夜明け前の傅き 俺はハンドリムに手を掛けて、いつものように鉄の柵を潜り抜けた。石畳などなく、土は露出し、無数の「名残」が至る所に顔を覗かせているその場所は、車椅子で進むには不適切な場所だ。また区域内は緩やかな坂になっている。今の自分の過ごしかたにも多少は慣れてはきたが、一人ではあの巨木の下へ行くなど不可能と言ってよかった。
俺は花畑の途中で進むのをやめた。そして目を閉じ、深呼吸する。
すると間もなく「気配」を感じた。目を開けば、既に頭上は青ざめた血の空に変貌していた。呼ぶ者の声に応えた「感応する精神」は、俺の前へと静かに降り立って、俺を車椅子ごと抱きしめた。
眼前の存在に包まれたまま、俺はその痩せた巨躯に手を触れる。樹皮のように粗い肌は、けれど確かに温かい。その存在に「血」が流れているのだということを表している。だがそれは常に「流れ出ている」。巨躯のあらゆる箇所から。
貪る口にも見える無数の肋の側には、裂けて千切れたような皮膚の破片がぶら下がっている。苦痛を感じているように見えたことはないのだが、俺はそれを見るたびに少しの悲しさを感じていた。
「……」
俺は黙ったまま、その無秩序に突き出た肋に手を触れた。装束の革手袋が赤く濡れる。
——これも、「冒涜」の痕なのだろうか。人が上位者へ、敬うべき神へ働いた傲慢の。
俺は座したまま上体を眼前の存在へと寄せた。むせ返るような血の匂いに思考が揺らぎかける。大きく開いた歪な肋骨に舌を這わせれば、それを赤く濡らしていたものが口に入ってきた。
人のそれに似た鉄の味が口腔を満たしてゆく。
虚ろな白の骨に塗れたものを舌で拭い、飲み込み、再び舌で拭う。それを繰り返したところで、この傷跡が癒えるはずもない。けれど俺はそれを続けたし、眼前の存在も俺の行動を止めることはなかった。
枯れた長い指が俺の体をさする。顔を上げれば歪な貌が低く声を上げるのが聞こえ、そしてそのまま俺は両手に持ち上げられた。
目と鼻の先にまで迫った貌から赤い雫が伝っている。
やはり血は流れ続けている。
失い続けている。
……だから足りないんだよな、ずっと。
そう思って、俺は小さく苦笑した。すると眼前の存在が再び唸り声を上げ、俺をその貌に押し当てた。いつぞやの時のように。愛しい感触に、俺もまた相手を抱き返した。
「……もう少しだけ待ってくれ。きっともうすぐ、『夜明け』がやって来るはずだから」