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    らくがきとSSと進捗/R18含
    ゲーム8割/創作2割くらい
    ⚠️軽度の怪我・出血/子供化/ケモノ
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    Bloodborne
    自狩人の2周目の話。アイリーン、身を窶した男、ゲールマンの各イベントおよびDLCの内容を中心とした、作中世界観の自己解釈文章です
    ※月狩要素はほぼありませんが月狩前提です(2024/07/15)

    ##Bloodborne
    ##ゲーム
    ##SS

    嗣子の挽歌「……それは狩人の業さ。……あんたが背負うものでもない……、どうしようと、あんたの自由さね……」
     そう言った彼女の纏う烏羽の狩装束は、彼女自身から溢れた血ですっかり重く濡れていた。
    「……」
     俺は手の中に渡されたものに目を落とす。鴉を模った装飾品と、一つの「カレル文字」が刻まれた紙片。俺はそれをそのまま懐に仕舞い込み、再び彼女の姿を自分の目に捉え直した。
     
     ……かつて、自分は彼女と刃を交えた。
     最初の「獣狩りの夜」のことだ。
     俺は狩りを続ける中、ヤーナム市街で或る狩人と遭遇した。それがこの烏羽の狩人――アイリーンだった。
     まだ狩りや狩人というものについて知識の乏しかったその時の俺は、話の通じる先達の狩人が存在するという事実に助けられた。
     だから俺は、彼女と聖堂街で再会した時、彼女の忠告を素直に聞いたのだ。
     だがそれは、彼女を狩りに狂わせる最後のひと推しとなってしまったようだった。
     ヤーナムの空に赤い月が露わになったあと、俺は大聖堂の灯りが使えなくなっていることに気づいた。怪訝に思い、様子を見に行って……そして俺は、戦わざるを得なくなった。狩人狩りの果てに酔ってしまった、烏羽の狩人狩りと。
     
     ――〝あまねく狩人に死を、悪夢の終わりを〟。
     そうぶつぶつと虚ろな声で呟きながら、彼女は俺に容赦なく斬り掛かってきた。その時の俺は、見知った人間の豹変に狼狽して動きが鈍り、あっという間に彼女に首を斬られた。そしてそれ以降、「その夜」においては大聖堂に近づくことを避けた。
     だからこそこの「再びの夜」では彼女の警告を破り、古狩人ヘンリックとの戦いに加勢した。彼女が狩りに酔う可能性を減らすために。
     ――そのはず、だった。
     
    「……じゃあ、また」
     そう言うと俺は彼女の傍らから立ち上がった。
     きっとそうならないと分かっていたが、俺はその言葉を口にした。尊厳を守るためだ。彼女はきっと、今の自分の姿をこれ以上他者に晒したいとは思っていないだろうから。
     するとただ息を吐くかのような、けれど確かな安堵の笑いが微かに俺の耳に届いた。俺はそのまま振り返らず、聖堂の階段を下ってその場から立ち去った。
     夢に帰るなら大聖堂の灯りを使うほうが早かった。けれど俺はそれを使うことを避け、敢えて遠い灯りを目指して夢へと帰還した。
     
     ◆◆◆
     
    「――お帰りなさい、狩人様」
     夢へ帰ってくる。いつも通りに出迎えてくれた人形にただいまと返し、俺は工房の中へと入っていった。
     工房に備え付けられている椅子を借りて座り込む。流石に疲れた。夢に帰ってきたことで体の傷は既に癒えていたが、今回の件は思うところが多かった。
     しかし、こういった出来事はそんなに珍しいものでもなかった。それが俺の疲れを余計に重くさせた。
     ……ヤーナムで出会った人間は他にも幾らかいた。しかし俺が良かれと思って彼らにやったことは、大抵裏目に出るばかりだった。
     例えば、助けるつもりで聖堂街まで招いた「彼」についてもそうだ。
     禁域の森の外れにうずくまっていた、「身を窶した男」。俺は「前」の夜、彼をオドン教会へと招き入れた。
     周りに散らばる死体の、そして血溜まりの不穏さを感じ取っていながら、それでも彼は会話のできる存在だ、助けるべきだと――そう思った。
     そしてその結果は言うまでもない。
     命を奪われた人間は僅かだった、とはいえ人数の問題ではない。死は死だ。俺が避難者を殺したようなものであるし、俺が彼を再び血で汚させたも同然だった。
     そうして俺は「責任感」から彼へと刃を振るい、彼もまた激しく抵抗した。
     獣のそれに変貌した体躯を振りかざし、「死ね」「死ね」と幾度となく叫び続ける彼の姿はまさに恐ろしいものだったが、俺が茫然自失となりかけたのはそれが理由ではなかった。
     病の進行者は、確かに「獣」だ。理性を失い、瞳孔は蕩け、獰猛な叫び声を上げながら目の前の人間へと喰らいつく。
     しかしその罹患者を「獣」と断じ、躊躇いもなく、むしろ嬉々として狩ってゆく「狩人」。その血塗れの、慈悲も尊厳も持たない姿はまさに「獣」と呼ぶに相応しい――少なくとも、彼にとってはそうだったのだろう。そう思うに至る出来事があったのだ。
     あの彼は、教会の内情や古都ヤーナムの成り立ちに明るかったわけではないと思われた。しかし彼の言葉は「人」と「獣」の関係の核心を突いていたものだった。
     俺は彼を手にかけた後、湧き上がる絶望感と自己嫌悪に耐えられずその場で何度も嘔吐した。
     ……あの最期の言葉は、今も俺の耳から離れない。
     
     人の尊厳を守りたい、人らしく生きたいというありふれた願いは、けれどこのヤーナムにおいてはひどく叶え難いものだった。
     人であるとは何だろうか。狩人であるとは何だろうか。およそ簡単に答えが出るはずもないような疑問が、俺の頭の中をぐるぐると占拠する。
     ……そういえば、先ほど狩人狩りの彼女から託されたものがあった。狩人証と共に渡された紙片――そこに刻まれたカレル文字。それのことを思い出した俺は、新しく得たカレル文字について確認するため、立ち上がって簡易祭壇のほうへと向かった。
     祭壇の上に置かれた秘文字の工房道具と、幾らかの書物。それらを頼りに、その文字が宿す力が何かを確かめる。もっともその文字は――
     
    「……『狩り』……、か」
     
     決して忘れられないくらいに脳裏に刻まれたものと酷似していたのだが。
     託されたそれは、「狩り」というカレル文字だった。さもありなん、ここまで形が近いのだ。調べるまでもなかった……と思考を止めそうになるものの、俺は祭壇の書物のページをめくって、カレル文字の情報を頭に入れていく。
     カレル文字には幾つかの種類がある。ビルゲンワースの学徒であったという筆記者カレルによって生み出されたものと、それ以外の者が見出したもの、そしてもう一つ……〝失文字〟に当てはめて生み出されたもの。
    「狩り」のカレル文字に似た印は、ヤーナムの至る所で――いや、ヤーナムだけでなく「遺跡」を含めたあらゆる場所で目にすることができる。もしかすると、「狩り」のカレル文字は〝失文字〟に当てはめて生み出されたものかもしれない。数こそ少ないが、他のカレル文字にも似たような例がある。
     脳裏に刻まれたあのルーン……「狩人の徴」もまた、無関係であろうはずがない。
    「狩人の徴」はルーンと呼ばれているが、性質としてはカレル文字に近い。これはおそらく、脳裏に焼き付けられることで力を発揮するものなのだろう。
     こんなものは、以前の俺の中にはなかったはずだ。以前……というのがいつだったかは朧げであるが、俺はそれに少し記憶を巡らせた。これまで幾度かそうしてきたように。
     そしてそれについて考える時、最終的に思い至るのは、決まってあの薄暗い診療所の幻夢だった。
     名も知らぬ医者……らしき老人に言われるまま行なった契約と、それに伴う最初の「血の医療」。その直後に見えた獣の幻夢は、既に掠れかけていたという前提を抜きにしても、己の過去の記憶の中にはないものだった。
     であれば――
    「…………」
     いや、所詮証拠などない。脳に刻まれた何かについて、明確な説明をもたらしてくれるものなどない。何せ現実の物体ではないのだから。そう思い、俺は目を閉じて首を振った。
     しかし、脳裏にいつの間にか刻まれていたルーンと、先ほど別れた烏羽の狩人から受け継いだカレル文字が酷似しているということに変わりはない。
    「狩り」のカレル文字は、狩人狩りの契約の印として用いられたようだった。アイリーンがそうあろうと己に課したように、「強く、血に酔わず、そして仲間への尊厳を忘れない」狩人たちに、証と共にひっそりと受け継がれる秘文字。きっとそれは、人として生まれたことに矜持を持ち、誇り高くあろうとした人々が導き出した、一つの在り方なのだろう。
     だが俺は、あれらの文字についてもう一つ思うところがあった。
     彼女の纏っていた装束は、おそらくヤーナムの文化で作られたものではない。その元になったのは「最初の狩人狩り」の纏った狩装束であろう。最初の狩人狩りがどのような人物であるかは断片的にしか分からなかったが、少なくとも俺が出会った烏羽の彼女は、ある誓いと祈りに従って狩りを行っていたようだった。
     ――〝仲間の遺志が、天に、或いは狩人の夢に届くように〟と。
     天。それは神、もしくは偉大なる創造主が住まうとされる場所。実際にそうであるかはともかく、そのように人々へ説く教えや宗教は決して珍しくない。
     彼女が元々ヤーナムの出であるのか、それとも異邦の者であるかは、あの少ない会話の中では察することができなかった。
     しかし、もし狩人狩りにとっての「天」が「夢」と同一視されるものであったとしたら――
     それはあのカレル文字と例のルーンがほとんど同じ形をしていることと、繋がりがあるのではないか。
     尊厳と共に仲間を狩り、そしてそれらを受け継いだ遺志を天に……「夢」に届けようとするその思いこそが――
     
     俺はそこまで想像したところで、或る人物のことがふと頭によぎってきた。
     その人物がそう名乗ったことはなかったが、俺の頭の中ではまるで関連が深い存在であるかのように連想された。
     そう、かつての夜明けの前。なだらかに広がる白い花畑で俺を待っていた、あの彼のことを。
     
    「…………ん……?」
     その時だ。遠くから、か細い声が聞こえるような気がした。怪訝に思った俺は工房の外へ出て、それが聞こえてくるのが何処かを探った。
     この場所はいつも静謐だ。「声」を発する存在など、そう多くはない。使者の声ではなかったように聞こえた。ましてや人形のそれでも。
     きょろきょろと視線を巡らせる。それはどうも、手入れの行き届いていない庭の隅から聞こえてきているようだった。
     無造作に土の露出した庭へと足を進めれば、そこには見知った者の姿があった。
    「……ゲールマン?」
     古びた車椅子に腰掛けた、一人の老狩人。
     俺は彼に声をかけようとしたが、それをやめた。
     
    「……、……レンス……、…………先生……」
     
     彼は、うなされているようだった。
     ゲールマンは後ろから近づいてきた俺に反応することはなく、ただぽつぽつと何かを呟いている。
    「…………誰か、助けてください……。……誰でもいい、解放、してください……」
     そのうわ言に、俺は僅かに目を見開いて息を呑んだ。
     ――確かに、眠ってはいる。けれどそこに安らかな寝息などなかった。
     うわ言は続いた。
    「……私は夢に疲れました……。もう、この夜に何も見えないのです……。……ああ、誰か……。ううう、ああ……」
     苦しげな、切実な悲痛さを帯びたその言葉の一つ一つに、俺はいたたまれない気分になった。
     何も、何も言えない。
     ただ黙って、拳を僅かに握り締める。
     
     ……どう取り繕おうが、此処は所詮「悪夢」だった。
     俺は彼がこの夢で何をし続けてきたかを知っている。そして彼がかつて何を願い、何を為し、そしてその果てに何が起きたのか――全てではなくとも、それらについても幾ばくかは想像したこともあった。
     彼は、彼という精神は、終わらない夜に縛られてうなされ続けている。彼にとってのこの場所は、明けない狩りの夜は「悪夢」なのだ。彼はもうこの延々と続く悪夢を望んでいない。
     まして、こうしてうなされるほどの苦しみを秘してきた彼にとってはなおさら。
     
    「……、うぅ……、ぐ…………ぅっ……」
     うわ言のような、すすり泣くような声はまだ続いていた。俺はついに見かねて彼の車椅子へと歩み寄った。
    「――ゲールマン、俺だ」
     彼の肩に触れ、名を呼んでみる。しかし彼は目を覚まさない。深く囚われている。俺は微かな焦りを覚え、少しだけ彼の肩を持つ手に力を込めた。
    「……っ、ゲールマン……、ゲールマン!」
    「……ッ‼︎」
     すると、はっ、と息を呑む音と共にゲールマンの目が見開かれた。蒼白の顔が浅い呼吸をしていたが、しばらくすると彼は自分の肩に触れているものに気づいたのか俺のほうへと振り返った。
    「……あ、あ…………。…………君か……」
     深い皺の中にある双眸そうぼうが震えている。それが恐怖によるものなのか安堵によるものなのかは判断できなかった。無理に起こしてしまったから苦痛を与えてしまったのかもしれない。だが俺はそれ以上何もせず彼を見ていることができなかった。
    「……いや、その……。眠っていたところすまない。久しぶりに姿が見えたから、話がしたいと思っただけなんだ」
     すらすらと口から出る出まかせに、俺は申し訳なさを覚えた。こんな取り繕いなど見透かされるだろうとは思いながら、俺は小さく彼に笑いかける。
    「…………、そう……、かね。……まあ、君がそう言うなら構わない。私に答えられることであれば何なりと」
     そんな俺を見てか、彼の顔も少し緩む。俺のように取り繕っているのか、それとも少し落ち着きを取り戻したのか。いずれにせよ、彼は普段の彼のような声色に戻りつつあった。
     俺は車椅子の横に立ち、ゲールマンの顔を見やった。
    「なあ、ゲールマン。人形の話によれば、ここには今までたくさんの狩人がやって来たらしいな」
     俺の言葉に、彼が軽く頷く。俺は言葉を続けた。
    「たくさんの墓もある。皆、狩人として狩りを続け、……そして『狩人としての責務』を果たしていったのか?」
    「……そうとも言えるし、そうでないとも言えるな」
     穏やかな低い声が、俺に答えを返す。
    「狩人は獣を狩る。それが『正しい』からであるし、私が彼らにそう勧めたからだ。……だが君も、もう何度も見てきたのではないかね。狩人たちの苦悩を、その最期を」
    「……っ」
     彼のその言葉に、俺は少し言葉を詰まらせた。心当たりがありすぎる。まさについ先ほどの聖堂街の出来事が、俺の脳裏に蘇る。
    「狩人たらんとし続けることは、本当はとても難しいのだよ。いつしか『人』を呑み込んでしまうのだ。狩りが、そして血が……、もしくは――――」
     そう言いかけた彼に、俺は直感的に思った――その言葉の続きを知っている、と。けれど俺は黙ったまま、彼が続きを口にするのを待った。
     しかし、ゲールマンがその続きを口にすることはなかった。代わりに彼は俺の顔を眺め、それから小さく笑みを見せた。
    「……いいや、何でもないさ。君はただ、獣を狩ればよいのだよ。今まで通りに。今度の夜は長いが、未だ心折れぬ君の元には……、きっと〝夜明け〟がやって来るはずだ」
     彼はそう言い、そして空を見上げた。煌々と静かに浮かぶ月は、初めてこの「夢」で見た時と何も変わりなくそこにあり続けている。
    「…………」
     俺はそんな彼を見ながら、少し思いを巡らせた。
     ――血の遺志の継承者。ゲールマン。
     ゲールマンのしていることは「弔い」であり、そして「狩り」だ。夢見るあらゆる狩人たちの意思を摘み取り、夢から覚めさせ、同時に半ば強制的に自らへと彼らの意志を継承するための。
     狩りは継承であり、継承は狩りであるがゆえに。
     だがそれが、結局「何」のためなのか――それを思うと、その彼の言葉を素直に受け入れることはできなかった。
     彼は確かにあのように言ったが、本当にこの「悪夢」から解き放たれるべきは、優しい目覚めが与えられるべきは――――
    「……ゲールマン」
     俺は傍らの老狩人を呼んだ。彼の顔が俺のほうへと向き直される。
    「ありがとう。……話が聞けてよかった」
     そう言うと彼も、それはなによりだ、と言って軽く笑みを見せた。俺は小さく頷き、そして踵を返して、彼の元から離れた。
     この「再びの夜」において、まだ行かなくてはならない場所があったことを思い出した。だから現実に戻り、そこを目指さなくてはならない。そこに行くための鍵は既にある。
     底はなく、そして全てを受け入れる、あの海のある場所へ。
     
     ◆◆◆
     
     うねる泥の波が固まったかのような異形の岩と、無秩序に融合した人工の建築物の残骸。それらの上を踏み締め、血の河を渡って歩みを進めてきた俺は、一つの建物にたどり着いて中に入った。使者の灯りのある小さな教会は薄暗かったが、少なくともすぐ側には危険はない。俺はしばしの休息を取ることにし、灯りの近くに腰を下ろした。
     やはりこの地は過酷だ。血に酔い、そして悪夢へと囚われた狩人たちは皆正気を失っており、人の形こそしているがもはや理性など持ち合わせていない。
     俺は既に一度此処に来たことがある。にもかかわらず、この「再びの夜」でもこの地を訪れた。一度最奥に辿り着いてなお、この「狩人の悪夢」の探索をする……など、ともすればおぞましいほどに残虐な行為と見る者もいるのかもしれない。
     人間の探究心は、純粋でも醜悪でもある。「興味本位」でこの悪夢を歩き回るのは、如何なる者であろうが冒涜者とみなされるだろう。だからこそ、あの牢の中で鐘を鳴らしていた教会の刺客も、時計塔で鍵を守り続けていた古狩人の彼女も、俺という「侵入者」に刃を向けたのだ。
     
     ……「初めての獣狩りの夜」において、俺はずっと、最後になるまで、「ただの病み人」でしかなかった。
     生存欲求にも、積極的なものとそうでないものがある。つまり、「生きたい」という思いと「死にたくない」という思い。
     その後者とよく似たもの。「獣になりたくない」という強い恐れ――獣化恐怖、とでも呼ぶべきだろうか。
     最初の夜において最も強く俺を突き動かしていたのは、その恐怖心だった。
     俺は常に、自分が獣になることに怯えていた。
     だが俺はヤーナムで獣を狩ってゆく中で、或ることに気づいた。人ならぬ知識――啓蒙を己の中に蓄積させるたび、それに伴って自分の中の獣性が鎮まってゆくことに。
     血を浴びた時の、自己矛盾を孕んだ昏い高揚感。啓蒙を得た時、あれがほんの僅かに鎮まるような心地を覚え始めたのだ。
    「もしや、『獣の病』に打ち克つ方法が本当にあるのではないか」……そう考えた俺は、それから人ならぬ知識をただひたすらに集めるようになった。
     ……上位者に憧れたわけではない。ましてや、それになりたいなどと。俺はただ、獣になりたくなかった。「人」でありたかっただけなのだ。
     だからこそ俺は、その尋常ならざる「智慧」に関わるものを貪欲に集め続けた。そしてあの得体の知れない上位者の赤子たちの一部でさえも、何の躊躇いもなく手の中で砕いたのだが――
     その結果、俺はこうして再びの夜を駆ける羽目になった。夜の終わりに見出した、ようやくの「救い」。それを自分で壊さざるを得なくなったせいで。
     ……ともかく。最初の夜において俺がこの悪夢を踏破したのも、ある意味ではその「恐怖」の延長だったのかもしれない。
     狩人は「獣」となるしかないのか。何故この悪夢には、深く酔って心を失った者ばかりが飲み込まれているのか。
     怖いもの見たさという、「興味本意」の中でも滑稽ですらある感情こそが、俺に悪夢の最奥まで進む力を与えてしまったのかもしれない。
     ――ああ、だからこそ、今度はそのような冒涜をしたくはなかった。結局、やっていることは同じでしかないのかもしれなかったが――少なくとも俺が再び此処に来た理由は、恐怖と興味本位の冒涜のためではないつもりだった。
     
     手持ちの道具や仕掛け武器を確認する。不足や激しい損傷はまだないようだった。まだ戦い続けられる。
     俺が次に対峙しなくてはならない存在は、今いる場所からすぐ近くの建物の中にいるはずだ。終わらない暗闇の中に、自分一人のよすがを――導きの光を見出し、心折れぬ「狩人」であろうとした彼が。
     そしてその先も、まだ続いている。回りくどく隠された教会の実験棟跡地には、狂乱し絶叫し、ただ苦痛から逃れたい一心で暴れる患者たちが。
     虚ろに咲く花々の庭には、捨てられた「上位者のなりそこない」たちが。
     そして古い狩人たちの罪を秘匿し、これ以上の暴虐から無辜の民の村を守ろうと誓う、一人の囚われた狩人が。
     まだ何も終わっていない。それに、私欲で〝時を繰り返した〟俺もまた、きっと罪人に違いない。此処は本来、二度も来るべき場所でないのだから。
     ――立ち止まっている場合ではない。
     俺は短い休息を終え、小さな教会から外に出た。
     曇った空で淡く金色に光る月を見上げる。それは仄黒い靄に包まれており、そして輪郭は崩れている。
     まるで、血に酔った狩人の瞳のように。
     
     ◆◆◆
     
     降りしきる冷たい雨が、血に濡れた俺の体を冷やし始める。
     俺は白く霞んだ目の前の村へ向かって、ゆっくりと歩き出した。視界は悪く、足場も水に浸かっている。慎重に進まなくてはならない。
     浅瀬の道の所々には、巻貝のようなものが積み重ねられた何かが幾つもある。それはきっと、単なる飾りなどではなかった。それを作る必要がある出来事が、かつて此処で起きたことを示しているのかもしれない。
     俺は歩みを進めながら、一度だけ背後を振り返った。高く登った先にあったと思っていたはずの時計塔は、しかし深く水面に沈んでいる。かなりの大きさゆえに、水面から出ている部分もなお高くそびえてはいたが、俺が出口として利用した場所はどう考えても本来の出入り口ではない。
     星輪樹の庭から見える光景とも、かなりずれているように感じる。あの場所からは、きらきらと淡く瞬く海が下層に広がっているのが確認できる。漁村があるべき方面にはそれらしいものが見えない。むしろあの巨大な星見時計を区切りとして、全く別の空間に接続されているようにも思える。
     悪夢において、現実とは異なる構造の地が広がっていることはごく普通ではあるが、それにしてもこの「狩人の悪夢」は一際不可思議な作りをしていた。
     俺はしばらく時計塔を眺めたあと、再び前へと向き直った。そして、また一歩一歩進んでゆく。
     不必要な戦いを避けるため、俺はその寂れた村を走り抜けた。残された漁村の民たちが、侵入者――いや、「狩人」の存在を認めた瞬間に容赦なく襲いかかってくるというのもあったが、俺がそうした理由はそれではなかった。俺は彼らに刃を振るいたくはなかった。……所詮独りよがりな傲慢でしかないのかもしれなかったが。
     だが、一度は通った道だ。安全地帯がどこであるか、そして目指すべきがどこであるかはおおよそ頭に入っている。そこに駆け込めば済む話だ。
     攻撃をかいくぐり、濁った浅瀬で構成された地面を蹴って進む中、俺はこの村に刻まれた深い傷跡を感じ取ることができた。以前来た時は憎悪から生き延びるのに精一杯で感傷に耽る暇もなかったが、改めて見ると目を背けたくなるほどの光景が広がっている。
     道の外れにぶら下げられた首の数々。
     首のない死体の山に、嘆きの祈りを捧げる者。
     脆く腐食した家屋の奥から微かに聞こえる、深い呪詛の呟き。
     狩人だったであろう死体を、形が残らなくなってもなお鉈で叩き続ける者。
     彼らの憎しみは、恨みは、決して晴れることはない。俺一人ができることなどごく限られているし、俺が成そうとしていることを成したとして、彼らに俺の考えが伝わることもないだろう。
     俺は所詮部外者でしかなく、そして狩人であるしか――「自覚なき信徒」であることしかできないのだから。
     そうして俺は何とか漁村民の攻撃をかわし切り、灯台脇の小屋までたどり着いた。流石に息はすっかり切れてしまい、俺は近くの岩陰に身を潜めて息を整えた。
    「……ッ、はあ、……」
     膝に手を置き、肩で息をしながら、ふと岩陰の先の崖へと目を向ける。そこには小さな墓石があり、そしてその側には一輪の星輪草が供えられていた。
    「……、これは……」
     俺はその墓石のほうへと近づいてゆき、そしてそれらをじっと見た。以前来た時は気づいていなかった。必死に逃げ惑ったことによる疲労、そして徐々に聞こえ始めた鐘の音。それらのせいで、周りに注意を払う余裕がなかったのだろう。
     供えられた星輪草は、時計塔の巨大な星見盤の側にひっそりと置かれていたものとよく似ていた。
     墓のある崖のはるか下には、何かが浜辺に横たわっているのが朧げに見えた。白く、巨大な、人ではないものの亡骸が。
     この場所に花を手向けた誰かは、冥福の祈りを捧げたのかもしれない――この場所から見えるあの亡骸へと。
    「…………」
     底なき海と共にあった上位者・ゴース。遠い浜辺にその身を横たえた「彼女」を見つめながら、俺はふと、或る男の言葉を頭に甦らせた。
     悪夢の主、ミコラーシュだ。
     
     ――〝ああ、ゴース、或いはゴスム。我らの祈りが聞こえぬか〟。
     
     ミコラーシュはゴースに呼びかけ続けていた。それを思い出すたび、俺はどこか奇妙な違和感を覚えていた。
     そう、彼はゴースを呼んでいた。メルゴーではなく、そしてあの「月」の存在でもなく。
     ゴースは狩人たちに殺された。ミコラーシュが、メンシス学派が求めた上位者は既に生きていない。悪夢の中の時間の流れはおそらくひどく歪んでおり、現実とは異なる流れ方をしているだろうが――それでも、彼の祈りがゴースに届くはずがなかったことは分かる。
     それだけではない。漁村の民は、遺された者たちは、皆狩人を憎んでいる。忌まわしい血狂いとなった冒涜者狩人どもを自らの悪夢に閉じ込め、永遠に終わらない狩りをさせ続ける呪いを生み出すほど強く。
     メンシスは瞳を求めた。だがあのゆりかごの回廊で叫び続けていたミコラーシュの言葉を鑑みると、彼らは「望むもの」を得られてはいなかったのではないかと思われた。
     あの悪夢の中で邂逅した、あの巨大な脳と目玉だけの上位者が、それを教えてくれた。
     メンシスは確かに悪夢へといざなわれた。彼らを望む悪夢に。そして瞳に値するもの――すなわち「メンシスの脳みそ」を得たのだろう。
     しかし、メンシスの悪夢の中にある「脳みそ」は、瞳こそ持っていたがそれは完全に出来損ないであったようだ。
     俺が生きているヒモを手にした時に覚えた、形容し難い違和感の正体はそれだろう。あれはへその瞳のひもになり損なったへその緒だったのかもしれない。
     だからこそ、ミコラーシュは悪夢にたどり着いた後もなお祈り続けていたのではないか――
     
     湿った風と冷たい雨に打たれながら、俺は彼の言葉をさらに反芻する。過去の経験の記憶と、遠く眼下で横たわっている偉大なものの亡骸が、俺の思考を巡らせる。
     彼はこうも述べていた。
     ――〝白痴のロマにそうしたように、我らに瞳を授けたまえ〟。
     ロマというと、あの月下の湖に隠れるように存在していた、巨大な白い蜘蛛を指すはずだ。では、ロマという者が真実ゴースから瞳を与えられたとして、それが叶ったのは何故なのか。
     これも、所詮推測でしかない。だがロマがどのような力を持っていたか、ロマが倒れた時に起きたことは何か、それらの事実は幾らかの仮説を提示しうる。
     そう、例えば〝白痴〟という能力を、ゴースがロマに行使させるため――といったような。
     ここで言う〝白痴〟は、すなわち「秘匿」をなす力のことだ。
     ロマの持つその能力は絶大だ。あらゆる儀式を、上位者に繋がる神秘を、そして「人と獣は同じ存在である」という真実を。それらを曇らせ、覆い隠し――平凡で安らかな、何も見えていない世界を見せることができる。
     赤い月がもたらす人と獣との境界の揺らぎを、強制的に「起きていなかったかのように」取り繕うことができる。
     そうすることで、人々は偽りの安心を得ることができる。蒙昧であり続けることができる。自分たちの内には、「望まれぬ獣」など在りはしないのだ、と。
     それはつまり、「獣」の……ひいては「狩人」の発生を抑え込むことすらも可能と言えるのかもしれない。
     ……故に、ゴースは。
     
     俺は崖ぎわの木の柵から手を離し、砂浜を見ることをやめた。最終的には、俺はあそこに辿り着かなくてはならない。ただこうして眺めていたところで為せることなど何もない。
     俺は踵を返し、灯台脇にあるボロボロのあばら屋へと歩みを進める。そこからは人らしきものの、今にも消えてしまいそうな呼吸の音が聞こえる。おそらくは「やつし」であったという彼だろう。
    「前」の夜、俺は彼の最期を看た。……だから今度こそその結末が避けられないかとも考え、手を尽くしてはみたのだが、どうも上手くいかなかったらしい。彼は「やつし」であるがゆえに、この悪夢に隠された秘密を追い求めざるを得なかったのだろう。俺は自分に関わりを持った人間を救うことに向いていないのかもしれない。
    「……」
     微かな呼吸の音に、俺はまた少し心中を澱ませた。
     この最期は彼の自業自得なのだ、と切り捨てることも間違ってはいなかっただろうが、それを言えば俺も同罪だ。とやかく言う権利などない。それに人が、命が死にゆく瞬間を見ることは明るい気分になるものではない。
     あばら屋に入り、そしてその陰にうつ伏せている古狩人の元へと膝を折る。
     すると彼が弱々しく顔を上げ、俺に手を伸ばそうとしてきた。
    「………ああ、……あんた……。……どうやら俺は、しくじったらしい……――」
     
     ◆◆◆
     
     甲高い悲鳴を上げ、老いさらばえた上位者はその身を浜辺へと倒れ込ませた。雨と波で水分を含んだ砂が、落ちてきた痩躯を受け止めてずしゃりと音を立てた。痩躯はまもなく弾けて霧散し、跡形もなく消え去っていった。
    「……ッ、……」
     俺は息を切らしながら、その上位者が消えてゆくさまを見届けた。既に満身創痍だ。水銀弾も輸血液も僅かしか残っていない。だが何とか勝利することができた。断ち切ることが、できたはずだ。
     雨と共に黒い雫が一帯に降り注ぐ。あの存在の血とも、それとも悪夢の霧がもたらす雫ともつかないそれは、俺の身体や地面に降り注いだあとに何も残さず消え去った。
     俺はゴースの亡骸に目をくれた。するとまもなく、亡骸の白い腹の辺りから黒い霧のようなものが音もなく姿を現した。俺はそれに近づき、しばしの間それを観察した。
     黒い霧のようなものは、どこか人に似た形をなしているようにも見える。おそらく、これこそが「赤子」――冒涜の果てに殺された母から奪われた「赤子」に違いなかった。
     実体はない。手を伸ばしても触れるものはない。それの正しい器だったものはもはやこの悪夢の中には存在しないのだろう。ただ魂だけが、縛られていた。あの老いた遺子の「身体」と一つに混ざり合って。
     暗く曇った雨空を見上げる。灰色の霧に包まれて濁った月はそこにあるままで、そして蕩けた瞳のように虚ろに光り続けている。
     ――ここで行うべきことは、あと一つだけだ。
     俺は右手に握った仕掛け武器を振り、変形させた。それはバチンという無骨な金属音と共に長く伸び、小さく水滴を散らせた。
     眼前の黒い霧へと切先を向ける。その場から動かぬものに刃を向けることに僅かな抵抗を覚えたが――俺はそのまま手の中の獲物をその黒い霧へと刺し貫かせた。
     ざしゅ、という音と共に、その貫かれた黒い霧が一気に辺りに広がった。朧げな人型をしていた霧の塊は、ふらりと前へと崩れたかと思うと音もなく消えていった。
     辺りに広がった黒い霧はゆっくりと漂い、そして海のあるほうへと流れていった。俺もそれを目で追い、身体を返す。その先に広がる空からは、あの蕩けた月が消え去っていた。
     何処かからか、声が聞こえるような気がした。
     
     ――〝ああ、ゴースの赤子が、海に還る〟。
     ――〝呪いと海に底は無く、故にすべてを受け容れる〟。
     
     ゴースの亡骸から離れていったものを見送りながら、俺はしばらく佇んだ。黒い霧は完全に海へと溶けて消えていった。それと共に、ずっと止むことがなかった雨が弱まってゆく。垂れ込めた雨雲が明るさを帯び、微睡むような淡い霧の空模様へと変わっていった。
     俺は再びゴースのほうへと向き直り、そしてその場に膝をついた。決して動くことのない偉大なるものの聖体に向け、目を閉じて首を垂れる。
     ――悪夢は断ち切られた。しかし、呪いが消えたわけではない。人々が、狩人たちが行なった冒涜の過去が消えたわけでも。
     きっとこの場所は、「狩人」が生まれ続ける限り、きっと存在し続けるのだろう。
     ああ、だからこそ。
     苦しめた者たちの代わりに祈りを。
     蹂躙された無辜の者たちへの冥福を。
     そして、「これからも狩人であろうとする」自分自身の咎の謝罪を。
     
     しばしの黙祷ののち、俺は立ち上がった。そして一つため息をつく。
     もう、戻らなくてはならない。あの「夢」の元へと。
     もう一度だけ、空と海を見やる。淡い霧に包まれた空と、底なく広がる灰色の海は、少なくとも今だけは、穏やかであるように見えた。
     
     ◆◆◆
     
     ゆりかごの高楼の、その最も高い場所。ぶわりと舞い散った黒い羽根は、空に輝く巨大な月に一瞬だけ影を落とした。
     ずっと聞こえ続けていた赤子の泣き声が、次第に落ち着きを取り戻してゆく。安らかに眠りにつくように、小さく、穏やかな呼吸へと変わってゆく。そしてそれはとうとう聞こえなくなり、高楼の中央にあった空っぽの乳母車から「気配」が消えた。
     俺はぱたりと横倒しになった乳母車に近づいた。やはりそこには何の姿もなかったが、渦を巻くように丸くなった物体が薄く汚れた絹に包まれていた。俺はそれを拾い上げ、そして丁寧に包み直してから自分の道具入れの中へと仕舞い込んだ。
     ――これは「触媒」だ。夜明けは近い。だからこそ、これを持っておく必要がある。そう、手にしておくだけでいい。それ以上のことをこの小さなひもにする気はなかった。その必要はもはやなかったから。
     乳母車の元から振り返ってみれば、そこには灯りが現れていた。歩み寄って手を伸ばし、パチンと火を灯す。そうすれば、幾度となく俺を導いてきた馴染みの使者たちが灯りの側に姿を見せた。
     この淡い導きの火を灯すのも、これで最後なのかもしれない。
     俺はそんなことを思いながら、俺はいつも通りに灯りへと手を翳した。すぐに視界が暗転する。意識は暗闇に飲み込まれ、揺蕩い、一度途切れたあと――
     ふっと俄かに明るさを取り戻した。
     よく見慣れた風景。「狩人の夢」に帰ってきた。
    「――――……」
     夢の中の工房は既に炎に包まれていた。そしてその前には、いつもと変わらぬかのように人形が佇んでいる。
    「――狩人様、お待ちしておりました」
     彼女は俺の姿を認めると、微かに目を細めてそう言った。俺は彼女の元へと歩み寄る。
    「間もなく夜明け……、夜と夢の終わりですね」
     淡い翡翠色の彼女の瞳の中に、俺の姿が映り込んでいるのが見えた。彼女はまっすぐ俺を見据えていた。「前」の夜明け、俺に力を貸してくれた時と同じように。
     俺は彼女の言葉に頷き、そして目の前のものを見上げた。
     ごうごうと燃え盛る工房の光景に、俺は小さく息を呑む。激しい炎。これもまた一度経験したはずのものではあったが、改めて見てもその勢いには少し気圧されてしまう。けれど、これは工房を壊してしまうこともないし、俺を焼き尽くすこともない。
     これが起きる原因には見当がつかないが、強いてあげるならば、ようやく訪れようとしている「夜明け」の先触れ、或いは――この「夢」に永く捉え続けられてきた彼の、心情の片鱗の表れであるのかもしれない。
    「……人形」
     眼前の彼女を呼べば、その無機質な両目が瞬いた。彼女はいつも、いつ何時も変わらないでここにいる。それには何度も助けられた。
    「人形、君は――……」
    「狩人様」
     言いかけた俺の言葉を、彼女が遮る。こういったことは今までなかったので、俺は少し驚いて瞬きをした。けれど俺を遮った人形の声色には悪意などは感じられず、ただ穏やかなものだった。
     人形が再び瞬きをし、そしてその口がゆっくりと開かれた。
    「……大樹の下で、ゲールマン様がお待ちのはずです」
    「――……」
     その言葉に、先ほど言いかけた問いが自分の中でするすると溶けてゆくのを感じた。聞き覚えがあるその言葉は、けれど今まで出会ったあらゆる人々のそれとは全く違うものが含まれていた。そう、まるで――それが〝特別な符牒〟であるかのように。
     彼女の目がゆったりと細められる。
    「――さあ、狩人様……」
     優しい声だった。いつか俺を送り出した、あの時と同じく。
     ああ、きっと、彼女は。彼女だけは、おそらく――
     俺は何も返さず、ただ彼女の目をもう一度だけ見やり、そして階段を上がっていった。工房で「支度」を始めるためだ。
     このあと何が起こるのかはもう分かっている。この再びの夜において、物事の流れが大きく変わることは決してなかった。運命は変わらない。だがそれでもまだ、自分に出来ることはある。それは今まで出会った狩人たちへの祈りであり、囚われ続けていた老狩人への手向けであり、そして何より――俺自身の「救い」のためだった。
     保管箱を漁りながら、俺は自分の腰に下げていた道具入れを覗き込んだ。そこはくるりと丸まった、生物の肉片にも似た「何か」が幾つか収まっている。先ほど拾ったばかりのものも含めて。
    「…………」
     俺はそれらを手に取ってしばらく眺め、そして古びた布切れで包み直した。それらに対して俺はもう何の用もなかったが、けれどぞんざいに扱いたくはなく、俺は布で包んだそれらを保管箱の隅へと仕舞い込んだ。
     代わりに俺は、古びた金属製の首飾りを取り出した。長い間箱の底で眠っていたそれが、外の炎に照らされて赤い光を帯びる。俺はそれを自らの首に掛け、そしてスカーフの中に入れ込んだ。そうしておけば、外れることもないだろう。
     保管箱の蓋を閉め直して立ち上がり、俺は階段を下っていった。それに気づいた人形が、俺のほうへと振り返る。彼女は何も言わなかったが、けれど俺に向けられた視線はやはり先ほどと何も変わらない優しさのままだった。俺は彼女に小さく頷き、そして夢の庭の片隅にある門のほうへ向かっていった。
     頑なに閉ざされていた黒い鉄柵の門は既に開け放たれていた。彼はこの先にいる。そして俺が追い求めてきた、あの「救い」もまた。
     俺は門を抜け、舗装されていない土の道を歩き、白い花々の中へと足を進めた。工房側に植えられている白花とよくよく似て、しかし注意して見れば全く異なる姿をしたその花は、俺の足が掻き分けて進んでゆくたびに白い花弁をふわりと宙に舞わせた。
     遠く大樹の元に、一人の狩人の影が見えた。俺は花畑の途中で足を止め、そして目を閉じて深呼吸した。瞼の裏の暗闇に、かつて見た同じ光景が蘇る。そして、浜辺で見た啜り泣く者の後ろ姿も。
     ――ここにいる彼は、縛られた魂だ。
     彼はかつて、「現実」ではない場所へと飲み込まれた。その一つが此処であり、そしてもう一つは、おそらく。祈りを捧げ続けていたあの悪夢の主がそうであったように、肉体と、精神とが、別々の場所へと引き裂かれた。彼という存在がこの夢の中ですら曖昧であった理由の一つは、それであったのかもしれない。
     無論、それだけが理由ではないだろうが。
     夢にうなされ続けながらも、ただ与えられた使命を果たし続けていた。誰も代わりなど務まらないという孤独に長く耐えながら。
     きっと彼自身の「生きる力」は既に、希薄で脆いものとなっている。
     だが、だからこそ、俺が成そうとしていることも成り立つはずだ。
     狩りは継承であり、継承は狩りであるのだから。
     
     俺は閉じていた目を開き、そして再び歩き始めた。大樹の下で待っていた彼が俺を認識し、ゆっくりと顔を上げた。無表情にも、冷たくも、あるいは優しげにも見える顔つきで、その皺の刻まれた口が開かれる。
    「……狩人よ、君はよくやった。長い夜はもう終わる」
    「…………」
     俺は黙ったまま、彼の姿を自分の目で捉え続けた。
    
「さあ、私の介錯に身を任せたまえ。君は死に、そして夢を忘れ、朝に目覚める。解放されるのだ、……この忌々しい、狩人の悪夢から」
     だが俺は彼に向けて首を横に振った。かつてと同じように、しかし全く違う思いで。
     すると、杖を握っていた彼の指がぴくりと動くのが見えた。彼はゆっくりと瞬きをし、そして静かに笑い声を漏らした。
    「……なるほど、君も何かにのまれたか。狩りか、血か、……それとも悪夢か?」
     老狩人の淡々とした声が俺の耳に届く。そこにあるものは何だろうか。少なくとも怒りではなく……けれど、冷えた悲しみのような、憐れみのようなものではあるかもしれなかった。
     月光に照らされ優しく香る白い花が、数えきれないほどの狩人たちの血を吸って美しく咲き誇る死血花が、風でざあと揺れた。
    「……まあ、どれでもよい」
     彼の腰が車椅子からゆっくりと浮く。無機質な金属で出来た右足が、彼の装束の端から覗いた。
    「そういう者を始末するのも、助言者の役目というものだ」
     その言葉と同時に、ガシャンという大きな金属音が鳴り響いた。人の身の丈を遥かに超えるほどの大鎌が、彼の手に握られる。
     俺はただ彼をまっすぐ見据えながら、腰に下げていた仕掛け武器に手を掛けた。少しずつ、しかし確実に、俺の中の何かがふつふつと湧き立ち始める。
     最初の狩人が、ゆっくりと俺の方へと近づいてくる。その厳然とした姿に、俺の喉がごくりと音を立てる。けれどもう火蓋は切られた。退くことは叶わず、そして今の俺にはそれをする気もない。
     そして彼が、花畑を強く蹴った。その瞬間に俺も反応し、武器を振りかざす。
     この夜の終わりは、すぐそこなのだ。故に全うしなくてはならない。この戦いで、どれだけの死と目覚めを繰り返そうとも。
     
     そう、解放のために。
     継承のために。
     ――そして「救い」を、己の手にするために。
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