最高のすき焼きの話この世界で男性カップルに子供が授かる確立は、ちょうど宝くじの一等を当てるのと同じくらいなのだという。
最近は研究が進んだこともあり、厳密に計算すればもう少し確率が高いらしいのだが、とにかく、昔から良く言われる例えはそれだ。宝くじの一等が当たるくらい。世の中のどこかにはそのラッキーな当選者がいるのだろうけれど、どこか遠い世界の話。
その宝くじの一等みたいなミラクルラッキーを、桜木花道は引き当てたらしい。
「おめでとうございます。ご懐妊ですね」
最近腹の調子が悪くて病院に来た花道は、検査の途中で別室にひっぱられ、科をたらいまわしにされた挙句とうとう産婦人科に回された。一日かけてわかったことは、天才桜木は天才なだけでなくスーパーラッキー桜木であったということだった。
「プライベートな質問になりますが、パートナーはいらっしゃいますか?」
「ハイ」
「ご出産を希望されますか?」
「モチロン!!」
おじいちゃん先生の顔に少し笑みが浮かぶ。
誰も本気で宝くじが当たる前提では生きてないだろうから、急に妊娠がわかると動揺するひとも多いのかもしれない。どこか腫れ物に触れるような応対がほころぶ。おじいちゃん先生が、もう一度「おめでとうございます」と言ってくれた。花道には、幸い生涯を誓い合ったパートナーがいるので、このスペシャルラッキーはただただ嬉しいニュースだった。花道はワクワクして、このことを告げたら洋平はどんな反応をするだろうと考えた。口元がにんまりと上向く。洋平、よろこぶだろうな。もしかしたら泣いちまうかも。
「こちらの冊子を差し上げますので、パートナーの方と読んでみてください。次の検診は、もし可能ならパートナーの方もご一緒に」
「ゼッタイ来たがる」
「そうですか。それは良いことだね」
それからいくつかの注意事項を教わって、次の検診の日付が決まって、花道はようやく病院の正面玄関を出た。
空気が停滞しているような病院のなかから、半日ぶりに外に出ると、青空が広がっていて、夏の午後の熱気が花道を包んだ。それもどこか心地よい。夏に抱きしめられてるみたいだと思った。空も蝉も入道雲も、花道を祝福しているみたいだった。
花道は車に乗って、ふと己の腹を撫でる。まだ全然普段と変わらない、筋肉質なぺたんこの腹だ。この下に命があるなんて不思議だった。予定日は冬になるという。
普段より安全運転を心がけて、いつものスーパーに寄る。今日は病院で時間を取られるから簡単にラーメンか何かにしようと思っていたけれど、やめた。桜木家では、お祝いの日と大晦日はすき焼きと決まっている。花道はネギと焼き豆腐と白滝とシイタケをポイポイとカゴに入れた。夏のことで春菊がないから、水菜。あと締めのうどん。
そして主役の牛肉コーナーへと差し掛かった。牛肉がずらりと並ぶコーナーの薄切り肉を見比べて、花道はいつもよりちょっとお高めの国産牛肉を手に取った。差しの入った薄切り牛肉が丁寧に折り畳まれている。乗ってるトレーまで、なんか和風の模様が入って高級そうだ。花道のいつも作るすき焼きは、肉の高級さより量が大事で、薄い細切れ肉をたくさん買う。こういういかにもすき焼き〜という肉は半額にでもなってないと買わない。すき焼きはどんな肉でやっても割り下さえちゃんとしてれば旨いと言うのが花道の持論である。なんなら鶏すきだって豚すきだっていい。でも今日は特別なお祝いなので、花道は高級な肉を2パックも籠に入れた。ついでにいつもの大入りの細切れも1パック。
それでもそわそわして、ハーゲンダッツのアイスまで籠に入れて、花道はふわふわした気分で家に帰った。
シャワーを軽く浴びた後、白米を炊いて、すき焼き鍋の準備を済ませた。
甘いしょうゆの香りが室内に漂っている。
すき焼きは準備に手間がないから、あっという間に終わってしまった。
さてどうしよう、と思ったところで玄関から洋平の声が聞こえた。
「ただいま〜」
リビングまで入ってきた洋平は、テーブルの上の鍋を見やっておや、という顔をする。
「あれ、今日なんかお祝いあったっけ?」
「ぬふふ。なんだと思う?」
「え〜?なんだろ……バスケ関連?」
「チガウ」
両手で口元を押さえるが、くふくふと笑いが漏れる。
「当てたらチューしてしんぜよう」
「ンー?じゃあ是非当てなきゃな。……何かが当たったとか?」
「お。ちょい近いカモ」
「うーん……考えながらシャワーして着替えて来る」
「オウ」
花道はテーブルの上を眺めみた。玉子もよし、結構辛党の洋平のために七味と一味も出す。注意した方がいい食材に生卵が入っていたから、花道のは半熟ゆで卵を添えた。これはこれで旨そう。
洋平は烏の行水で、いつも風呂は10分かそこらで上がってくる。冷蔵庫から缶ビールを出して、洋平の方に置く。キリン一番絞り。花道の分はコップに麦茶を注ぐ。
元々そんなに酒好きというほどではないから、禁酒はそれほど苦ではないなと思う。むしろ、アメリカで習慣づいたコーヒーを控える方が努力がいりそうだった。
まあそれも、花道は天才なので問題ないだろう。花道は自分の席に座って、お腹を撫でながらまたムフフと笑った。
「……花道?」
振り返ったら、階段に続く廊下の方で洋平が立っていた。スーツから着替えて、Tシャツとスウェットの気の抜けた格好だ。肩に白いタオルがかかっている。濡れた髪が降りて、いつまでも若いと良く言われる童顔が、妙に無防備な表情でこちらを見ている。洋平の視線がテーブルの上の麦茶とビールを往復し、そして腹に添えられたままの花道の手を見た。
「洋平。答えわかったか?」
「……わかったような気がするけど、口に出すの……はずれたら怖い」
「なんだソレ」
「だって、そんな夢みてーな話、ねーだろ……」
途方にくれたみたいな顔をした洋平に情けをかけて、花道はヒントをやることにした。
「じゃあヒントやる。最初の文字は~、『あ』!」
「『あ』?『に』じゃなくて?」
「に?」
あ、妊娠の『に』か。花道は赤ちゃんの『あ』のつもりだった。
「『に』でも合ってるかも知らん」
「花道~~。余計わかんなくなるだろ」
「じゃあもう正解発表。今日病院行ったら妊娠してるって」
「……マジ?」
「大マジ」
洋平は泣きそうな顔をして歩みより、花道を抱きしめた。
「幸せすぎて罰が当たりそう」
「ぬ。それはおかしーぞ洋平。幸せなのはいいことだ。罰なんか当たるワケない」
「ハハ、そうだよな。花道ってホント天才」
「それはそのとーり」
ヌハハと笑ったら、洋平の手がするっと滑ってきて唇が降りてくる。濡れた髪先がほっぺに当たってくすぐったい。花道は体中がふわふわして、くすくす笑いが止まらなかった。
洋平はすき焼きをうまいうまいと涙ぐみながら食べた。オレが麦茶を飲んでいたら、自分も禁酒すると言い出したが、少なくとも今ある分は飲みきらなければもったいないと言いきかせて飲ませた。洋平はそのビールも世界で一番うまいビールだと言った。次の検診のことを言ったら、世界が滅んでも這ってでも行くと言うので、花道は笑ってしまった。世界が滅んだら、医者もやってねーだろ。やっぱ洋平のこと好きだなあと思って、花道またくふくふ笑った。
その日のすき焼きのことを、洋平は十年後にも、人生で一番うまいすき焼きだったと言う。
でもその頃には、「一番うまいシリーズ」には娘が生まれた早朝に食べた人生で一番うまいおにぎりや、初めて娘が作ってくれた世界で最高の目玉焼きなんかが増えていたので、娘はその話を聞くたびに、ああハイハイそれはもう聞いたよと言っている。