スターゲイザー家庭教師として雇っているこの男の家に来たのは今日が初めてだった。いつもは向こうが、勉強を教えるために自分の家を訪れている。休日に約束をしてやって来たマンションの一室は高層階にあり、見晴らしがよかった。
「いいところに住んでんじゃねえか」
「おかげさまでな」
「おれ以外の奴の家にも教えに行ってんのかよ」
「そりゃ仕事だからな。行ってるさ」
「ふうん」
玄関をくぐり廊下を歩いた先には物があまり無いリビング。その中心にはテーブルと椅子が二脚ある。何も言わず椅子へと腰かけ、蛮骨は窓の外を見た。蒸し暑い中、舗装された道路を人が歩いていく光景が眼下に見える。
「涼し過ぎたら言ってくれ」
「いや、ちょうどいいぜ」
「そうか」
先に座っていた蛮骨の席の前に、煉骨が飲み物を用意する。サイダーだろうか。グラスに注がれた透明な中身は、しゅわしゅわと発泡音を立てていた。煉骨も椅子を引き、向かいへと座る。同じくグラスを手にしていたが、そちらの中身はアイスコーヒーのようだった。
特に何かしようと決めて会っているわけではない。蛮骨が煉骨の住む部屋に行きたいと言っただけだ。駅で待ち合わせをし、歩いて10分、オートロックのエントランスをくぐってエレベーターに乗り、空調がついた快適な部屋に案内された。室内はすっきりと整えられていて、電子機器がいくつか置いてある。テレビは無い。ノートパソコンとタブレットがある。壁面に備え付けられた収納スペースがいくつかあるようだから、その中に色々な生活用品が入っているのかもしれないが、とにかく殺風景な部屋だった。
「あれ、なんだ?」
そんな殺風景な部屋に、一つ、飾られている模型がある。立方体のディスプレイケースの中に飾られたそれは、巨大なアンテナのようにも見えるが、何の模型なのか蛮骨にはわからなかった。
「あれは電波望遠鏡の模型だ」
「電波望遠鏡? なんだそれ」
出されたグラスを手にし、中身を口に含む。サイダーのすっきりした味が広がった。
「電波望遠鏡は、人の目には映らないものを捉える望遠鏡だ。星の誕生を解明するためなどに使われている」
「へえ。全然わからねえや」
全く興味がわかず、蛮骨はそう言って話を切り上げた。座ったまま街並みを眺めていると、煉骨が先程の話を続け始めた。
「星を生成する材質は可視光を放たないから、人の目では観測出来ない。だから電波望遠鏡を使って、星の始まりを観測する。人の目には映らない、何もない暗い世界から、星は生まれてくるそうだ」
静かにそう言って、煉骨は蛮骨を見た。蛮骨も、視線を外の景色から煉骨へと移していた。テーブル超しに交わる視線。蛮骨がふっと笑った。
「人の目には映らない、暗い世界、か」
「ああ」
過去に生きていた世界のことを想う。生まれによって命の価値が異なる世界。塵芥の中で存在の証明をするためには、強さという光が必要だった。
「……昔、星を見た。どんな星だったかは思い出せないのに、星を見たことは忘れられなかった」
外の景色を横目に見ながら煉骨が呟く。蛮骨はそれを静かに聞いている。
「世界の中に、いつも星を探していた。電波望遠鏡の模型は、その頃の名残だ」
「……それで? 星は見つかったのか」
「ああ」
からん、とグラスの中の氷が音を立てる。グラスについた水滴が、流れ星のように静かに落ちていった。半分ほど減ったサイダーを見て、煉骨がおもむろに口を開く。
「隣にも部屋があるんだが……そっちも見てみますか」
「んじゃ、せっかく来たんだし見せてもらうとするかな」
蛮骨の言葉を聞き、煉骨が立ち上がる。蛮骨も立ち上がって、グラスに入ったサイダーを一気に飲み干した。
リビングの白い壁面に馴染んだ、淡い色調の扉。煉骨がその前に立ち、ドアの取っ手に手をかける。
「そっちは何か面白いもんがあるのか」
「特にありませんよ。寝室ですから」
カチャリと取っ手が音を立て、静かに扉が開いた。
室内は白とグレーで色調が統一されている。カーテンは閉め切られていて薄暗い。やはり物は少なく、ベッドサイドに置かれたデジタル時計と数冊の本以外には、目立つものは何もなかった。
「ほんと何もねえな」
部屋の中へと足を踏み入れ、蛮骨がそう言った時だった。ぐっ、と突然手を引っ張られる。そのままベッドへ引き倒された。スプリングが静かに軋む。仰向けに倒れこんだ蛮骨の頭の両側に、煉骨が手をついた。
「蛮骨」
目の前の少年を見つめ、煉骨がゆっくりと口を開く。口調こそ落ち着いていたが、その言葉には静かな重たさがあった。蛮骨は淡々とした視線を反応として返す。煉骨へ向けるその表情に、驚いた様子はない。
空気が変わる。二人きりの部屋、どちらのものかわからない、微かな呼吸の音が響いている。
「おれはてめえのことが許せねえ」
紡がれた言葉、その奥に絡む過去の確執。この世に生まれる前の記憶を辿りながら、煉骨の唇が動く。
「おれたちを率いて、負けたことが許せねえ。それも二度もだ。今になったって納得が出来ない」
煉骨の言葉に蛮骨は何も言わない。煉骨が目を伏せ、一度小さく息をつく。再び開いた目には強い憤りの感情が宿っていた。
「死んでも、許せなかった。てめえのことが………」
煉骨が蛮骨を睨む。真正面から蛮骨はその視線を受け止めている。自分を押し倒す男の目に燃える激情。現代でこの目を見るのは初めてだった。
かつて生きていた頃、煉骨から何度かこの目を向けられた。その度に力で捩じ伏せ、言うことを聞かせてきた。煉骨に限ってのことではない。他の連中にもそうしていた。力が全て。それが七人隊だった。
「おれたちはてめえの強さを信用していた。多少の理不尽だって、てめえが強いからこそ従った。なのに……」
ぎゅっとシーツを握り締める指。喋り始めた時には淡々としていた声が、怒りで震えていた。
「なのに負けた……! おれはそれが許せねえ! ずっと………ずっと………!」
生まれ変わっても尚、割りきれない感情がそこにはあった。かつて殺した男が訴える言葉を、蛮骨は黙って聞いている。
「てめえを信用してずっと……ずっとついてきたんだ! なのにてめえはそれを裏切った! 蛮骨」
煉骨の手が蛮骨の首を掴む。指先に力がこもる。首を絞められかけても、蛮骨は目を逸らさずに煉骨の怒りを見ていた。
「先に裏切ったのは、てめえの方だ。そう言ってやりたかった。だから頭の中から忘れても、おれはお前を探していた」
小さく息をつく。表情を憎しみと恨みに歪ませて、煉骨が蛮骨に告げる。
「その強さがあれば誰にも負けないと………お前なら……大兄貴なら……! 誰にも負けないとおれたちは思っていた!」
声が震える。塞き止められない想いが溢れて決壊する。
「………。……そう……思っていたんだ………」
首を掴む指から力が抜けていく。ぶつけた怒りのあとを追うようにして、失望と落胆が煉骨の表情に浮かんだ。
言葉は続かない。煉骨は黙ったままだ。蛮骨は目の前の弟分を静かに見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「ああ。おれは負けた」
首に触れていた指先がぴくりと動く。煉骨の顔から表情が消え、無へと変わった。蛮骨が何を言うのか。その言葉を待っていた。
「お前らはおれの強さについてきたのに、結局、全員死ぬことになった」
蛮骨の言葉には抑揚が無い。かつての首領から綴られる言葉を煉骨は黙って聞いている。
「強かったけど生き残れなかった。お前らを裏切ったつもりなんか無かった。……けど、お前からしたら、酷い裏切りだったんだろうな」
蛮骨の目が煉骨をまっすぐに捉える。
「……期待に応えられなくて悪かった、煉骨。負けちまって、ごめんな」
寂しい言葉だった。煉骨の目が大きく見開かれる。唇が言葉を探して震え、何も言えないままぐっと閉じた。
「………っ……! くそっ……」
どうしようもない感情が行き場を無くしてさ迷う。それはもう終わったこと。過去に死んだ人間たちの出来事だった。取り戻せないもの、やり直せないこと。欠片で蘇っても、死んだ出来事が覆るわけではなく、疑念により関係は崩れた。そうして分裂し、瓦解した。それが七人隊の終わりだった。
「………大兄貴」
煉骨が名を呼ぶ。小さな声は蛮骨の耳に届いた。
「……約束しろ。もう、二度と負けるんじゃねえ」
少年の喉に手をあてて男はそう告げる。透き通るような黒い瞳が煉骨を見つめた。
「……もう、忘れられないんだ」
長い指が喉をつうっと撫でる。胴から離れていない首を、紫色の欠片が埋まっていない首を、静かに撫でる。
「頭の中から消えない。てめえの強さが。目に焼きついて……眩しくて……死んでも……忘れることが出来なかった」
暗い世界でそれは確かに輝いていた。その強さに惹き付けられて、後ろ姿を追い、戦った。
「おれはお前を追い続けるんだろう。きっと……嫌でも……。だから……ずっと……信じさせてくれ、大兄貴」
真っ暗な場所から、生まれてくる星。それをずっと待っていた。姿を思いだせなくとも、曖昧にしか覚えていなくても、見ればきっと分かる。そう思って待ち続け、そして出会えた。
煉骨の目がすうっと細められる。過去の光を懐かしむように、今の光を見つめるように。そこに怒りの感情は無い。ただ、星の眩しさに目を奪われているだけ。蛮骨はそれを見て静かに頷いた。
「約束する。もうおれは誰にも負けやしねえ」
蛮骨が手を動かす。喉に触れている煉骨の手に、自分のそれを重ねる。
「信じてついてこい、煉骨。もしおれの強さを疑う日が来たら、その時はまた、この首を狙えばいい」
その言葉に、煉骨はゆっくりと首を縦に振る。首もとに触れていた指先が離れ、蛮骨の薄い唇へと移る。整った形をしたそれをなぞって、煉骨が身を屈めた。目を開けたまま重なる唇。しばらく見つめ合った後、口づけは一層深いものへと変わっていく。
ベッドが音を立てて揺れる。体を縺れさせながら、服の合間に手を滑り込ませ、肌をまさぐる。声の音が濡れるまでに時間はかからなかった。甘く激しい口づけをしながら、二人はそのままベッドの上で、生きている熱を分かち合うのだった。
閉じていたカーテンの隙間から夕日が差し込む。名残惜しいがそろそろ帰さなくては、と思いながら、煉骨は隣に寝そべる男に声をかけようとした。
「なあ、他のやつらもいると思うか?」
裸になったままの蛮骨が口を開く。誰のことを指しているかは明白だった。煉骨は少し考えてから返事を返す。
「同じだけ悪行を重ねて、同じ時に討たれたからな。おれたちが生まれ変わっているなら、あいつらもどこかにいると考えて間違いないだろう」
「じゃあ探すか」
「探すって……全員をか?」
「当たり前だろ。七人揃わなかったら七人隊を名乗れねえからな」
にっ、と蛮骨が笑う。その様子に呆れたため息をついて、煉骨が肩を竦ませた。
「ったく……仕方ねえな。探しだすのは面倒だが、付き合ってやる」
「おっ、珍しく話が早いじゃねえか。もっと渋るかと思ってたぜ」
「渋ったところで通すつもりでしょう。それに………」
「それに?」
「大兄貴は寂しがり屋だからな。おれ以外にも構う相手がいた方がいい」
煉骨が微笑しながらそう言う。蛮骨はきょとんと驚いた顔を浮かべた後、大人の余裕を持った煉骨の姿にふっと笑い、明るい調子で口を開いた。
「仲間は賑やかな方が楽しいからな」
夕陽が少年の笑顔を照らす。それを眩しく見つめる煉骨。
あの時も、始まりはこうだった。気軽に声をかけてきたこの男との出会いが、自分の運命を決めるなどとは思っていなかった。
ついていったことを後悔したことは無い。いつだって自分が信じた方へと進んできただけだ。だからこの選択も、きっと後悔することは無いだろう。
「また楽しくやろうぜ、煉骨」
暮れていく空の向こう、夜空に輝く一番星。暗い世界に光るそれは、星を連れて、空の頂きへと昇る。今も昔も変わることなく。長き時間を、巡り続ける。