くーぱやがぎゅーしてイチャイチャするだけの話「逸勢、いつものを頼む」
烏帽子を放り、髪をすっかり乱した逸勢が振り返ると、机の傍でゆるく胡坐をかいた空海がにっこりと手招きをしていた。
「お前それ毎日やるつもりか?」
「うん」
橘逸勢ー俺と二人きりになった時の空海は普段の数倍素直だ。
船に乗り込んだ頃はこの漢の裡には隙という文字もなく、ましてや執着という言葉もないのだろうとばかり思っていた。しかし、一度一線を越えてみれば人よりも人を欲し、誰よりも欲に溢れた、それでいて存外人懐っこい漢であった。
したいと思った行為はすぐに俺にあれこれとねだり、俺が仕方なく応えてやる度にこれ以上の幸せはないと言いたげな顔をする。
なんとなく、此奴のそんな顔を見ていると酷く気分が良くなってしまうのだ。
しかし最近はこれまたおかしなおねだりをしてくる。
俺は空海をすっと見つめた。空海は瞳を明星よろしく煌めかせて視線を返す。子供のような眼。これは大抵言うことを聞かなければ拗ねる眼だ。
やがて大きな童のごとき僧の態度にため息をつくと、俺は空海の胡坐に腰かけた。空海に比べ少し細身な俺の身体はすっぽりと空海の懐に収まった。なんだか顔が熱い。
「よしよし」
満足げにうなずくと、空海は筆を執り、墨を吸わせると、紙に漆黒をにじませた。
穂先から次々と生まれる字は相変わらずため息が出るほど洗練されながら自由闊達で、美しいことこの上ない。この書を誰に見せた所で、まさか男を抱えながら書いたとは夢にも思わないだろう。
全く不思議な男である。
この奇天烈な習慣が始まったのは一月ほど前だったと思う。
今日のように手招きされて、半ば無理やり座らされたのが運の尽きだった。それからほぼ毎日欠かさず抱えられている。おかげで夜は勉学や休息どころではなくなってしまった。ただ空海の手元から現れる言の葉を眺めるのみである。
腕の中に居る間、特に互いに唇を開くことはない。空海が何か手を出してくることもない。
しかし、終始こいつの機嫌はすこぶる良いのである。こちらは毎晩心臓の高鳴りで気が気でないというのによく集中できるもんだ。
俺は俺で羞恥はありながらも手持ち無沙汰になってしまい、仕方なしに気を紛らわせようと空海の書を眺めるが、大抵最後は眠りこけてしまうのが落ちである。
更にこいつは律儀に俺を運びでもしているのだろう、夜明けにはきちんと天蓋が見えるものだからまた困りものだ。
まさかこいつ、唐を出るまで続けるつもりなのだろうか。
ふと脳裏をよぎった疑問が気づけば口先を飛び出ていた。
「なあ、いつまでするんだ。お前は」
「さぁ。飽くまでかな」
「飽くのか」
「飽かぬ」
ふふ、と心地よさそうな声色が耳に掛かってくる。血がどくどくと脈打ち赤くなる感覚に唇を噛んだ。
頼むから飽いてくれとぶっきらぼうに言いかけた、が、次の瞬間、それは言葉にならない悲鳴へと変わった。
「ッ~~!!!???」
不意にこと、と筆が置かれたと思うと、柔らかく、肌を寄せるように抱きしめられたのである。
体温が近づいて、密着する感覚。全身が思わずこわばってしまう。
業火に見舞われたのではないかというくらい、身体が熱い。
これはまずい。なんというか、まずい。
固まった身体を動かせずに、息をなんとか継ぐ。はくはくとしか動かない唇は、なんだかいつかの岸で打ち上げられていた魚を思い出させた。
「逸勢、嫌か」
空海の声が低く問うてきた。
「いや、とは、」
「俺とこうして熱を分かち合うのは嫌かと聞いている」
「え、あう」
「お前が望まぬというのなら……俺も身を引こう」
珍しく、哀しみを帯びた声色が忍び寄ってくる。
この漢はなんて言い方をするんだ。なんてずるい漢なんだ。
俺がいずれ応えてしまうのを知っているくせに。
「……………嫌とは、言っておらぬだろ」
小さく、空海に聞こえるか聞こえないか。そう呟いた。
背後から喜々と安堵の混じった吐息が鎖骨を撫でた。
だから俺は突き放せないのだ。
「……暖かいな、逸勢は」
空海は俺の腹を抱き直すと、首元に鼻を摺り寄せた。うっとりとした吐息が肌を擽る。
おかしな汗が頬骨を伝うのが嫌でも分かった。悪態をつこうにも頭の中は真っ白で、結局「あ……あぅ……」と間抜けな声しか出ない。
ならばと身をよじってみたが、腹に回った逞しい腕はびくともしない。おのれこの筋肉達磨め……っ!
それどころか、俺のささやかな抵抗なぞ最初からなかったとばかりに、ますます身体を縫い合わせるように抱き込まれてしまった。
「どうしようもなく愛おしい」
人前では発さない、低く柔和な響きが鼓膜に注がれる。先ほどまで文字を紡いでいた親指が俺の唇を丹念になぞった。容赦のない愛情に意識がくらりと眩んでしまい、羞恥と喧しい鼓動に目が潤んでしまう。
「やめろよ……」
「んー?」
「こんなの、……死んでしまうではないか」
きっと俺はひどく情けない顔をしているのだろう。裾を握り、泣きべそをかきながら背後の空海を見つめると、奴は細い双眼を満月にしていた。
「逸勢」
あっ
口を開く前に細く瑞々しいものに塞がれる。
「あまり煽ってくれるな」
今夜はきっと眠る間もなくこいつに喰らい尽くされてしまうのだろう。俺はいつか本当にこいつの愛情に殺されてしまうんじゃないか。
ああ、とにかく明日は指先も動かないだろうな。
一方的に深まっていく口付けになす術もなく、俺は諦めと共に瞼を閉じた。