. 雨の匂いがした。あの人の匂いだった。
「どうした?」
背後から包み込まれるように抱かれると、つま先にまで彼の声が響いた。
私は首を小さく横に振る。ドレッサーの上に広げた荷物は中途半端なままに散らばっている。何を持っていき、何を置いていくか……、そんな考えはすぐ霧散してしまう。
顔を上げて鏡を見る気にはなれなかった。目が合ってしまうかもしれないし、何より、今の私の顔を視界に入れたくなかった。
薬指の銀環を外そうとしていた私の手の上に、彼の大きな手が、乗せられる。指輪が、あるべき場所へとそっと戻されてゆくのを、私は他人事のように眺めていた。ムリナールは何も言わない。穏やかな力強い呼吸が、頭上にあるのを感じる。
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