傘と怪異と学生と傘と怪異と学生と
雨傘の上で跳ねる雨の音を聞きながら、大学に向かう。アスファルトの上を歩くたびに、ピタピタと水気を含んだ自分の足音が一定のリズムで聞こえてくる。途中、同じ大学に向かっているであろう女子学生を追い越しながら、講義に間に合うように少しずつ歩みを速める。
校門を抜け、教師に向かおうとしたその時、声をかけられた。
「ねえ」
聞き馴染みのある声だった。私の専攻する近代文学に詳しく、文学に関する講義を担当する先生だ。今ここに着いたのか、校門前で黒い雨傘を携え、歩道脇に佇んでいる。
「ちょっといいですか」
校門の外側と内側、そこで向かい合うようにして、先生と私は顔を見合わせている。
「どうかしましたか?」
私が声をかけると、先生は口角を緩めて笑って見せた。
「入ってもいいですよね?」
「……?」
入ってもいい、とはどういうことだろうか? 学生たちがぞろぞろと登校している様を見て、校門をくぐるタイミングを逃しているのだろうか。それとも、校内に入りにくい理由でもあるのだろうか。どちらにせよ、先生が校内に入ってくれないことには、彼の講義を受けられなくなる。
色々と考えた末に、私は「いいですよ」と答えた。すると先生は、大きく足を踏み出して門扉のレールを跨いだ。コツ、コツ、と濡れたアスファルトの上を歩く小気味良い足音が辺りに響く。そうして先生は私のもとまで歩み寄ると、先ほど浮かべた笑みをたたえたまま「ありがとう」と会釈して歩き去って行った。その時、先生の瞳が赤く光ったように見えた。
遠くの方で黒い雨傘が揺れているのを見届けた私は、その場を立ち去り、講義の行われる教室に向かった。
◯ ◯ ◯
講義を終えて、食事を済ませたのちに図書館へ向かうため校内を歩いていると、先生とすれ違った。先生が携えている傘の色は、校門で見た黒色ではなく、白色だった。瞳の色も、赤色ではなくいつもの黒色だ。
「あれ、先生」
「うん? どうかしましたか?」
「傘、変えたんですか?」
「傘? 私の、ですか?」
「はい、校門前にいたときは黒い傘を持っていましたよね?」
私のその質問に、先生は「いいえ」と首を横に振った。今日は白い傘を持ってきましたし、私は一限が始まる前から学校に来ていましたよ、という先生の言葉に、私は少し混乱した。狐につままれる、とはこんな感じだろうか。
それと同時に、私は思い出した。今目の前にいる先生の髪色は、白髪の混じった灰色。しかし、校門前で会った先生……いや、区別のためにセンセイと言うべきだろうか? とにかく、そちらの方は白髪一本ない真っ黒な髪だった。
考えれば考えるほど混乱してくる、とりあえず、先生には曖昧な返事を返し、会釈をしてその場を立ち去った。
図書館に入ってから都市伝説を題材にした本を探し出し、あるページを開いた。
──ドッペルゲンガー。
その人と全く同じ姿をした怪異、らしい。そのドッペルゲンガーに悪意があるかは分からないが、少なくとも、先生の姿をした赤目のあの人(ややこしいので、やはりセンセイと呼ぶことにした)に悪意があるようには見えなかった。
本を読み進めていく中で、興味深い一文を見つけた。
──吸血鬼等のモンスターや一部の怪異は、招かれないと建物の中に入れない。
それで謎が解けた。あのときセンセイは、私に『入ってもいいですよね』と聞いてきた。あれは学校内に入るための儀式のようなものなのだろう。そして、そのとき私は入ってもいいと答えた。それが招待と判定されたから、あの人はここに入れた。
……あの人が、悪い怪異でなければいいけれど。
そんなことをぼんやりと考えながら文字の羅列を眺めていると、背後から声が聞こえた。
「ねえ」
「わっ」
いきなり声をかけられたものだから、思わず本を落としそうになった。本を棚に収めながら後ろを振り返ると、そこにセンセイが立っていた。赤い瞳に黒い髪なので、多分、先生ではなくセンセイだ。
「ワタシのことを、調べていたんですね」
「まあ……そう、ですね」
「構いませんよ」
センセイは私が収めた本の背表紙を一瞥したのち、くすくすと笑った。
「アナタだけですよ、ワタシが怪異であると気づいたのは」
「じゃあ、他の人たちは?」
「人間って、意外と周りを見ていないんですよ。人間やら動物やら、そういう生き物以外はこの世にいないと思っているわけです」
「じゃあ、センセイが何者であるかを知っているのは私だけなんですね」
「そう、そういうことです」
センセイは窓の外を指差した。覗き込んでみると、大学内を行き交う女子学生たちや先生たちの姿が見える。歩きながら談笑する学生たちも足早に教室に向かう先生たちも、人ならざる存在がいるとは誰も考えていないだろう。ましてや、この大学内を堂々と歩き、こうして私と会話しているなど、一体誰が想像できるのだろうか。
先生も、そうだろう。
自分の研究室で仕事をしているであろう先生も、まさかここに自分と全く同じ姿をした怪異がいるとは思っていない。もし先生とセンセイが鉢合わせたらどうなるのだろう? 死ぬ……とまではいかないが、驚愕のあまり混乱するのは目に見えている……いや、先生のことだから、案外すんなりと受け入れてしまうかもしれない。
──こういうの、本当にいるんですね。
なんだか、容易に想像できてしまった。先生とセンセイを会わせたい気もするが、やめておいた方が良い気もする。
「ワタシね」
不意に、センセイが私の方を見ながら口を開いた。
「アナタが気に入りました」
「なんででしょうか?」
「正体を見抜かれたのは、今回が初めてです。なので、ワタシの正体を見抜いたアナタが気に入りました」
「なるほど……?」
「何か奢ってあげましょう、売店のお菓子なんてどうでしょうか」
「はあ……」
自分の正体を見抜いたから気に入った、という理由らしくない理由を聞かされて、面食らってしまった。何かもらったとか、趣味が合ったとかなら理解できるが、正体を見抜かれたから、というのは理解し難い。人間の価値観に則って考えるなら、自分の正体を知りながら黙認してくれたとか、何かに協力してくれたから、の方がよっぽど分かりやすい。
いや、そもそも人間の価値観の中で考えるから良くないのだろう。相手は人間の姿を模倣する怪異だ。怪異には怪異の価値観がある、と思う。人間のそれとはかけ離れたものなのだろう。
「売店のチョコレートとラムネ、どっちにしましょう」
「じゃあ、ラムネにします」
怪異の価値観について考えているうちに、目の前の怪異にラムネ菓子を奢られることになった。
数ある菓子の中から何故チョコレートとラムネを選んだのか、何故先生の姿を模倣しているのか、何故私を気に入ったのか……。怪異の価値観について想像してみても、何も分からない。小説の登場人物の心情について想像するのは得意だが、怪異について考えるのはどうにもならない。
人間がそうであるように、怪異には怪異の事情や価値観があるのだろう。先生と同じ白い傘ではなく、あえて黒い傘を選んだのも、何か事情があるのだろう。
……どんな事情かは、全く分からないが。