2.こんなに好きだけども一体何がきっかけだったのか、気がつけば目の前にいた竜之介の体を押し倒していた。
日に焼けて所々ささくれている畳の上に転がった身体は自分より一回りも小さくて、うっかり潰してしまわないか不安を感じる。それでも、普段よりとずっと間近に感じる竜之介の存在に、渚は感嘆のため息を漏らした。その吐息さえも触れ合いそうな程の近い距離だった。
そろりと手を頬に伸ばすと、想像していたよりも柔らかくて、それにもまた感動した。指と手のひらで撫でる滑らかでとても気持ちがいい。頬にべたりと貼り付けられてる大きな絆創膏が邪魔だと思った。
渚の手がゆるりと動くたびに、小さく震える。
不安や恐怖、緊張、そういったものが混ざった色の表情で渚の顔を見上げている。大きな目がせわしなく瞬きを繰り返すたびに、ぱさ、とまつ毛が揺れていた。
悪いことしているな、と自覚はあった。
(だからって、そんなに怯えた目をしないでちょうだいよ)
それでも明確に抵抗されないのをいいことに、頬同士を触れ合わせ、すり、と動かすと組み敷いた体がビクッと震えた。手探りで、強く握りしめられていた両方の拳を開かせて、指を絡めた。
こうすると、頬の柔らかな感触に加えて竜之介自身のにおいがより強く感じられる。こんなに近い距離でじっくりと彼女の存在を確認したのは初めてのことだった。
ほんのりと甘い女の子の匂い、昨夜の風呂の石けんの名残、それとわずかに汗のにおい、その全部が渚の中にしっくりおさまる。こんなにも全てが愛おしく思えるなんて、渚にとっては予想外だった。
(あぁ、気持ちいい。いい匂い。ずっと、こうしていたい。もっと触れたい、竜之介さまの全部に。)
なぎさ、といつになく頼りなくて戸惑いを隠しきれていない声音で呼ばれるのすら、今の渚には心地よい。
平時の竜之介なら、気に入らないことがあれば眉を吊り上げながらすぐに拳や蹴りを飛ばしてくるというのに、今日はやけに大人しい。
渚としてもそこまでの力で抑え込んでるつもりもないし、竜之介とて決して弱々しいばかりの乙女ではないのだなら、力づくで抵抗されたらすぐにでも退くつもりでいたのに、やはりこの妙な状況に緊張しているのだろうか、渚の下にある体はこわばっている。
再び、なぁ…、と掠れた声があがった。
(あーあ、だめよ竜之介さま。そんな可愛いところ見せちゃ。食べたくなっちゃうから)
その桜色の柔らかそうな唇にがぶりつきたくてたまらなくなる。
自分の唇と触れ合わせたらどんなにドキドキするのだろう。どれほどの幸福を得られるんだろう。
今なら強引に奪ってしまうこともできる。ほんの一瞬、互いの体のうちのほんの小さな面積を触れ合わせるだけだ。
湧き上がってくる欲の衝動と、離れ難さを必死に押し殺しながら、渚はのそりと頭を上げた。
改めて目に入る怯えた竜之介の表情に、罪悪感がちくんとトゲのように胸に刺さる。
「……ごめんなさい……」
自然と口から溢れた言葉は謝罪だった。
「今日のことは忘れて……ね?」
名残惜しさと、宥めるように最後にもう一度だけ。手の甲で竜之介の頬を撫でて、立ち上がる。
夕飯の買い物に行ってくるわね、とそのまま放心している竜之介を残して家を出た。
一間しかない藤波家はいつでも竜之介との距離が近くていい、と渚は思っていたけども、時にはひたすら厄介でしかない。
(……やっちゃったかもしれない……)
忘れて、と言ったところで、そうだなと一切忘れてくれるわけがないことは渚とて理解はしている。我ながら理不尽だ。
つい先ほどの竜之介の怯えた姿を思い返しては、後悔と罪悪感に苛まれ、同時に頬の柔らかさと匂いも思い出して恍惚さえも感じてしまうのだから恋心は厄介だった。
(帰るまでには平常心取り戻さないと。何もなかったのよ〜、って態度で。そうしたら忘れて……いやぁ、無理かも…。一発殴られてすむならいっそ安いもんだけど。竜之介さま、完全に固まっちゃってたし。)
電柱に向かって、はあ〜、と大きなため息をつきながらその場にしゃがみ込む。長いスカートの裾が地べたに落ちていても、ちっとも構えない。
(自業自得だけど、今度こそ本気で嫌われちゃったらどうしよう……)
今の渚にとっては、何よりもそれが一番不安でたまらなかった。