リー先生と喫茶店で雨宿りする話 激しく音を立て、雨粒が窓を打ち付けている。騒々しい外界には、つい先程までドクターたちがそうしていたように、屋根を求めて逃げ惑う人々があった。
軒先で、濡れた野良猫が身を震わせる。
ドクターの向かいに掛けた龍の男────リーは、それを気に留めてはいなかった。コーヒーか煙かを口に含み、彼はだいぶよれてしまったペーパーバックの頁をめくる。何回もそれを繰り返しているうちに、彼らが喫茶店に入ってから二十分が経とうとしていた。
「やみそうにないな」
「そうですねぇ」
通り雨に特有の濡れた土の匂いがする。
苛立ちの象徴とも思えたあの雨音も、落ち着ける空間から聞けば心地よく耳に残るのだから不思議だ。
ドクターは欠伸を噛み殺す。こうして走ったのは久々である。不快感と心地よい疲労が同時に感じられた。フードは水を吸って大分重くなっていたが、めんどうがって脱がなかった。腕を握っても冷たいのだか熱いのだかよくわからない。風邪を引かないと良いが。
一方、リーは外套を背もたれにかけている。外套は肩口から後身頃の一面を黒く濡らしている。
リーはタバコの灰を落とす。もう先は長くないのだろう、フィルタが焦げかけている。
彼は流れるような所作で次のタバコを出そうと胸ポケットを漁った。すると、カラのしわくちゃのソフトパッケージが手に収まった。本から目を離さず、彼は背後にかかっていたあの外套のポケットをまさぐるが、間も無く本を閉じて、茫然とこちらを見つめてくる。あれで最後の一本だったようだ。
ドクターは彼の真似をして、フードのポケットに手を突っ込んだ。何かの箱があって、てらてらしたフィルムに包装されている。タバコだろうか。
それを取り出し、机の上で滑らせる。
「なんか、あった。あげるよ」
「恩に着ます、ひとつ貸しですね」
「どうも」
リーはそれを手に取った。ドクターは無為に寄越したそのタバコの銘柄を見て、思わず吹き出しそうになったが、なんとか堪えた。
『ココアシガレット』。購買に置いてある菓子類のひとつで、主に喫煙者や、それに憧れる子供が手にする。俗に言う駄菓子である。どこか郷愁を感じるパッケージには、「本商品は喫煙を勧めるものでは無い」と記されている。
「わざとじゃない、知らなかったんだ」
探偵の前で、このようなセリフを吐くことになろうとは。「犯人はみーんなそう言うんですよ」────などと言われてしまってはかなわない。
しかし、構えたドクターの前にあったのは、しょぼくれた龍の小さな肩であった。
「はあ、そですね……」
「ごめんって、そう落ち込むなよ」
「落ち込んでませんよ、ええ……」
リーは菓子をタバコが収まっていた胸ポケットに仕舞う。店内は持ち込み飲食禁止だ。
「せっかく堂々と吸えるのに。ツキがないね」
「その通り。今朝の卦象はひどいもんだったでしょう?」
「確かに。先生の占いはよく当たる」
「褒めたってなーんにも出ませんよ」
「慰めてるんだよ」
ドクターは外を見るふりをして、窓ガラスに映るリーの横顔を観察する。張り付いた飛沫が彼の姿を曖昧にしている。界面に浮いた琥珀色の瞳もまた、その輪郭を失っている。
雫がガラスの上を這う。
目を凝らしてみると、彼に見つめ返されているのが分かった。ドクター顔をそらし、逃れるようにリーの方を向いたが、こちらでもやはり視線があったので、諦めて手元のコーヒーに視線を落とした。
黒い水面は波一つなく穏やかだ。
「にしても、困った」ドクターは言った。
「なにか予定がお有りで?」
「いや……」
「それなら、ゆっくりしていきましょうよ。曰く、急なれば則ち────」
「せっかくの休日なんだよ」
「────ええ。せっかくの休日を、あなたとこうして有意義に過ごせている。いいことじゃあありませんか」
リーが本を閉じた。ちょうどその頃、給仕が軽食を持ってきた。
「お待たせしました」
丸いスコーンであった。リーの頼んだものらしい。焼いてからしばらく経っているのか、すこししなびている。白い皿の端にはアプリコットジャムが乱雑に添えられている。
給仕はトレーからもう一つ別のものを取って、リーの手元に置いた。それはタバコであった。彼がよく吸っている銘柄と同じパッケージだ。
「それから、あなたにはこちらを。マスターからです……」
リーは箱を取ろうとする。給仕はそれより早く箱を拾い上げ、封の切ってあるそれから、一本だけを出した。リーはタバコを受け取り、口に咥える。
給仕が安っぽいライターに火をつけて寄越す。リーは顔を寄せ、風も吹いていないのに火の周りを手で覆って、烟らせた。
「ありがとうございます」
給仕はうなずき、タバコを置いて去っていった。
「いります?」リーは皿をドクターの方へ差し出した。
「うん。いただきます」
ドクターはスコーンに手を付けた。円柱状のスコーンの多くは、上下半分に割ることができる。それをまた一口大に割って、ジャムを乗せて食べるというのが、正しいマナーだそうだ。
例に習い、そのように割った。外はいくらか湿気っていたが、中はまだあたたかく、ふんわりしている。甘い匂いがする。
「それにしても、コーヒーにスコーンか」
「あなたのところにはヴィクトリア人もいるでしょう、このことは口外しないでくださいね」
「もちろん」
丸いスコーンには紅茶を合わせる、茶葉はどこのが良いとされる────、など、午後の紅茶につよいこだわりをもつヴィクトリア人は多い。もはや執心していると言っても良いだろう。とにかく、不用意に彼らを刺激しないことが肝心だ。
ドクターはスコーンを口に放り込む。シンプルで飾り気ない味わいだ。質素と言い換えてもいい。決して高級な風ではないが、それが却って居心地良く感じる。
それはそれとして、コーヒーとスコーンの組み合わせも悪くない。互いに調和が取れていると感じる。
各々が休息を邪魔しない程度に主張しているのだ。やや苦みが強いと思われるコーヒー、小麦の味が素朴に香るスコーン、変化や感動といった食文化から対極にある二つが、穏やかに心と小腹を満たす。
不意に、机の上に影が伸びる。見上げると、190 cmはあろうかという大柄な男が立っていた。真下からでは表情はよく伺えない。男はリーを見つめている。リーも彼を見つめている。
男は、隣の机から椅子を引いてきて、そこに掛けた。そして彼はリーの手を取った。
「先生、ご無沙汰してます」男が口を開いた。
「ロンさん────、今はマスターと呼んだほうがよろしいですかな?」
「よしてください、水臭いじゃあありあせんか……。とにかく、会えてうれしいですよ」
「お久しぶりですね。あの子は、メイは元気ですか」
「ええ、おかげさまで」
どうやら彼はここの店主で、リーの知り合いらしかった。ザラック(にしてはかなり大柄だ)の素朴な中年男で、接客業にありがちな笑顔が貼り付いている。不躾にならないよう観察したが、すり減った拳や手のひらのマメを見るに、彼もまた訳アリのようだった。
二人は定型文のような挨拶や、近況報告を交わしている。龍門に来てからの仲で、お互い「よそ者」だった頃に親しくしたようだ。
店内のスピーカーから流れるジャズに耳を傾ける。
ドクターは不意に、リーが遠くに行ってしまったように錯覚した。打って変わって流れ始めた悲愴感のあるピアノ曲が疎外感を際立たせる。
「こちらさんは?」
男はやんわりとドクターを指した。ドクターは面を上げた。
「同僚ですよ」
「こんにちは。同僚です」ドクターは小さく頭を下げた。
「こんにちは。お疲れのようですね。龍門のスコールは初めてですか?」
「ええ、まあ。慣れてはいません」
「いくらでも休んでいってください。先生のご友人をおもてなしできるとは、いやはや私も運がいい」
「ロンさん、あんまりウチのを困らせんでください」
「これは、すみません、若いのは久々に見たんで」
「おっと、おれもまだまだ若いと思いますがねぇ。どうです? ドクター」
「現役だろう、リーおじさん」
横からそう言うと、店主らしき男は闊達に笑った。とても大きな声だったので、周りに座っていた客が振り向いた。
ドクターは苦笑いを返した。
しばらく談話は続いた。ドクターは話に交じることができなかったので、聞いているていをしながら喫茶店の中を見渡していた。
木目調の内装は小綺麗で落ち着いている。十人が見て十人が喫茶店だと答えられるような、ごく普遍的な様相である。雨脚のせいか客足はまばらだ。いくらかいる人も、自分らと同じように雨宿りをしているようだった。
スコールは通り過ぎる気配がない。それどころか来た頃よりずっと強く降りしきっている。
コーヒーとタバコの香りにアスファルトの濡れた匂いが混じった。
リーの低い声が雨音に織り込まれる。
話の内容が頭中をするすると抜けていく。
「ロンファン! ちょっと空いてる!?」キッチンの奥から女性の声が聞こえた。
「はいはい! 今行く!
それじゃ、先生、私はこれで失礼いたします」
「ええ。お疲れ様です」
ドクターはとうにコーヒーを飲み終えてしまっていた。リーの大きなカップはまだ半分ほどしか減っていなかった。
灰皿に置かれたタバコが長い灰を身につけている。
「先生は顔が広いね」
「いやあ、ハハ……」
リーは困ったように笑う。ドクターは「放置されました」などと言い出しそうな雰囲気で、つんとそっぽを向いた。
リーが気にせず机の上の本に手をつけたので、躍起になってその上から手を重ねた。彼は不思議そうな目でこちらを見ている。
残念ながら、不貞腐れても効果はないようだ。この手合いの扱いに慣れているのだろう。
ドクターはそのまま本の背表紙に触れる。
『バビルサのジレンマ』と書いてあるはずだ。
不意に、その物語のことが思い出される。
「死を見つめる獣」
「はい?」
「鼻から牙を生やした獣だよ。牙は成長とともに円弧を描き、そして終いには目元に到達する。するとどうなる?」
訝しげな顔をされる。勝手ながら、続きを促されているのだと解釈しよう。
「牙が顔を突き破ってしまうんだ。獣は、その痛みに耐えきれず死んでしまう」
「……ほんとうの話ですかね?」
「いや、いくらかは違う。実際に刺さることはないそうだ。ただ、その獣は実在するし、彼が死を見つめているのも確かだろう」
「それが?」
「出てくるよね。その小説に」
「……ええ。そのとおりです」
「まだ途中?」
「もう読み終わる頃ですよ。いやぁ、よくご存知だ」
「私が買った本だからね」
「あれれ、本当ですか」
「ごめん、この間持って帰るの忘れてた」
ドクターは困ったように眉を下げて微笑んだ。そして、重ねていたリーの手をなんとはなしに握った。彼は一瞬固まった。
ドクターは何も言わずに指を絡ませる。彼の指は、自分のそれと比較してずっと太く、長かった。しかし無骨ではなく、手袋越しにも気品が感じられる。繊細でしなやかで、あけすけに言えば、妙な色気がある……。
革靴がフローリングを鳴らした。店員がコーヒーを持って周り始めていた。二人はすぐに手を解いた。
リーは動揺しているようだった。図らずして珍しいものが見られたことに、ドクターは満足した。
「追加はいりますか?」店員がにこやかな顔で訊いた。
「……おれは結構です」
「では、私は半分くらい」
空になっていたカップに黒く鮮やかな液体が注がれる。華やかな香りが湯気と共に広がり、思考にかかった雲を追いやる。
今、カップの半分は黒色に、残り半分は白色になった。
半分。
ところで、ここで言う半分とは、なにを指しているのだろう。
カップの容量が一意に定まるとして、その体積の半分だろうか。提供する量が決まっていて、その半分なのだろうか。あるいは、それは見かけ上の問題か。
なみなみのコーヒーで満たされたサーバーを傾けるとき、彼らの中にだけ「半分」が存在する。それはとても感覚的な存在のため、文章として説明しがたいが、しかし極めて精密なのだ。
死という概念はこれによく似ている。同じような疑問が浮かぶはずだ。
医療従事者は、患者の余命を感覚的に認知できるだろうか。仮にできるとして、その確からしさは?
「『明確な余命』は、人々にどんな影響を与える?」
リーはこの急な問いかけに、あごに手を当てて考え始めた。
さて、彼の懐にある小説、その物語の主人公は、ある日突然『余命を見る能力』を手にする。
対象は、足元に茂る雑草から、ディスプレイ越しの巨大なライオンにいたるまで、目に映る全ての生物に及ぶ。鏡を見れば、自分のものさえ把握できた。
十年。それが彼の残り時間であった。何らかの要因によって、きっかり十年後に命を落としてしまうらしいのだ。
最初、彼は能力を良いことに使おうと考えていた。例えば、健康そのもので順風満帆な、しかし明日には死んでしまうような人間に、遺書を書かせたり、能力で稼いだ金をどこぞへ寄付したり、────とにかく、善良で、素敵なことに。
ところが、数年が経ち、死が現実味を帯びてくるようになると、こう考えるようにもなった。
『自分が死んでいなくなった世界に、果たして価値はあるのだろうか? 善行が後世に語られるとして、それは一体幸せなのか?』
十年。その歳月は、命の保証期間でもあった。
彼は天啓を得たかのように、残りの命で悪辣の限りを尽くした。殺人、破壊行為、強姦、薬物、人身売買、思いつく全ての悪を為した。
彼の小さな世界は混沌に満ちていった。価値感がねじ曲がってゆく感覚は、喪失への恐れを和らげてくれた。
そして、タイムリミットが目前に迫り、彼は満を持して死を迎える。今際の際まで、その胸にはなんのわだかまりもない。十年という期間は、死を受け入れるに充分すぎたのだ。
「……明日世界が滅ぶとして、リンゴの苗を植えることに意味はありますかね?」リーは長考ののち口を開いた。
「ある」
「ええ、おれもそう思います。いつ死ぬかわかったくらいじゃ、おれたちはそんなに変われないですよ」
「そうかな? このお話は、あくまでフィクションに過ぎない?」
「多くの人にとって、そうでしょうね。みーんな、今を生きるので精一杯です。もし未来が見えたって、構う余裕なんかありゃしないですよ。
あなただって、今朝の天気予報は聞き流してしまったでしょう?
人は、ほとんどすべての行為に意味を見いだせるんですよ。雨に降られるとわかって街に出ますし、明日死ぬやつだって、リンゴの苗を植えるんです」
そう締めくくって、リーはコーヒーを飲み、ひと呼吸置いた。
雨足が強まる。冷えて湿った空気が部屋を満たしつつあった。
「あなたは、どう思います?」
「概ね同じ考えだけど……」
それが興味深く感じるようで、リーは耳をぴこぴこと震わせた。
「ただ、変わらないでいるのは、案外難しいと思うな。君もよく知っているだろう?
たしかに、心には芯のようなものがあるさ。ただそれは、観測しがたくて……、ほんの些細なことで姿を消してしまうんだ。
そのときは自分自身でさえ、見失ってしまうんだよ」
両手を机の上に置く。コーヒーは揺れ、円状の幾何学模様を描き、しばらく経って静止に収束する。
「命の終わりを前に、高潔であろうとする悪人がいる。同様に、全く自棄になる善人もいる。二つは均衡を保っているんだ。つまり、善悪は────」
「糾える縄の如く在る、と」
「────そう信じている。
いつ死ぬとわかったくらいじゃ変化しない、そういう人は確かに多いだろう。しかし彼らは縄の芯線なんだ。我関せずと言っていられなくなる。ぼうっとしていたら、撚りに取り込まれてしまうからね」
角砂糖一つ、フレッシュを少し入れる。黒と白はせめぎ合って、曖昧になり、やがて褐色に濁った。
「人々は混沌に巻き込まれる。それでも世界は回るだろう。私と君が、今こうして生きているように。
……なんていう答えは、いかがかな」
「あなたらしいですね」
「私?」
「ええ、とくに、示唆的なところが」
「ふふっ」
ドクターが笑うと、リーも含みがあるように微笑んだ。
ドクターは匙でコーヒーを混ぜながらリーに問う。
「明日死んでしまうとして、君は何を考える?」
「さて……」
リーは考えるときも目線を動かさない。悩むときも、嘘をつく時も。それは癖のようなものだろう。他人に見透かされないための。
「夕飯のこととか、ですかね」
「君らしいね」
「そうですか?」
「あまり語りたがらないところが、とくに」
「ええ、最近どうも喉の調子が悪くて、語るに語れないんですよ。いやぁ、残念無念」
「……どうすれば治るかなぁ」
「そうですね、アルコール消毒なんてどうでしょう? 今日はキレのいい辛口が効きそうです。いかかがですか、ドクター?」
「……まあ、考えておくよ。
ところで、雨がやんだみたいだけど」
「おれの心に移ったんですよ」
「舌は回るようだな。経過観察としよう」
リーはわざとらしく喉を鳴らした。
窓の外、街はにわかに動き出している。鳥が鳴き、雲の隙間から日が差す。思い出したかのように蒸し暑い空気が立ち込める。
「あなたは、明日消えてしまうなら、どんなことを考えます?」今度はリーは問うた。
「うーん」
脳裏によぎるのは、戦いに散っていったひとたちのことだ。身の竦むようなあの冷気、煮えたぎるような熱線と、肉が焦げる匂い。
自分の命が奪われていくとき、彼らは何を思ったのだろう。
死地に向かうとき、彼らは何を考えたのだろう。
ロドスの病床のことも思い出す。
目覚めてから随分多くの人を看取ってきた。いつか治ると信じて死んでしまった子供たち。憎しみの中で息絶えた大人たち。
理不尽な死。
それが生み出す、怒り、悲しみ、失意。
差別。
フードを一枚隔て、目の前にあるそれは、確かに牙を剥いているのだ。
あるいは、その牙は己のものかもしれなかった。円弧を描き、いつか自分を刺さんとする鋭利なカルシウム。眼窩を抉られる瞬間、私は何を思う?
「────夕飯はどうしようかな、なんて」
「……」
「私も良い酒のみたいな〜」
「最初からそう言えば、おれだって用意したんですがね」
「甲斐性なし」
「ええ、全くです。泣けますよねぇ」
「泣けませんよ」
「はは……」
二人は家路についた。
午後、日が傾き始めている頃だった。
リーは龍門の事務所に帰るはずだったが、結局、ドクターを見送りにロドスの中までついてきた。
心配だったそうだ。一人でも帰れる、通信機もある、とは言ったが、彼は聞き入れなかった。危なっかしくてしょうがない、と直接的には言わなかったが、彼がそう思っていることは雰囲気から察せられた。
今、二人は宿舎の入口に立っていた。沈みかけている夕日がリーの横顔を照らしている。
「じゃあ、行くね」
「ええ、さようなら」
変な挨拶だ。ドクターは自分で言いながら思った。
リーは背を向けて夕日の方へ歩き始めた。彼は吸い寄せられるように茜色に溶けてゆく。
気づけば、ドクターは彼の手を握っていた。リーは無言でこちらを見ている。
「ぁ、あの────」
ドクターはその手を離そうとして、出来なかった。リーに強く握りられていたからだ。彼の瞳には、訴えかけるような静かな激情が渦巻いている。眩い陽がそう錯覚させるのかもしれない。
「────また本を持ってくよ。君も、私のために用意していてくれないか」
「ええ、構いませんが……」
しかし、どうして? と、言葉に出さず彼は聞いた。
「本は、君よりも君のことを教えてくれるみたいだから」
リーは曖昧に微笑んで頷き、手を離した。そして今度こそ行ってしまった。
「またね!」
背中に声を投げる。彼は振り返らずひらひらと手を振った。