. 雨の匂いがした。あの人の匂いだった。
「どうした?」
背後から包み込まれるように抱かれると、つま先にまで彼の声が響いた。
私は首を小さく横に振る。ドレッサーの上に広げた荷物は中途半端なままに散らばっている。何を持っていき、何を置いていくか……、そんな考えはすぐ霧散してしまう。
顔を上げて鏡を見る気にはなれなかった。目が合ってしまうかもしれないし、何より、今の私の顔を視界に入れたくなかった。
薬指の銀環を外そうとしていた私の手の上に、彼の大きな手が、乗せられる。指輪が、あるべき場所へとそっと戻されてゆくのを、私は他人事のように眺めていた。ムリナールは何も言わない。穏やかな力強い呼吸が、頭上にあるのを感じる。
私は数列を覚えるのが苦手だった。生活に不便することは無いが、例えば記念日の記憶は曖昧である。ムリナールの誕生日は確か十二月のはじめ、入籍したのは四月のなかば、と言ったように。指輪の内側に結婚記念日の刻印があると思い出せたのは、全くの偶然であった。手を動かす単調な作業の中で、思考が次々に移ろいてゆくのは、よくあることだろう。
「そろそろ出発しよう」
頷くとムリナールが離れていった。体がずいぶん火照ってしまっている。汗くさくないだろうか。
指輪のついた手を胸元に抱える。
「忘れ物のないようにな」
私が振り向く頃には、ムリナールは部屋からいなくなっていた。残り香が尾を引いている。雨の匂い。それがあのひとの匂い。
3.
続く