我が宿の 時じき藤の めづらしく 今も見てしか 妹が笑まひを「長谷部、いる?」
「いつでもお側に。御用ですか?」
奥の間から声がかかり、へし切長谷部は即座に膝をついてから障子を開く。御簾の向こうの審神者は顔を上げず、空中に何枚も浮かぶARディスプレイを凝視している。辛抱強く待っていると、審神者は無言のまま立ち上がり、ARディスプレイを遮りながら御簾を開けた。
「ちょっと入って。話がある」
「はっ」
命じられた通り、長谷部は部屋の中に入り、御簾の前に立つ審神者に向き合う形で座る。それに合わせて審神者もその場に正座した。御簾の向こうでも構わないのだが、この審神者は男士と話す時は御簾から出ると決めており、誰が止めてもそうするので、長谷部も何も言わなくなっていた。
「幕末、池田屋の任務終了を受けて、この本丸の制限が一つ解除になった。みんなのおかげだよ。屋内ばかりの狭い戦場だったのに、お疲れ様」
「お気遣い、痛み入ります」
「うん。で、解除になったのが、刀剣男士の『極』修行ね。だいぶ前からあるものではあるから、みんなも知っていると思うけど」
審神者が一度行方不明になる前、政府からの通達があったことは長谷部も覚えていた。とはいえ、この本丸を預かる審神者は比較的新参の部類に入り、当時はまだ修行許可が下りていない、という前提での話だったはずだ。
「ここは順当に、修行先の選定とルートの確認ができている男士のうち、練度の高い人から行ってもらおうと思うんだ」
「良い選択かと思います。して、誰を修行に向かわせますか?」
審神者の視線が動く。面布で隠された目が、実際にどこに向いているのか、長谷部にはわからない。しかし、その視線を受けるつもりで、長谷部は審神者を見返した。
「長谷部、一番乗りしてみない?」
「……俺、ですか?」
命令というには軽い調子でそう言った審神者に、長谷部は素っ頓狂な声を出してしまっていた。
今年の本丸の春は長い。
通常なら、暦に合わせて景趣をローテーションさせるという原則のもと、春夏秋冬が順当に巡りゆくところだが、「春の間ずっといなかったから、ちょっとだけ延ばしたい」という審神者たっての希望で、六月に入っても麗らかな春の陽気に包まれている。
その柔らかな日差しが差し込む一室の畳の上で、うつ伏せに寝そべる男士がいた。
「面影、そんなに拗ねなくてもいいじゃねえか。こっちじゃたかが四日だぜ」
薬研藤四郎がそう声をかけても、面影は抱え込んだサメの抱き枕をよりきつく抱きしめるだけで答えない。
「そんなに落ち込まないでよ……僕が悪いことしたみたいじゃないか」
「主が悪いわけではない……」
やっと答えた面影の声はか細い上、顔も上げないままなので、くぐもっていて聞き取りづらい。審神者はため息をついた。
「絶対悪いって思ってるじゃん……」
「まあ、悪意はないのは面影だって分かってるさ。たまたま、時期がちょいと悪かったってことだな」
薬研のフォローに、面影から是とも否ともつかない呻き声がした。
「仲がいいなとは思ってたけど、そんなに落ち込むなんて……ねえ、面影、手紙は送るように言ってあるからさ、届いたら教えてあげるから」
「ああ……」
相変わらず顔は上げない面影だが、律儀に返事は返してくる。審神者は薬研と顔を見合わせ、今度は二人揃ってため息をつく。
「面影、手隙か」
そこへ、巴形薙刀がやってきた。空気を読むということを知らないこの刀は、畳に突っ伏す面影を見ても、いつもと変わらぬ口調でそう尋ねた。
「手隙だったら、洗濯物の取り込みを頼む。これから雨になるようだ。多くはないから一人でいいか」
「わかった……行ってくる……」
ずるずると立ち上がり、サメの抱き枕の尾を掴んだまま、面影はとぼとぼと部屋を出て行った。
「あの抱き枕は不要ではないか?」
「もっと他に聞くことあるよね」
巴形の場違いな問いに、審神者も薬研も答えることを放棄し、ただ立ち去る面影を見送った。
籠を抱え、物干し竿がある場所に向かう。気がついたら持ってきていたサメの抱き枕は、そこらに置いておくわけにもいかず、ひとまず籠に入れて一緒に運んできた。頭から突っ込まれたその様は、いかにも獲れたての魚のようだが、実際のところその魚は布製だ。しかしそれを指摘する者もいなければ、そうした張本人もその違和感に気づくことなく、布製のサメは淡々と籠に放り込まれていく乾いた洗濯物で埋もれていった。
長谷部から『修行の旅に出る』と聞かされたのは数日前、旅立ったのはつい昨日のことだ。『極』……刀剣男士がより強くなるため、単独で時間遡行の旅に出るのだというのは、知識としては知っていた。ただ、元は政府の原型試作、審神者や本丸とは無縁の刀剣男士であった面影にとって、それは遠い世界の話に過ぎず、意識に上ることはほとんどなかった。
長谷部は、この先も主を支えるため、強くなれるならどこへでも喜んで向かう、と言っていた。彼らしいと思うし、応援したいと思う。しかし、いざその時になってみると、夜が明けても長谷部がいないということに、今日になってひどく動揺し、そのことに戸惑った。
一人でいることには慣れていた。この本丸に来てからは、仲間と共に過ごすことにも馴染んできた。しかし、『仲間の中で長谷部だけがいない』ということは初めて、しかも、四日間もいないという。たかだか四日、しかし面影にとっては、この本丸の中の誰かがいないまま日が過ぎることに漠然とした不安があった。
洗濯物を取り込む手が止まる。長谷部はどうしているのだろう。彼が己を見直す時代は、場所はどこなのだろうか。
そして……ちゃんと帰ってくるのだろうか。
単騎出陣というわけでもなく、遠征でもない。杞憂だとは頭ではわかっている。しかし、前例がないということ、それだけが不安をかき立てる。
頭を振り、洗濯物の取り込みを再開する。ふと手に取った寝巻が長谷部のもので、その手が再び止まった。
「……旅先で、ちゃんと眠れているか?」
長谷部の眠りがいつも浅かったことを思い出す。今はただ、旅先で平穏無事にいることを祈ることしかできないことがもどかしかった。
一日、二日、そわそわと落ち着きのない面影に手紙の到着を知らせた薬研藤四郎は、彼を伴い審神者の部屋へその手紙を届ける。自分宛だから見せるわけにはいかないけれど、と前置く審神者が手紙の内容をかいつまんで語り、面影はその内容に目まぐるしく表情を変える。審神者の語りが終わると、彼は決まって「元気でいるのだろうか」と、不安げに独り言をこぼした。
「意外だな」
面影が去り、奥の間には審神者と、薬研が残った。手紙は渡したし、と薬研が立ちあがろうとした時、審神者がぽつりとそう呟いた。
「何がだ?」
「面影がさ。物静かな人だと思ってたけど、結構感情豊かだなって」
その言葉に、薬研は再び腰を下ろし、しばし思案してから口を開いた。
「そうだな、ここに来た時は、物静か……っつーか、感情を出さない奴だったよ。何考えてるのかわからなかった」
「そうなんだ? そこまでとは思わなかったけど……」
「今はな。最初は感情の出し方を知らないって感じだった。でも、ここで過ごす間に変わった。静かだけど、いい奴だよ」
そうだね、と答えた審神者は、庭に視線を移す。庭の片隅の藤棚では、盛りが過ぎた藤がそよそよと風に揺れている。春の景趣も終わりが近いことがわかる。
そこに、内番着姿の歌仙兼定が姿を現した。
「長谷部からの手紙が届いた頃かな。彼が戻るのは明後日で良かったかい?」
「そう、予定通りなら明後日だね。何かあった?」
審神者が尋ねると、歌仙は微かに困ったような笑みを浮かべた。
「彼から頼まれ事をされていてね。戻る時期に合わせてのことだから、その確認さ。……藤もまだ残っているな」
歌仙は最後に独り言ような呟きを残すと、夕餉の支度もしなければ、とそそくさと立ち去っていった。
「藤のこと気にしてたけど……なんだろ」
「さあ……」
残された審神者と薬研は顔を見合わせ、揃って庭の藤を見やったが、歌仙の言葉の意味は分からないままだった。
三通目の長谷部の手紙が届いた翌日、予定通りに長谷部が本丸に戻ってきたのを、数人の男士達と共に出迎えた面影は、「まずは主に報告を」と早足で奥の間に向かう彼の後ろ姿を見送った。
無事に戻ってきたことに心の底から安堵する一方、極となった長谷部の姿の変わりように驚く。装束はより豪華になり、以前のものより増えた防具は実戦的でもある。着物も変わるのか、と、面影は感心した。
今日は特に内番の仕事もなく、庭を見渡せる縁側をなんとなく訪れ、そこに腰を下ろした。この本丸で初めて極となった男士だからと、今夜は長谷部の帰還を祝う宴が予定されているらしい。旅先でどんなことがあったのかは、きっとその時に聞かせてもらえるのだろう。
「ここにいたのか、面影」
そんなことを考えながらぼんやりとしていたら、まさしくその長谷部に声をかけられ、驚いて振り返る。極の姿の装束はそのまま、防具だけを外した彼の手には、何かが載せられた盆があった。
「長谷部……?」
「なんだ、おかしな顔をして。そんなに俺の格好はおかしいか?」
そう言いながら、長谷部は面影の隣に片膝をつく。面影は何度も首を左右に振った。
「いや、それは違う。極になったお前の姿は、その……とても、素敵だと思う」
面影の言葉に、長谷部は少し驚いた顔をした後、ふい、と顔を逸らす。またおかしなことを言ってしまっただろうか、と気を揉む面影の手元に、茶の入った湯呑みと、美しい菓子が載った皿が差し出され、面影は顔を上げた。
「これは……?」
「修行に出る前に、歌仙に頼んでおいた。なかなかの力作だそうだ」
透き通る錦玉羹の中に、小さな花を模した模様が閉じ込められた、涼やかな菓子。その花に見覚えがあり、面影は庭に視線を巡らせる。盛りを過ぎてまばらになってしまっているが、菓子に閉じ込められたものと同じ花がそこにあった。
「藤、か」
菓子と茶を挟んで隣に座った長谷部は、気まずそうに頭をかくと、横顔のままぽつり、ぽつりと語る。
「その、しばらく前に、俺が好きな花で花見がしたい、と言っていただろう。……咲いている場所が場所だから、黙っていたが」
そういえば、そんな話をしたことを思い出す。長谷部が照れくさそうに話を逸らすことはしばしばあることなので、面影も気にしていなかった。
「まあ、しかしだな、せっかく主が、春の景趣を長く設定されていたし、帰る頃に間に合いそうだし、と、思いついた……それだけだ」
未だこちらを見ようとしない長谷部の横顔を眺め、ぼそぼそと呟くように語る彼の声を聞きながら、面影は顔を綻ばせる。長谷部の瞳の色は、彼の好きな花の色だ。今は見せてくれない瞳のことを思い、皿の上の菓子に目を落とす。とても綺麗な色だと思う。
「ありがとう、長谷部」
そう言うと、ようやく長谷部が面影を見返す。少しばかり困惑する顔をした彼は、手を振ってまた顔を逸らした。
「いいから、早く食え。茶もぬるくなるぞ」
「そうだな、いただこう」
菓子に黒文字を差し込むと、春の日を受けてきらりと光る。それをまた、面影はとても綺麗だと思った。
茶と菓子を平らげた頃、不意に長谷部が座ったままの姿勢で背中から倒れ込んだ。驚いた面影が、彼を振り返って声を上げる。
「長谷部?」
倒れた本人は目を開けており、長く息を吐いて天井を見つめている。戸惑う面影をよそに、しばしそうして黙っていた長谷部は、ふと目を閉じて小さく呟いた。
「……本丸の縁側は久しぶりだ」
その一言で、長谷部が長く本丸を離れていたことを思い出した。本丸に残っていた面影にとってはたったの四日、しかし、修行に出ていた長谷部は違う時間の流れの中にいたのかも知れなかった。
「どれぐらい、修行先で過ごしていたのだ?」
面影の問いに、長谷部がゆっくりと目を開く。
「大体ひと月だ。他の連中も同じかは知らんがな」
その期間が長いのか短いのか、判断がつかずに面影が黙っていると、長谷部は言葉をつなぐ。
「……ひと月も本丸を離れたのは初めてだ。本丸では違ったらしいが……長い、と、思わなくもなかったし……お前が、ちゃんと本丸にいるのかが気がかりだった」
「えっ」
「お前は前科持ちなんだぞ。忘れたのか」
横たわったまま、視線だけで睨みつけられて、面影は口を噤んだ。
「だから、なのかもしれん。花見のことを思い出したのは……」
睨みつけたのはほんのひとときで、視線はすぐに天井に戻る。その瞼が重くなっていることに、面影は気付いた。
「……よかったよ、お前がちゃんと、本丸にいて」
吐息のような微かな声でそう呟いたきり、長谷部は目を閉じる。薄く開いたままの唇から細い寝息が聞こえてきた。
長旅で疲れたのか、と思い、こんな人前で、防具を外しただけの戦装束でうたた寝をしてしまう長谷部に、これも修行による変化なのか、と考える。彼は仲間にも、あまり隙を見せることをしない男だったはずだ。
音を立てないよう、膝でにじり寄って、そっと寝顔を覗き込む。いつも緊張していた眉間が弛んでいる顔は、普段の厳しい印象と違って思いの外幼い。無意識に触れようと頰に伸ばした手を、目にかかる前髪を払うだけに止める。
お前も同じようなことを案じていたのか。長谷部の寝顔を眺めながら、声には出さず、心の中でそう呟く。途端に、浮ついたような気持ちが湧き起こり、自然と頬が緩んでくる。それが嬉しいのだと理解するのに、少し時間がかかった。
「おかえり、長谷部」
吐息のように微かに、そう呟く。返事のような、寝言のような声で、長谷部が小さく呻いて、面影はまた笑った。
審神者と薬研藤四郎が、縁側で並んでうたた寝をする面影と長谷部を見つけたのは、しばらく後のことだった。
「どうしたもんかねえ。気持ちよさそうに寝てはいるが」
薬研が隣に立つ審神者にひそひそとそう言うと、笑いを堪えている審神者も、真似をして声を顰める。
「うーん、もうちょっとこのままにして、宴会の準備の時に面影だけ起こそうか」
「そうだな……とはいえ硬い縁側にいつまでも転がしておくのも……お、ちょうどいいモンがあったぜ」
近くの部屋から持ってきたものを、薬研がそっと二人の頭の下に忍ばせる。よほど熟睡しているのか、頭を動かされても、二人とも起きる気配はない。
「えっ、やばい、面白すぎ。ちょっと写真撮っとこ」
「音消してやんな、大将」
携帯端末で数枚写真を撮った審神者と薬研は、足音を忍ばせてこそこそとその場を立ち去った。
その夜の宴会で、審神者が撮った「サメの抱き枕で並んで寝る面影と長谷部」を見せられた長谷部は、真っ赤になって審神者に画像を消してくれと懇願する一方、面影は同じく真っ赤になりながら、画像を消す前に自分の端末に送って欲しいと懇願した。