祓い屋弓弦と視える高峯 雨は嫌いだ。人を憂鬱な気分にさせる。
夜は嫌いだ。希望を持たない人を狂わせる。
曇は嫌いだ。光も温もりも奪い去る。
こういった日には必ず良からぬ者を引き寄せてしまう。満月の光を浴びて遠吠えをあげる狼男のように、命がけで光を求めて火に飛び込んでいく虫のように、そっと心の陰に忍び込み、機会がくるとあっという間に食い散らかしていく。
今日は朝から散々だった。
目が覚めたら天井で首を吊っている女がいたし、玄関を出たら自分の首を小脇に抱えた落ち武者が立って居た。
歩き始めると片足がない迷子の子どもに目をつけられ、信号を渡りきると内臓が飛び出た犬に懐かれる。
それらの〝怪異〟は、何も面白くなんてないのに翠の後をついてきてケタケタと不気味な笑い声をあげるのだ。
(……なんでもいいけど、ホント鬱だ…しにたい…)
そういった思考を持つと〝怪異〟たちはもっと喜び翠の肩や脚へずっしりとのし掛かってくる。日々繰り返されるこの類の〝怪異〟ですっかり慣れっこではあるものの、肩は凝るし頭は痛いし気分は憂鬱で良いことなんて一つもない。プラスに考えろと言われる方が酷だった。
けれど、そんな翠を救ったのが現在通っている〝私立夢ノ咲学院〟だった。
初めて訪れたのは中学三年の時の高校見学会。
体育館へと足を踏み入れた瞬間の清涼感に翠は驚いた。世界にはこんなにも空気の澄んだ場所があるのかと、ある種の感動を覚えるほどに体育館の中に霊の気配は微塵も感じられなかった。それどころか、足に纏わりついていたすすれた老婆も肩にぶら下がっていた赤黒い女性の手も一瞬で消え去った。
それが翠の〝夢ノ咲学院〟への入学理由だった。何がどう間違ったのか普通科ではなくアイドル科などという陳家な学科に入ってしまったが。けれど、それも間違ってはいなかったのかもしれない。アイドル科の校舎は普通科からは隔離されたところにあり、警備も万全でまず生きた不審者に会うことはない。次に学院の敷地内でも最も清らかな空気が漂う聖域のような場所だった。
(こんな体質じゃなければ、休んでた…絶対に、二日目で、やめてた…)
やっとの思いで学院の門を抜けると、一気に体中が重力に逆らって舞い上がるような感覚に襲われる。やっといなくなったのだ、と翠が安心したのも束の間、どこからともなく〝怪異〟よりも奇妙なものが遠くから猛スピードで近づいてくるのが見えた。
ドドドドド、とどこぞの少年漫画のような土煙を立てて近づいてくるそれは。
「んん? おぉ、高峯! 迎えに行かなくともきちんと朝から登校してきたんだなっ…! エライぞっ!」
「……タカミンッ お願い、助けて……! 俺のお宝あげるからぁ…!」
この世の終わりであるかのような絶望しきった顔をしている明星 スバル、その後ろを朝日も逃げ出す爽やかで眩しい笑顔の守沢 千秋が追いかけている。ここはどんな地獄だろうか。何故あのような黙っていればスーパーアイドルみたいな風貌の二人が対極な表情を浮かべてまだ始業前の学院前を全力疾走しているのか。突っ込み始めてしまうとキリがない考えが翠を襲う。
「さぁ、観念して俺の胸に飛び込んでくるんだ明星ーーーー」
「ちーちゃん先輩ホントしつこい! 飛び込まないってばぁー」
呼んでもいないのに、スバルと千秋が翠の元へ向かってくる。何故か全力で翠の名前が呼ばれている。
「――――……ありえないッ」
翠は軽くなった体と普段は枝のように突っ張ることしかしない長い脚を最大限に動かして、校舎へと向けて走り出した。
ぜぇ、はぁ、と荒い呼吸をなんとか落ち着けようと深呼吸をする。翠が校舎へと駆け込んだ瞬間、生徒指導の椚 章臣が千秋とスバルを呼び止める声が聞こえてきた。少しだけ二人がどうなったのか、経過に興味があったがここで振り返れば自分も彼らと共に職員室で一限を潰した説教タイムになることは想像に容易い。
登校用のスニーカーから学年指定カラーでもある赤の上履きに履き替え、教室へ向かおうと歩き出した。下駄箱から顔を廊下に向けた時の違和感。ぞわりと背筋が粟立つ悪寒。無色透明な水の中に一滴だけ真っ黒い絵の具を垂らしたような澱みがどこかから溢れている。
(……この感覚)
これは〝怪異〟が巣くっている気配だ。幼いころに一度だけ興味本位で近づいて、引き込まれたことがある。その時はたまたま近くの神社で神主をしている人が助けてくれたからよかったものの、あと一歩遅ければ翠は〝あちら側〟の住人になっていた。今、思い出しても恐ろしい。
(怪異には近づかない、気づかなかったフリをする、意識しない……何事もなかったかのように、そっと去る)
離れよう、離れようとしているのに翠の体は勝手に引き寄せられていく。離れようと〝意識している〟ことが原因だとは気づけぬまま、真っ暗闇の中にぽつんと放り出された。
辺りから呻き声のような、誰かを呪うような不気味な声が聞こえてくる。全身から血の気が引いて、足がガクガクと震えた。
『いいですか、今度もしも同じように〝怪異〟に取り込まれるようなことがあるならば、決して怖がってはいけません。希望、光、なんでもいいからプラスのものを考えるのです』
以前助けてくれた神社の神主は簡単そうにそう教えてくれたけれど、一人ぼっちの暗闇は怖い。
今にも引き摺り込まれそうで、ちょっと目を横に向けたら何かがいそうで、一点を向いたまま顔を動かせない。こんな事なら千秋やスバルと一緒に椚に職員室で説教コースの方が何倍も楽だ。命の危険もない。
(……あぁ、なんで俺ばかりいっつもこうなるんだろう…なんで、俺だけ。どうして……いやだ、こわい、こわい、こわい)
じわりじわりと足元から染まっていく闇に恐怖で頭が真っ白になったその時だった。
ぴぃん、ぴぃんという高く清らかな音が聞えた。音が聞こえた方向に微かな光が見える。それがいいものなのか悪いものなのか区別するには今の翠に冷静さはなかった。あったのは助かりたいという一心だけ。
足元を染めていた闇を振り払い、翠は走り出す。
短時間に二度の全力疾走だなんて、とは思いつつも僅かに見えた希望を目指して懸命に走った。終わりなんて見えなくても、途中で蜘蛛の糸が絡みつこうとも底なし沼が広がろうとも翠は気にせず真っ直ぐに走る。
そうして――――……
(―……! ひかりだ……!)
光に包まれた見覚えのある学院の教室扉。何故そんなものがここにあるのか、その先がどこなのかまったくわからないまま翠は持ち手を握る。パリンという何かの割れる音と共に扉が開き、レールに引っかかって盛大に転倒した。
「えっ……」
「――……っ、坊ちゃま!」
よく知る二つの声と、黒く渦巻く大量の悪霊たち。悪霊たちは翠が開けたドアから五つの玉に分裂し、学院の四方八方へ飛んで行った。
「えっ、えっ……? なに……」
顔を上げると、そこには制服姿に何故か弓を持っている伏見 弓弦と机に座り足をぷらぷらと揺らしている姫宮 桃李の姿があった。
「なに、はこちらの台詞です。一体、どうやってこの部屋に……」
「お前の結界、張りが弱かったんじゃないのぉ~? まったく、ボクを囮にまで使ったくせに、失敗したどころか学院中に悪霊が散ったじゃん。どうしてくれんのさ、奴隷とデカブツ~~!」
弓弦は桃李に向けて深刻そうな表情を浮かべ、恭しく首を垂れた。
「申し訳ありません。必ず坊ちゃまに何か害をもたらす前にすべての悪霊を祓ってみせます」
じゃあ、ボクは先に教室行ってるね~、と桃李は弓弦の前から退くと何事もなかったかのようにその場を後にした。桃李の姿を無意識で追っていた翠は、やっと自分が転がり込んだ部屋が特別棟の第三音楽室であることがわかる。桃李が座っていた机以外の教室内にある備品はすべてが台風のあとのように倒れていたり、破壊されたりしている。一枚も割れていないガラスがいっそ奇妙なほどだった。
「……高峯さま」
「うぁっ ……っはい!!」
びくりと反射で肩が揺れた。座り込む翠のはるか上、弓弦が美しい微笑みを浮かべて見下ろしていた。
「何故ここへ来られたのですか?」
人払いの結界が張られていたはずなのに、と弓弦は変わらぬ微笑みのまま翠に言った。
自分がここへ来た経緯をどう話すべきなのか翠が悩んでいると、弓弦が大きく息を吐き近くの机に弓を置いた。
「……まさか、ただ歩いていたらここへ来たなどとおっしゃいませんよね?」
さぁ、洗い浚い吐け。まるでそう言われているようだった。
「……そう、言われても……俺はあの時、怪異に引き込まれて必死で…必死で逃げたくて、そうしたら……光が」
「高峯さま、もしや、アレの気配を感じていたのですか?」
「……アレ?」