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    なずな

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    なずな

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    ブラネロ
    ボスの子どもができた飯屋の話(さらっと女体化)

    ##mhyk

    春がくるのを待っている1.2.3.1.
     冬の寒い朝。布団から出ることも億劫になりそうな日でもネロは早くから起き始める。時間通りに体内時計で目を覚ましたネロだが、体に残る疲労のせいかどうも眠気を払えずゴロリと寝返りを打った。
     隣ではスーピーと鼻息を立てて眠るブラッドリーがいる。晒されたままの肌に昨夜の情事を思い出し、ネロは眠気の原因と思われる彼の鼻を苛立たしげにつまんでやった。
    「んがッ…………」
     安眠を妨害されたブラッドリーは鼻をつまむネロの腕を捕らえると億劫そうにまぶたを持ち上げ睨んできた。
    「…………ネロ」
     睡眠後の低く枯れたブラッドリーの声に名前を呼ばれ、思わず胸がきゅうと音を立てる。気怠そうな色気のある彼に目を奪われているとお返しだと言わんばかりに起こしかけていた体をベッドに沈められ鼻をつまれた。
     かと思えばさっと唇を同じもので塞がれる。
     ちゅ、ちゅとわざとらしいリップ音を響かせて息を吸おうと口を開けば咥内に舌がねじ込まれた。
    「んっ……ふ、ぅん……ん、ん」
     ブラッドリーの温かな手のひらが寝巻代わりのシャツをめくりあげて素肌を撫でていく。名残のある体は簡単に喜んだ。覆いかぶさるブラッドリーの背中へ腕を回して口づけを大人しく受け入れる。たわわに実った胸をたっぷりと揉んだブラッドリーの手のひらが徐々に下がり、髪と同じ色をしている下生えをかき分けて昨晩からブラッドリーを何度も受け入れているそこへ指を這わせた。その時、ネロは突然違和感を覚えてブラッドリーの胸を押して体を離した。
    「待って…………!」
    「…………あ?」
     気分よくネロの体を堪能していたブラッドリーは不機嫌顔だ。睨むようにネロを見る。けれどネロも何故そんな違和感を覚えたのかがわからず混乱していた。
    「なんだよ、なんかまずかったのか?」
    「あっ……? いや、ブラッドの…………せいじゃなくて」
    「……ネロ?」
     混乱がブラッドリーにも伝わったらしい。手のひらが髪を撫でて頬を擦る。
    「別に無理強いさせてえわけじゃねえよ。気分じゃないならそれだけだろ」
     昨日も散々ヤッたしな、と気遣いなのかセクハラなのかわからない言葉を残してブラッドリーはベッドから降りる。
    「ブラっ……」
     呼び止めようとしたのも叶わず、寒かったのか豪快なくしゃみをして半裸のブラッドリーはネロの部屋から消えてしまった。
    「…………あったかい、コンソメスープでも作るか」
     北の国よりは穏やかとは言え、中央の国の冬もそこそこの寒さだ。半裸で飛ばされればいくら北生まれの北育ちであっても凍えるだろう。
     思いの外ブラッドリーと出来なかったことに堪えている自分に少しのショックを抱きながらネロもベッドから起きだす。
     立ち上がろうと足に力を込めたところで貧血でも起こしたように体がぐらりと傾いた。
    「お……っと、」
     ぐるぐると回る視界でなんとか目の前にある椅子の背もたれへ手をついた。
    ――なんだっつぅんだよ……
     自分に襲い掛かる不調の理由がわからず、余計に混乱する。
     目が回る感覚が落ち着いたことを確かめて、ゆっくりと立ち上がる。ストレッチで少し体を伸ばしてからネロは普段の衣服へと袖を通して魔法舎の厨房へと急いだ。
     向かいながらエプロンの紐を背中で縛り、背中まである長い空色の髪を指先ひとつで頭上にまとめ結いあげる。頭の中から飛んでいったブラッドリーには一旦出て行ってもらい、献立を考えた。
     魔法舎で生活する人数は自身も含めて二十二人。出身の国ごとに文化が異なれば個人個人で生活リズムも違う。そんなちぐはぐな共同生活者たちの一日のスタートを彩る朝食は、豊かなものであってほしい。ネロは常にそう思っている。
     サラダとパン、それからコンソメスープ。肉があれば少しは飛ばされて不機嫌なブラッドリーの機嫌もマシになるだろうか。こんがりと焼いたベーコンにしよう。他の個別に注文をつけてくる面々はその都度考えるとして、まずはこれでいいだろう。
     ネロは自分の聖域ともいえる厨房へ入ると手際よく調理器具と食材の準備をしていく。魔法は使わずにひとつひとつの過程を丁寧にこなす。大事な人にはいつだって温かな料理を振舞いたいものだ。
    『うまい!』
     そう言って笑顔を向けられる瞬間が――好きだ。
     一瞬浮かんだ傷のある顔に頭をブンブンと横に振る。集中しなければ、とフライパンを握る手に力を込めた。
     ぐつぐつコトコト、鍋が音を立てる。オーブンへ入れたパンが香ばしい匂いを漂わせる。握ったフライパンの中では脂ののったベーコンが火にかけられるのを待っている。
    「ぐっ…………」
     また違和感だ。先ほどブラッドリーを押し退けた時よりもはっきりとした拒否感がある。
    ――嗅ぎなれてるはずなのに、なんだ? この胃のむかつき…………
     香ばしい匂いが肺を満たせば満たすほど、胃の中がぐるりと掻き混ぜられるような不快感が残る。
     昨日無茶な体勢でした行為が後を引いているのだろうか? そんな疑問が浮かんだがネロは胃の辺りを擦ると「まぁ、いいか」と済ませた。
     そんなことより皆の食事だ。
     焼いていたパンも出来上がり、一通りのメニューが食卓に並べられる頃には太陽はすっかり上っていた。そろそろ早起きの魔法使いたちが食堂にやってくる頃だ。
     食べ盛りな者が多い第一陣がやってくるまで、ほんの少し暴れる胃を落ち着けるために休もう。そう思い、手近な椅子を引いて肘を枕に楽な姿勢を取る。疲労困憊になるような労働はひとつもしていないというのに、ネロの体は自然と眠りの中へと落ちて行った。



     ゆさゆさと心地良い揺れに微かに意識が浮上する。
    ――誰だよ
    「………………ろ……」
    ――うっせぇな、眠いんだよ
    「起きて下さい、ネロ!」
     ハッとして脳が微睡から一気に覚醒した。勢いよく顔をあげると、リケが心配そうな表情でネロを覗き込んでいた。
    「り……リケ?」
    「はい。ネロ、どうかしたのですか? 具合が悪いのならフィガロを呼んできます」
    「あー……悪ぃ……体調が悪ぃわけじゃねぇんだ。眠いだけで」
    「眠いから、ネロは厨房で寝るのですか?」
     今まではそんなことなかったでしょう、とリケに指摘されて言葉に詰まる。リケの言う通り、厨房はネロの聖域であり戦場だ。居心地がよく落ち着くことはあっても、眠る場所ではない。
    「や、本当に……少し休もうと思ったらうっかり寝落ちただけなんだ。ごめんな」
    「ネロ……」
     納得はしていないのだろう。ムッとした幼い表情を前面に出しているものの、これ以上は何も言ってはこなかった。
    「さ、飯がまだだろう? 食堂に来てるやつらにも飯運んでやらないとな」
     椅子から立ち上がろうとしたところ、再び眩暈に襲われる。目の前のリケが不自然にぐるりと回り、立っているのか座っているのかもわからず動けなくなる。狂う平衡感覚の中でなんとか椅子に腰を下ろすとその拍子に派手に食器へとぶつかってしまった。落として割ることはなかったもののなかなかの衝撃音が響く。
    「…………ネロ!」
     泣きそうなリケの声。次いで聞こえてきたのはばたばたという慌ただしい足音だ。
    「どうしたんですか」
     食堂へと続く厨房の入り口に目を向けると、慌てた様子のミチルとルチルがこちらへ駈け込んで来た。ほんの少し厄介なことになってきた。
    「ミチル、ルチル……! ネロがおかしいんです!」
     その言い方は多少の語弊があるんじゃないか? と思ったもののつっこみを入れる元気が戻らない。
    「あら……ネロさん、具合が悪いんですか?」
     すぐ傍までやってきたルチルが足元に屈む。見上げてくる彼女は柔らかな表情をしていて、見ていて安心感を得られた。
    「あぁ~…………いや、別になんでもない」
     本当になんでもないんだ、と重ねて伝えるがルチルの瞳からは心配の色が消えない。一緒にいたミチルはそんな様子を見て「僕、フィガロ先生を呼んできます!」とリケと共に出て行ってしまった。
    「あっ……!」
    「行っちゃいましたね……? 」
     そう思ったのも束の間、すぐさまバタバタと騒がしい軽快な足音と少し重たい足音がこちらへ向かって大きくなるのがわかった。
    「フィガロ先生! ほら、ぼやぼやしていないで!」
    「待って、待って。フィガロ先生おじさんだから、もう少し丁寧に扱ってほしいなぁ~」
    「今はフィガロよりも具合の悪いネロです!」
     ゆったりとした動作でフィガロが厨房へ顔を出した。フィガロも子どもたちの手前、顔には心配の文字を貼り付けてネロの元まで歩いてくる。本心が読めず、ネロが言葉に詰まっているとルチルに背中を擦られた。大丈夫ですよ、とでも言いたげなそれに年上としての威厳が揺らぐ。
    「さて、子どもたちも心配していることだし。このフィガロ先生に診せてくれる? 」
    「あぁ……でも、本当に何でもないんだよ。立ち眩みと少し吐き気があるくらいでさ。アンタに診てもらう程じゃないんだ」
     そう言ってフィガロから視線を逸らした。そうすると今度は心配そうに自分を囲む子どもたちの姿が目につく。純真無垢な視線を向けられるとどうにも居た堪れない。昨晩の情事を引きずっているのだとは口が裂けても言えない状況だ。
     フィガロは何も言わないままだが、おそらくは察しているのだろう。子どもたちにどう説明をつけようか考えているのか、その表情はやや困っているようだ。
    「立ち眩みに少しの吐き気ね……」
     フィガロはそうつぶやくと、まじまじとネロを見つめてくる。
    「フィガロ! ネロはさっき厨房で寝ていたんです!」
     そんな居眠りでも告げ口をするようにリケがフィガロの前へと進み出た。おや、という表情を見せたフィガロは口元に手を当てて考える。
    「……ネロ」
     自分をただ呼ぶその声に嫌な予感がしてどきりとする。ルチルも何故か不安げな表情を隣で見せていた。
    「最後に月経が起きたのはいつ? 」
    「はぁ? 」
     にこやかに告げられた言葉にネロは言葉を失った。その代わり隣でルチルが顔を真っ赤にして抗議するように声を荒げる。
    「フィガロ先生! なんてこと聞くんですか!」
    「あぁ、ルチル。誤解しないで。これも診察のひとつだよ。可能性はひとつずつ消していかないと」
     ルチルからの言われように困ったように眉を下げたフィガロは、ネロへ向き直ると「それで?」と尋ねてくる。
     うぅん、と記憶の中を探ってみる。魔法使いというものはそもそも自由に性別を行き来できる生き物だ。女という性特有の体の仕組みもそれに準じて変化する。ブラッドリーに拾われて男所帯で育ったネロも身の危険や必要があれば拙いながらも性別を変えてきた。
     そのせいかどちらかと言えば不順気味で長く来ないこともあればその逆になってしまうこともある。煩わしいなと思えどもあまり気にも留めていなかった。
     けれども今、その話題が出るということは。
     思い至った事実に背中を冷たい汗が流れて行った。
    「…………………………まさかな」
     フィガロは相も変わらず微笑みを崩さない。ネロは更に焦った。
     突然、ぐっと胃の奥底から吐き気が込み上げてくる。
    「う……ぇっ」
     咄嗟にシンクにしがみついたが胃がひっくり返るような不快さが残るだけで何も吐き出すことはなかった。さすがに、何か違うのではないかと予感がする。まさか。無意識に腹に手が伸びていた。
    「……ネロ」
     静かな声がネロを呼ぶ。その先を聞きたくなくて、フィガロを振り返ることができなかった。
    「ネロ。もしかして、妊娠してるんじゃない?」
     ズドンと押し寄せてくる心の中の波に飲まれそうになる。フィガロの言葉を聞いて、子どもたちがきょとんとした表情を見せる。
    「………………にんしん」
     ぱちくりと目を瞬かせ、フィガロの言葉を繰り返して、自分たちの中で昇華しようとしているようだった。
    「まだ自我もない命だっていうのに、その子はどうも主張の激しい子みたいだ。ここからでもよくわかる」
     フィガロはネロの腹に触れようと手を伸ばす。けれど途端にバチリと音を立ててその手が弾かれた。ネロは魔法を使っていない。リケやミチル、隣にいるルチルもそれは同様で今し方弾かれたフィガロの手を驚愕の表情で見つめている。
    「あはは、どうやら嫌われたな。誰に似たんだか」
     既に相手はわかっているのだろう。
     ネロは体から血の気が引いていくのがわかった。そんなネロに気付いたのかルチルが気遣うように背中に触れてくる。
    「予定していたものではないなら、驚くのも無理はないよ。ゆっくり考えてみるといい。産むにせよ、産まないにせよ」
     フィガロの声がやけに遠くに聞こえた。のだが。
    「ネロさん、赤ちゃんが出来たんですか……?」
     そんな震える声が聞こえた。ミチルだ。微かに肩を震わせて、瞳には薄らと涙の膜が張る。この魔法舎における最年少は、自分の誕生と同時に母を失っている。
    「ミチル、ネロは大丈夫だよ。お腹の子は魔法使いだけれど、赤ちゃんもネロもとても元気だ」
    「……本当ですか? 良かった……!」
     少しばかり明るくなった表情のミチルが顔をあげた。ミチルの中では既にこの子は産まれることが決定しているようだ。困ってルチルへ視線を流しても同様で弟の様子を嬉しそうに切なそうに見つめる姉しかいなかった。
    「おめでとうございます! ネロさん!」
    「…………あぁ……ありがとう、な……」
     ネロは姉弟の悪意なき祝福に完敗したのだった。
    「ネロは優しいなぁ。そうだ、これは俺からの祝福だよ……《ポッシデオ》」
    「フィガロ? 今のは何をしたのですか?」
     呪文のあとふわりと柔らかな光が一瞬ネロの体を覆った。不思議そうにリケが呟く。
    「簡単な祝福と祈りの魔法だよ。お腹の子が元気に育つようにね」
    「そうなのですね! ネロ、僕にも祝福をさせてください!」
    「あー……はいはい」
     完全に逃げ場が消えた。ネロはもうどうにでもなれという半ばヤケクソで彼らからの祝福を全身に浴びたのだった。
    2.
    「懐妊!」
    「赤ちゃん!」
     朝食のために集まっていた面々に早速ネロの懐妊が知らされた。安定期に入ってからの方がいいのではないかという考えもあったが、フィガロから腹の子が魔力を持った魔法使いであること、賢者の魔法使いとしての任務や今後の戦いのことを考えて周知は必要だと言われたために渋々了承したのだ。
    「わぁ! ネロ、おめでとうございます……! えっと、産休? 育休? 賢者の魔法使いってそういう制度はあるんですか? あぁ、でもお腹に赤ちゃんがいるのに任務へ行くのは難しいですよね……! 生まれるまでは魔法舎で安静に……? えぇっと、えっと、えっと……………………!」
    「落ち着こうか、賢者様」
     知らされた賢者は表情をくるくると変えて終いには目を回す。フィガロが笑顔で肩を叩いて彼が浮かせかけていた腰を落ち着かせた。
    「ネロ」
     ポンと背後から肩を叩かれて振り返るとファウストが薄い色のサングラスの奥に複雑な色を見せながら立っていた。
    「…………ファウスト」
     何となく気まずさを感じ少し間を開けて返事をしてしまった。ファウストもそれは同様のようで言いかけて口を開いては閉じるを数度繰り返す。けれど意を決したように口を開いた。
    「まずは、おめでとう」
    「あぁ、ありがとな」
    「任務は心配するな。今は自分と子どものことを考えろ」
    「わかったよ。さっきも散々リケたちに無理はするなって釘を刺されたんだ」
    「そうだろうな。君は放っておくと無茶をする」
    「そうか? 」
     ネロの懐妊を喜ぶ周囲の魔法使いたちが朝食を食べながら賑やかに話している。そんな様子を眺めているとファウストが隣へ腰を下ろした。
    「…………父親は」
    「それ、今聞くのか?」
    「いや、いい。だいたいはわかっているつもりだよ」
    「そーかい。ありがとな」
     深く入り込まれることを嫌うファウストは、こちらが入られたくない境界をきっちり弁えている。ここにいないブラッドリーの顔が浮かんだが頭を振ってすぐにかき消した。
    「君が決めたのなら、僕が口を出すことはないよ。」
    「まぁ……まずは、俺がちゃんと母親になれるかどうか……だな」
     親の愛もまともに知らないような自分が母親になれるのか、子どもを産むのか。そんな思考が過り、思わず口にしていた。隣のファウストは「は? 」と意味がわからないという顔をしている。
    「…………あの、俺はネロならいいお母さんになりそうだと思うよ」
     ファウストではない柔らかな声に視線をずらすと、ヒースクリフとシノが並んで立っていた。
    「ヒース、シノ……」
    「いい母親がどういうものかはわからない。でも、奥様の次くらいにはなる」
     ふふん、と胸を張るシノにヒースクリフは苦笑した。そんなヒースクリフの表情に何を思ったのかシノは〝奥様〟の話をつらつらと始めた。普段自身を褒められても謙遜ばかりのヒースクリフだが、恥ずかしそうにしながらも否定は口にしなかった。
    「……まぁ、あの二人と同様、僕もネロは大丈夫だろうと思っているよ」
    「…………根拠は」
    「さぁ?」
     ファウストはそう言うとふと口角をあげて笑った。邪気のない笑みに毒気を抜かれる。ネロはため息をついてなんの変化もない腹をそっと撫でてみる。
    「お前、俺なんかで本当にいいのか……?」
     それに応えるかのように、ほんの少しだけ手のひらから命の鼓動が感じられたような気がした。



     ちゅんちゅんと小鳥の囀りが聞こえる。ネロは軽やかな鳥たちの声も煩わしくベッドサイドに置いたままにした洗面器に顔を向けた。
    「うっ……ぇおえ……」
    繰り返し嘔吐くうちに癖にでもなってしまったかのようにそれが続く。匂いに敏感になりすぎて食事はまともに取れず、普段は気にもならないほど些細な人の体臭にまで吐き気を催すほどで部屋に篭り切りになっていた。
     何度か人に会わないように早朝に外へ散歩にも出たが途中で蹲ってしまいたまたま通りかかったクロエとラスティカに救われた。救われたというのにラスティカの香水のような香りに拒否反応が出てしまいとても申し訳ない気持ちになってからはさらに引き篭もるようになった。ラスティカはと言えばそんなネロすらも笑って許すのでもう足を向けては眠れない。
     ネロの妊娠が発覚してから一週間が経とうとしていた。
     くしゃみで飛んでいったブラッドリーはまだ戻っていないそうだ。余程遠くまで飛ばされたに違いない、と北の双子は困ったような楽しんでいるような複雑な表情を浮かべて教えてくれた。
     ようやく吐き気が収まり、ネロは椅子に腰かける。料理もできず、任務や訓練もできず、ただ吐き気に苦しみながら一日を過ごす。長い時を生きるはずの魔法使いの一日が、こんなに長いことなんてあるだろうか?
    「あぁ~………………」
     気を抜けば滲んでくる涙にどうすることもできず、ネロは乱暴に洋服の袖で目元を拭う。
    「……うぁ~…………」
     声を上げて大泣きするためにはネロは長く生きすぎてしまった。情けない声は口から洩れても心の底に溜まった淀みが晴れない。
    「情けない声をあげて、なんです」
    「……うわぁ」
     突然目の前に現れたミスラに危うくひっくり返りそうになった。寸でのところで「何してるんです?」と椅子の背を支えられたのでどうにかなる前に済む。ドッドッと逸る鼓動を深く息を吸い込んで落ち着ける。
    「み……ミスラ? 突然、なんだ?」
    「はぁ……ルチルが」
    「ルチル?」
    「ルチルが、あなたがずっと引き篭もっていて心配だとうるさいんですよ」
     そう言ってため息をつくミスラの向こう側で、ミスラの部屋を訪れたルチルが困り顔で心配心配と言い続ける光景が見えたような気がした。彼女ならあり得ないことではない。
    「あまりにもうるさくて、眠るどころではないんです」
     ゴツとミスラの靴が床とぶつかり重たい音を立てる。部屋から出ろ? ルチルに顔を見せろ? 次に何を言われるだろうと身構えていると、ネロの隣にあるテーブルへドンと大きな籠が置かれた。上にはレースが編み込まれた白い布がかぶされていて、中身が何かはわからない。
    「そうしたら、チレッタ……ルチルの母親が身籠っている時も、一時期何も食べられないあれも嫌、これも嫌とごねたことがあったなと思い出したんですよ」
     これなら食べられるから、と何度も北へ取りに行かされたんですよ。と思い出話をしたかと思えば、ミスラはさっさと踵を返す。
    「確かに、渡しましたよ」
     呪文の詠唱も行わず空間に扉を作ったミスラはあっという間に出て行ってしまった。ミスラのいなくなった空間を眺め、次いでテーブルの上の籠へ視線を移す。恐る恐る白い布を取ってみた。
     そこには黄色くでこぼことした表面の果物と水色のコロコロつやつやとした小さな実と青い三つ又の葉が入っていた。食欲のなかった体がそれが何かわかった瞬間的に口内に唾液を分泌する。ごくりと自然と喉が鳴った。
     黄色い果物はネロにもよく馴染みがある。北の国の特別寒い山でしか収穫できない酸味の強い果物だ。以前たまたま中央の市場で同じものを見つけて賢者に出してみたところ「俺の世界にあるグレープフルーツに似ている」と言っていた。三つ又の葉は煎じて飲むと荒れた胃にいいと言われている薬草だ。こちらもやはり北の国、それも断崖絶壁に生えているため滅多にお目にかかることはできない。
     三つ又の葉が育つと雪のような真っ白な花が咲き、その後水色の丸い実がなる。非常に栄養価が高く、妊娠中の補助食品としても重宝されるものだが、三つ又の葉同様市場に出回ることは少ない。
    「……すげぇ」
     普通はお目にかかれないような品々を籠いっぱいにして寄越すミスラも、そんなミスラを言葉だけで行動させてしまうルチルも。あとできちんと礼をしにいかなければ、とネロは台所へ立った。ごつごつした果物を簡単にくし切りにする。食べやすいように皮と身の間にも包丁を入れて行儀は悪いがその場で口へ運んだ。皿にも盛らずひとつふたつと口へ入れると、ほうっと息がもれて力が抜けた。
     水色の実はボウルに張った水の中へとぷとぷと入れてアクを取る。水からあげて一粒口に放り込めば、水色の実は雪が溶けるようにあっという間になくなった。
     ほっとしたのか眠気が襲ってくる。今のうちにといそいそとベッドへ戻り、横を向いて体を丸めた。頭上まで被った布団の中が次第に温まり心地よさに瞼が下がる。眠りに落ちる――そう直感した時だった。ネロの部屋の扉が乱暴に開き、湿り気のある足音が真っ直ぐにネロのいるベッドへと向かってくる。
     ばさりとかぶっていた布団を剝ぎ取られたかと思えば、がばりと上に覆いかぶさってきたその影は。
    「ブラッド……」
     頭からびっしょり濡れたブラッドリーが感情の読めない瞳でネロを見下ろしていた。
    「ん んん~ んぅ、ん! ん~~~~~~~ ~~~~~~」
     かと思えば、なんの前触れもなく突然口づけられた。物凄い力でベッドへ押さえつけられ息を奪われる。ネロの体を跨ぐように位置を変えたブラッドリーに焦りバタバタと足を動かして抵抗するもびくともしない。辛うじて腹の上には乗られていないが、いつ衝撃がくるか気が気ではない。ネロは呪文の詠唱もなしに手元へ胡椒瓶を召喚すると思い切り振りかぶった。
     ぎょっとしたブラッドリーがネロの上から飛び退く。一週間ぶりに戻って、またすぐくしゃみの旅には出たくないだろう。胡椒瓶を手にしたままベッドの端へと避難するといたずらを叱られ耳の垂れた犬のような顔でブラッドリーが椅子に腰かけた。
    「なんだよ……そんなに怒るこたねぇだろ」
    「てめぇはびしょ濡れのやつが突然ベッドに乗り上げてきても怒らねえんだな……?」
    「いや…………悪かった」
     正直、ベッドに乗り上げられたこともキスをされたこともよくはないがこの際どうでもいい。ネロは腹に手を当てる。
    「…………んな、おっかねえ顔で怒んなよ」
     疲れているのだろう。疲労を滲ませた表情で、珍しくブラッドリーは弱ったような声で謝罪を述べる。一週間前、ブラッドリーがくしゃみで飛んだ朝。ネロと行為まで至らず一週間をやり過ごしたことで、ようは溜まっているのだと。
    「謝罪と混ぜて割と最低なこと言ってる自覚はあんのか?」
    「一応」
    「……そうかい」
     体の緊張を解いてベッドに体を沈める。呪文を唱えて体を乾かしたブラッドリーが、椅子からベッドに移ってきた。
    「なぁ、ネロ。機嫌直せよ」
     ちゅちゅ、と恋人の戯れのような口づけが髪やこめかみに降ってくる。久しぶりのブラッドリーからの触れ合いにネロも嬉しくないわけではないのだ。ただこれ以上を望めば、それはつまりセックスをするということで。セックスをするということは思い切り赤ん坊がいる器官を使うわけで。
     一週間前の朝のように、ブラッドリーの手がネロをあやして性感を高めようと動き回る。
    「ブラッド」
     これはおそらくはっきりと伝えなければダメだろう。腹をくくって、ネロは努めて口調が真剣になるように彼の名前を呼んだ。
     真剣な話をしようとしていることが伝わったのか、肌を這うように動いていた手や唇がぴたりと止まる。体を起こしたブラッドリーと目線が絡んだ。
    「……また〝待て〟か?」
    「今は……できねえんだよ」
    「はぁ? やりたくねえの間違いじゃねえのかよ」
    「だから、やりたくねえわけじゃ……って何言わせんだバカッ!」
     つい普段の勢いで頭をぽかりと叩くと大げさにブラッドリーが「いてぇ! 」と騒ぐ。
    「できねえんだよ」
    「…………クッソ、あ~~……なんでだ」
     ガリガリと後頭部を掻いて長くため息を吐いたブラッドリーがぶっきらぼうに呟いた。
     これは相当機嫌を悪くしている。相手がネロではなく北の魔法使いであったら既に殺し合いになっていただろうなと他人事のように思った。
    「できたんだよ」
     ネロも一つため息を零して。簡潔に伝える。ブラッドリーは「はぁ?」とまるで伝わっていない声を上げた。
    「何が。セックスはできねえっつってただろ……………………他に男が出来たって?」
     室内の温度がまた一度下がった。ような気がした。冷え冷えとした空気がネロの肌に突き刺さる。だがブラッドリーの物言いに腹が立ったのも事実で。
     どうして〝他に男が出来た〟なんて発想に至るんだ! こちとらてめぇと再会するまでの百年、一瞬たりとも男の影がなかったのに!
     ネロは再び勢いよくブラッドリーの頭をひっぱたいた。先ほどよりも張りのある音が室内に響き、怒りの滲むブラッドリーの「いてぇんだよ!」という怒鳴り声が次いで響いた。
    「!」
     ブラッドリーが動きを止めた。ネロの視界は水中に落ちたかのように滲んで、歪んでいる。頬を冷たいものが流れて行った。
    「は? おい、何泣いてんだよ」
    「泣いてねえよ」
    「泣いてんだろ」
     ブラッドリーがコートの袖を伸ばしてネロの目元を乱暴に拭う。そのまま腕の中に閉じ込められてしまうと、近くなったブラッドリーの胸からは命の鼓動が聞こえた。ドク、ドクと規則正しく脈打つそれ。情緒がひどく不安定になっているようで、ネロはまた泣きたくなった。
    「はぁ~…………なんだっつぅんだよ」
     奇しくもそれは、ネロが一週間前に思ったことで。
    「……本当に他に男ができたとか思ってんのかよ」
    「…………思ってねえよ」
     微妙な間がブラッドリーの心情を表しているようだ。少しは考えたらしい。
    「馬鹿だな、てめぇは」
     死の盗賊団の首領が聞いてあきれる。
     やや穏やかな気持ちになったところで、胃の辺りから吐き気が込み上げてくるのを感じた。このままだとブラッドリーに向けて嘔吐することになる。目の前からブラッドリーを押し退けて洗面器に顔を突っ込んだ。食べたばかりのものが未消化のまま吐き出されて、その匂いに更に酔う。
    「なんだよ、調子悪かったのか?」
    「げほっ、おえっ…………はっはっ…………つわり……」
    「はは~……なるほど、つわりか」
     つわりな、つわり。そうか、つわり。ブラッドリーは〝はいはい〟と何度か頷くと。
    「――………………つわり」
     目をかっぴらいて叫んだ。
    「うるせー……」
    「お前……妊娠したのか」
     誰の、と動きかけた唇が閉じ、静かに「そうか」と呟く。
     静かになったブラッドリーが不審で、吐き気の波が去ったことを見計らってゆっくりと体を起こして振り返った。ブラッドリーはまだそこにいた。目元を片手で覆って、恐ろしいほど静かに座っている。
     今は何を考えているのだろうか。
     ふと口元が薄らと弧を描いているのが見えた。ネロはまた泣きたい気持ちになる。胸の辺りが温かくて仕方がない。
    「なぁ、ブラッド」
     そんな彼に倣ってネロも静かに言葉を紡ぐ。「ん?」と穏やな声が返ってくる。
    「……産んでもいいか」
     緩やかに伸びてきた腕に再び腕の中に閉じ込められる。力強く「ん」と返事があって、こらえきれなかった分の雫が頬を濡らした。
    3.
     ここ数日というもの、ブラッドリーの機嫌は絶好調だった。
     くしゃみひとつ<大いなる厄災>の傷で飛ばされることもなければ、面倒な任務に駆り出されることもない。それに何より、子どもができた。その事実にここまで心が弾むのは子を宿しているのがネロだからだろう。
     今なら鼻歌とともにスキップを跳んでもいいかもしれない。
     そう言えばネロの部屋に北で取れる果物や薬草が置かれていた。
    「取りに行くか……」
     あれは見舞いにミスラが持ってきたのだと言っていた。なんとなく、ネロの体を作るものがミスラの持ってきた果物なのは面白くなかった。
     確か時の洞窟のすぐ近くに薬草が生えている崖があったはずだ。箒で飛べば一日と少しで戻れるかもしれない。そんな算段をつけて双子に許可を得ようと自室から出ると、すぐ近くから自分を呼ぶ声が聞こえた。
    「ブラッドリー」
    「あ?」
     妙に高い声音の、しかし少し古臭いような、聞き馴染みのあるその声。
    「んだよ、双子ジジイか」
    「「ジジイじゃないもん!」」
     ブラッドリーにジジイ呼ばわりをされた双子は同時に反論する。ぷくぅと頬を膨らませる姿は外見も相まって本当に幼子のようだが。呼び止められたその時の声音があまりにも真剣さを滲ませていたのだ。自然とブラッドリーは体に力を入れていた。
    「うむ、そう警戒するでない。何もおぬしを監獄へ戻そうと声をかけたわけでもないに」
    「…………なんだってんだよ、こんなところで」
     双子はちょこちょことブラッドリーの部屋の前まで歩いてくると同時にその姿を成熟したものへ変化させた。ぐっとブラッドリーと視線が近づく。
    「ブラッドリー、自分の立場を忘れるなよ」
    「おぬしは囚人じゃ。常であれば<大いなる厄災>の襲来までは監獄へ戻される」
    「………………そうだな」
     北で盗賊団をしていたその罪で、ブラッドリーの刑期は何千年という単位で残っている。双子はさらに凄むようにブラッドリーを見た。
    「本来は監獄にいるはずのそなたが、子どもを作ることができるか?」
    「……………………………………」
     あぁ、とブラッドリーは急激に心の中を冷たい水でも流れて行くような感覚に陥った。スノウとホワイトが何を言いたいのかおおよその見当がついたのだ。そして、それをブラッドリーに言わせたいのだ。大きくため息を吐く。
    「ブラッドリー、おぬしも馬鹿ではない。我らの言いたいことはわかるであろう?」
    「腹の子が生まれた時、〝死の盗賊団〟の首領の子として生きるのと、東の飯屋の子として生きるのと」
    「「どちらがその子のためとなるか」」
     ブラッドリーは再びため息を吐いた。言われるまでもなく、頭の中にあったことでもある。それよりも今は喜びを感じていたいと片隅に追いやってはいたけれど。
     生まれてくる子どもが例えば男の子だったとしてその子が中央の国で騎士になりたいと言ったら。〝死の盗賊団〟の首領という罪人を父に持つ子は騎士になることはできない。
     例えば、女の子だったとして。結婚を考える相手と巡り合えた時。北の魔法使いブラッドリーが顔を見せて、その相手が何を思うか。想像は容易にできる。
    「……そりゃ、そうだよな」
     ネロは足を洗った。東で飯屋を開いて、今は賢者の魔法使い。彼女の子どもとして生まれる分はいい。ただ、そこにブラッドリーがいてはいけない。そう、双子は言いたいのだ。
    「まぁ、それもあるが。第一に本来は監獄にいるはずのおぬしの管理を怠ったと我らの責任にもなってしまうからのぅ」
     魔法舎の中では自由とはいえ、子どもを授かるとはいい顔をされないだろう。人間にも、真っ当に生きる魔法使いたちにも。
    「そっちは知らねぇ。てめぇらで何とかしやがれ!」
    「あっ、ブラッドリー!」
     開いたままになっていた扉を力いっぱい乱暴に閉めて、階段へと向かった。背後から呼び止める声も聞こえたが、全て無視して階段を下っていく。向かった先は三階だ。
     階段を下りきってすぐの部屋。ネロの自室まで足を進める。ノックもせずにドアノブを捻ると扉は簡単に開いた。「ノックをしろ!」というネロの怒号を期待していたものの、それは得られない。扉のすぐ右手にあるベッドでネロは眠っていた。
     サイドテーブルの上にまだ水にぬれた洗面器が置かれている。顔色もあまりよくは見えなかった。
     ベッドに腰を下ろすと、スプリングがきしりと音を立てるがネロは起きる気配を見せない。余程熟睡しているのだろう。ブランケットを抱きかかえるように顔の回りに持っているせいでちっとも体にかかっていない。布団も毛布も足元でわだかまっていた。
    「こんなに寒い部屋で、冷えるだろうが」
     ブランケットは腹の上にかけて、その上から更に布団と毛布をかけてやる。急に重くなったからネロが「う~ん」と唸り声をあげた。しかしすぐに体が温まったのかすぅすぅと心地よい寝息を立てて眠ってしまった。
     ここ最近のネロはこうして眠っていることが増えた。起きていてもつわりで吐いているか、真っ青な顔で座っているかだ。
     フィガロが言うには、眠ることで自分の中の魔力が暴走しないようにと防衛本能が働いているということらしい。魔法は心で使う分、つわりの苦しさと思うように動けない煩わしさとで疲弊している今、無意識のうちに胎内から原因を取り除こうとすることがあるのだと言っていた。だから、眠ることで心の消費を抑えている。
     ブラッドリーは顔にかかるネロの髪を横に流した。
     〝……産んでもいいか〟
     こんなに苦しみながら産む決断をしたのかと今更ながら思う。こればかりは、ブラッドリーは無力だ。北の魔法使いであっても盗賊団の首領であっても、できることはない。
    「俺は、父親を名乗らない」
     せめてもの祝福と、見守ることはできる。
    「だが、名乗らないだけだ。父親面もするし、その役割くらいは俺にもさせろ」
     それだけは譲るつもりはない。誰と全面的に殺し合うことになろうとも渡さない。
    「……………………ブラッド…………?」
     ふとネロが目を開けた。ぼんやりと焦点の合わない視線で、ぎこちなく手を伸ばす。わしゃわしゃと無造作に頭を撫でられて混乱した。
    「……どうした?」
    「どうしたはテメェの方だろうが……」
     未だに寝ぼけ眼のネロをベッドの奥へと寄せて、ブラッドリーは自身もベッドへもぐりこむ。今日は何故か文句も言われずに受け入れられ、先程ブラッドリーがかけてやったばかりの布団の中へと招かれた。もぞもぞとネロが身動ぎ、ブラッドリーの体にうまく収まる位置を探す。しばらくするとぴたりと止まった。
    「…………………………」
     寝たのかと思ったが起きている。じっとネロはブラッドリーのネクタイの結び目を見つめていた。
    「……どっか出かけるのか?」
    「あ? あぁ……北に、行こうと……」
     思って、やめた。
     双子に余計な茶々をいれられてそんな気も失せていた。そう言えばブラッドリーはネロに薬草を摘んでこようと思っていたのだ。
    「じゃあさ、取っちまえば」
     そのネクタイ。
     言うが早いかネロはするりとブラッドリーの首元からネクタイを抜き取った。もともとジャケットは自室へ置いてきていたから、今はワイシャツにスラックスのみのラフな格好になっている。そうでなければ、そもそもベッドに横にはなっていないけれど。
    「……………………なぁ、ネロ」
    「……あー?」
     あくびでも溢すかのように、ネロが呟いた。
    「俺は、」
    「さっき、呟いてたことなら……好きにしろよ」
     どうせ、てめぇは俺が何を言ったって聞きゃしねえんだしよ。ネロはそう言って困ったように笑った。
    「なんだよ、聞いてたのかよ」
    「あんだけ至近距離で喋れば、寝てても聞こえる」
     でもな、とネロはひとつ前置きを入れる。
    「子どもは、一人じゃ作れねえ。母親がいて父親がいる。俺にも、お前にも、この子にも。俺は、お前以外のやつとセックスしてねえ」
     それが全ての証明で、それが事実だ。誰が何と言おうと、何も言わずにいようと。
    「お前は、父親だよ。父親面でも父親って役割でもなくて、父親なんだよ。ブラッド」
     だから、あんま難しく考えすぎんなよ。ネロはそれだけ言い切るとブラッドリーの言葉を何も聞かずにすぅ……と眠りに落ちていった。
    「………………………………」
     眠るネロを見つめて、そっと布団を退ける。まだブラッドリーにはネロの体の些細な変化はわからない。脱げばもしかすると腹の膨らみもわかるかもしれないが、体が細い上にだぼったい服を好んで着ている今は確認できなかった。
     それでもブラッドリーは腹に向かって手を伸ばす。臍よりも少し下に掌を重ねてみる。
    「……てめぇの母ちゃんは、俺が父親でもいいってよ」
     お前はどうだ。
     答えはない。
     ただネロの魔力に紛れて僅かに、ブラッドリーに似た魔力を感じた。
    「――そうか。魔法使いか、てめぇは」
     きっと沢山の苦労をする。自分自身、親父との思い出なんてほとんど残っていないし、ネロはもっと良い記憶なんてないだろう。親父が悪党で良かったとも悪かったとも思えないが、少なくとも親父が悪党でなかったらネロとは出会っていないのだ。
     何が良くて、何が悪いかなんて、昔のことですらわからないのに先のことはもっとわからない。それなら、必死に足掻くだけ。
     ただ一つ、願うのならば。
    「てめぇは母ちゃん守れる強い魔法使いになれよ。坊」
     そう声をかけた。途端にキィンと耳慣れない音が響き、ブラッドリーは目を丸くする。
    「……ハハッ…………いいじゃねえか、気に入った!」
     それは〝約束〟だ。今の時点をもって、この子どもはブラッドリーと約束を交わしたのだ。まだ腹の中で動くこともできない赤子が一丁前に約束を結んできた事実にブラッドリーは笑いが止まらなかった。
    「それでこそ、俺様の子だ!」
     大声を出したその瞬間、眠っているネロから鋭い鉄拳が飛んできた。


     季節が冬から春へと移り変わる頃。寒々しかった木々が青々とした葉をつけ、花壇には赤や黄、橙などの色鮮やかな花が咲く。ネロは窓の外の景色に春の訪れを感じながら室内へと視線を戻した。厳密に言えば、己の腹部に張り付いているブラッドリーへと視線を向けた。
    「……ブラッド」
     厳つい指輪のはめられたブラッドリーの指先が綿にでも触れるかのようにそっと腹の上に添えられている。空いている反対側の手は彼の顎に添えられ、何を難しいことを考えているのか眉間にはしわが寄っていた。
    「……なぁ。そんなに何か気になるなら、フィガロに」
    「うるせぇ。俺はあの野郎には死んでも頼らねえ」
    「あぁ、そう」
     ネロのつわりが落ち着き、洋服の上からでも腹部の膨らみがわかるようになった頃から、ブラッドリーの奇行は始まった。
     つわりが治まったからとキッチンへネロが立ち始めるとどこからともなく現れ、つまみ食いをするでも肉の要求をするでもなく座って様子を見ている。
     ちょっと散歩にでも、とルチルやミチルたちと共に中庭に出ればストール片手に現れる。
     そしてネロが特に何もすることがなく、休憩しようと椅子に座り始めれば―……今のように腹に手を当て難しい顔をするのだ。
     そんなブラッドリーを始めこそ皆が面白がってからかい、冷やかし、何かとちょっかいをかけていたのだが、これが驚くほど彼には響かなかった。そんなブラッドリーの姿にオーエンは気味の悪いものにでも触れたかのように顔を歪め、取り出したトランクを開けることなく引っ込めるほどだった。
     奇行も日々繰り返されれば日常として当たり前の光景になっていく。誰しもが〝あぁ、またやっているな〟という認識になった頃、ネロはついにブラッドリーに尋ねた。『お前は一体何がしたいんだ』と。
     ブラッドリーは答えた。
    『……わかんねぇ』
     わかんねぇのかよ、とネロは心の中で突っ込みは入れたもののブラッドリーの『わかんねぇ』に付き合うことにした。実際、ネロだってわからないことだらけだったのだ。六〇〇年という時間を生きて、己の胎内に命が宿る経験なんて初めてなのだ。おそらくはブラッドリーも似たような感覚なのだろう。身籠っている女を迎えたり、盗賊団の団員が父親になる瞬間に立ち会ったり、そんな経験はあっても己が父であったことは一度もないのだから。
     ブラッドリーの黒に白が混ざる髪をくしゃくしゃと撫でる。ブラッドリーはさらに眉間にしわを深く刻んで唇を尖らせた。
    「あん?」
    「俺さ、ずっとあんたは腹の中の子どもの性別が気になってるんじゃないかって思ってんだけど」
     視線が上を向き、二人の視線が合う。ブラッドリーはネロの疑問に「あー……」と気の抜ける声をあげて立ち上がった。腰に手を当てながらもう片方の手でガシガシと自分の髪をかき乱す。
    「気にならねぇ……わけじゃないけどな。あー…………なんだ」
     うろうろ、そわそわ。
     ブラッドリーは一度目を伏せると、勢いよくネロの肩を抱き寄せた。
    「うわっ」
     ネロがそんなまぬけな声を出すと、耳元で盛大なため息が吐き出される。
    「わかんねぇ」
     それはそれは心の底から、降参だとでも言いたげな声だった。あの『死の盗賊団』を長年首領として率いてきた男が、だ。あまりにも情けない声に、ついにネロは堪えきれなくなってブハッと盛大に噴き出して笑う。
    「すごいなぁ! 坊! あのボスが、降参だってよ!」
     ブラッドリーの腕に抱えられたまま大声を出して笑う。腹を擦ればほんの僅かだが胎動を感じたような気もした。こいつは大物になるかもしれない。だって生まれる前から泣く子も黙るブラッドリー様に白旗をあげさせたのだ。ゲラゲラと目に薄ら涙すら浮かべながら笑い続けるネロにブラッドリーはなんとも言えない顔をする。
    「降参した覚えはねぇぞ」
    「はは、じゃあ坊が生まれるまでに何が〝わからねぇ〟のか頑張って突き止めてくれ」
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