従姉と従弟「──はっ!……たあっ!」
日暮れどきの、ハーダシャル訓練場。乾いた空気の広間に、剣戟の音が響いている。
そこにいたのはスペルビア帝国特別執権官──メレフ・ラハットと、スペルビア帝国皇帝──ネフェル・エル・スペルビアであった。
メレフは眼前の細身の少年の振る太刀を、きん、きん、と軽くいなしながら指示を出す。
「陛下、もう少し踏み込んで下さい。動きに迷いがございます」
「っ……はい、──せや!」
ネフェルは先程より少しばかり身体を乗り出し、再び太刀をメレフへと繰り出した。メレフはそれをいとも容易く躱す。ネフェルの息は切れかけていて、少し肩が揺れていた。一方のメレフはというと、武器を振るっていない時とさして変わらぬような風で、疲れなど一欠片も見えていなかった。
ネフェルはもう一度、メレフの胸の中心めがけて太刀を振る。その一撃をメレフは右手の長剣でやすやすと受け止め、そして二人は動きを止めた。メレフは肩を上下させて呼吸するネフェルに、努めて柔らかな口調で言葉をかけた。
「──……陛下。息が上がっておられます。本日の鍛錬はこれで終わりと致しましょう」
その提案の声に、集中していたせいで見開かれていたネフェルの瞳が瞬いた。
「……そう……、ですね。では、そうしましょうか──」
ネフェルはそう言うと、息を整えようと深呼吸をしつつ、腰に下げた鞘に太刀を納める。そのネフェルの元へ、後方に立ち支援していたネフェルのブレイド──ワダツミが駆け寄っていった。
「陛下」
「……大丈夫ですよ、ワダツミ。心配ありがとう」
僅かに表情を曇らせて様子を憂うワダツミに、ネフェルはそっと微笑みを浮かべた。ようやく呼吸が落ち着いてきたところで、それでは戻るとしましょうとメレフに声をかけると、ネフェルは訓練場の出口へと向かって歩いていった。ワダツミとメレフ、そしてメレフの傍にいたカグツチもまたそれに従って歩みを進める。
扉を開き、四人は廊下を歩く。メレフはネフェルの後ろに付いたまま、じっとその背中を伺っていた。まだ成長途中の、年若い少年の背は、いつにも増して小さく縮こまっているように見えた。
「……ワダツミ、カグツチ」
メレフはごく小さな声で、共に歩みを進めていたブレイド達に呼びかける。その声にワダツミとカグツチは足を止めた。
「…………すまない、二人はここで。私が陛下をお送りする」
二人はメレフの顔を見て頷く。その姿を確認したメレフもまた頷き返すと、少し距離の離れてしまったネフェルの方へと足早に向かっていった。
二人は皇帝の私室へと辿り着いた。メレフはその扉を開くと、ネフェルへと振り返った。
「陛下、お疲れでしょう。どうか次のご公務まで少しでもお身体をお休めください」
「ええ、ありがとうございます」
ネフェルはそう礼を言って、それから開かれた扉の中へと進んでゆく。ネフェルが部屋の中に入ったのを見届けたメレフは、少しだけ部屋の外の様子を伺い、人影のないことを確認すると、静かに扉を閉めた。そしてできる限りゆっくりとした足取りでネフェルの元へと歩み寄ると、彼女は跪いて少年を呼んだ。
「──陛下……」
その声にネフェルは身体を翻し、メレフへと向き直った。
「……従姉さん」
その向き直った少年の表情は僅かに曇っていた。ネフェルは己をまっすぐ見据えるメレフの顔を見て、ふふ、と小さな笑い声を漏らす。
「いくら稽古をしても、なかなか思うようには動けないものですね。…………やはり私にはどうにも……戦いは向いていないようです」
メレフの胸に何かがつかえるような違和感が湧き上がった。しかし彼女はそれを堪え、ただ黙したまま少年の言葉を聞く。ネフェルは極めて穏やかな眼差しをメレフに注いだまま、ぽつりぽつりと呟き続ける。
「私のブレイドとして側に仕えてくれているワダツミに申し訳ない。残念ですが、私では彼の力を引き出すことなどできないでしょう。……私にも、貴女のように素晴らしい戦いの才があれば……」
ネフェルはそこまで言うと、腰に下げていた太刀の鞘をそっと撫でた。
そのネフェルの言葉には悔しさの色はなかった。悲しみの色もなかった。そこに表れていたのは、ただただ、従姉のような資質を持たぬ自分への、諦観であった。
「──陛下」
メレフは静かに佇んでいる目の前の少年の手を取った。そして少しばかり語気を強め、彼に語りかける。
「…………陛下。戦いの才ばかりが必要なものではございません。陛下は素晴らしいものをたくさんお持ちです。この国の頂点に立つ者として、陛下は堂々と責務を果たしておられるではございませんか。ですから、どうか……」
しかし、それ以上言葉が続かなかった。きっと今の彼にどんな慰めの言葉をかけようとも、それが意味をなさないであろうことは分かっていた。彼は慰めを求めているわけでも、その苦悩の解決を求めているわけでもなかったのだから。
「……従姉さん」
ネフェルの瞳がゆっくりと瞬く。寂寥にも似た色に揺れる藍色の瞳に、メレフは何故だかしんと身の冷えるような心地がした。メレフはそれの正体について思い巡らそうとし、
「従姉さん──ありがとうございます」
ネフェルの言葉がそれを止めた。その声は皇帝として玉座に座っている時と同じような、ゆったりとした口調へと戻っていた。ネフェルは普段と同じ、穏やかな笑みを湛えてメレフへと言葉を紡ぐ。
「すみません、つまらない話をしてしまいましたね。従姉さん、どうか次の公務へ……」
「陛下」
しかしそれを今度はメレフが遮った。そのままネフェルの言葉に従い離れるわけにはいかない、そう思えてならず、メレフはその緋色の瞳で眼前の少年を見据えた。
先程覚えた奇妙な感覚。ただの直感でしかなかったが、メレフはどうしてもそれが気にかかった。己を押し殺すように伏せられたネフェルの瞳。そこに秘められているものが、どこか危うい想い──例えば、その身を無為な危険に晒すような想い──なのではないかという予感が、ちりちりとメレフの胸の底をかき回していた。彼を守る盾となることを決意した遠い昔の日が思い出され、メレフはそっと少年の手を包んでいた己の手のひらに少しだけ力を込め、告げた。
「我が身はこの国と陛下のために。──陛下のことは……私が──私が、お守り致します」