そうなのか……?」
うるうると濡れる瞳でミホークを見上げる。それを見たミホークはすぐに跪くと、ウタに呼吸法を伝授しようとする。が、それより先に、ふっとウタの体の力が抜けた。瞼は閉じているが、息はしている。気絶したのか。
西門の向こうでキーッ、バンッと車の音がした。顔を上げると、慌ただしく誰かが走ってきている。
「すまん、ありがとう、もう大丈夫だ」
そいつはミホークに礼をすると、ペローナからウタをぶん取った。そうして、ウタの膝の裏に手を回し、抱き上げる。
「救急車を呼んだ。10分ほどかかるそうだ。門のところで待っていろ」
「そうか、わかった」
「消防は?」
未だ燃え上がる火を横目にペローナが訊く。
「呼んだ」
素っ気なく答えるミホーク。ウタの関係者と思しき赤髪の男は、それを聞くと、ペローナに目礼し、西門へと歩いて向かった。
「ところで──何か縛るものは持っていないか?」
「は?なんで」
一連の急展開でやや呆然と座りこんでいたペローナは、ミホークのあまりに場違いな発言に、いつものように辛辣な答えを返してしまう。
「いや──」
明確に理由を言おうとしないミホークにまた毒舌が発揮されそうになるが、声を出すよりも先に、ミホークの手がペローナの首元に近づいてきた。
「なんだ、あるじゃないか」
シュルリと、胸元を飾るリボンが抜き取られる。
「おい待て、こら、何勝手に持って行ってんだよ!」
リボンを手に入れるなり、ミホークは炎を避けてまたどこかへ行こうとする。
「また買ってやるさ」
ペローナの抗議に先んじて制しようとするミホーク。
「はっ?! そんなんで騙されねぇぞ、おいコラー!!」
背丈の分足も長いミホークは一歩が大きい。立ち上がってスカートについた砂埃を払ったペローナは、小走りでミホークを追いかけた。
──たどり着いた先では、例の前科者がのびていた。
「は? こいつ──」
心の底から侮蔑の念を向けるペローナを知ってか知らずか、ミホークは先程奪ったペローナのリボンで奴の手首をきつく縛り始める。それに更に顔を歪めるペローナ。
「官憲も呼んだ。引き渡す」
「──そうかよ」
状況からして、語られずとも色々察せられた。まず気遣うべきはウタなのだとわかっていても、ふつふつと湧き上がる怒りはいかんともしがたく、ペローナはゲシッと放火魔を蹴り飛ばした。
◇
門に到達してからそう何分も経たずして、救急車がやってきた。救急隊員に簡単に状況とウタの所属を伝えると、一人は同行できるとのことなので、ゴードンに軽く連絡した上で、救急車に乗り込むことを決めた。
「ところで、彼女とのご関係は?親族の方ですか?」
しかし救急車に足をかけたとき、他の隊員にそう止められた。人は親切だけで動くときもあるが、すべてがそうとは限らない。疑うのは、妥当な判断だろう。
「あー、いや、おれは──」
なんと言ったらいいものか、仕事相手、では逆に不自然だろう。チラとウタが眠っているのを確認すると、シャンクスは本当のことを告げた。
「おれはこいつの
───────────婚約者だ」