証歴史と文化の花開く国、インヴィディア烈王国。その王国の中でも首都フォンス・マイムは「芸術の街」と名高い、美を尊ぶ街だ。
天の聖杯一行は、かつて旅の途中で力を借りたバジェナ劇団座長・コールの病状が悪化したと聞き、再びその地を訪れた。
マスターブレイドであるヒカリと、そのドライバー・レックス。彼らは紆余曲折を経てスペルビアの名医から譲り受けた特効薬を手に、イオンとの再会を果たした。
「レックスさん、ヒカリちゃん、ありがとう……!このお薬があればおじいちゃんも――」
遠くからでもひときわ目立つ水色の髪の少女は、暗く沈んでいた顔を喜びと期待に綻ばせた。逸る気持ちを抑えられないのか、彼女はヒカリの手を引いて早く行こうと急かしている。その彼女に少し困ったような笑顔で「大丈夫よ」と宥めながら、ヒカリは他の同道者達に呼びかけた。
「――ああ、皆ちょっといい?治療には私とレックスだけで行くから、皆はフォンス・マイムで待ってて」
ヒカリの言葉に一行は了承の返事を返す。そしてヒカリとレックスはイオンと共に劇場の楽屋裏へと向かっていった。
「――ゆうて何して暇潰ししたらええんや?そないに時間はかからんやろが……」
フォンス・マイムの街並みを歩きながら、唐突に湧いた空き時間を持て余したようにジークがぼやいた。
「でしたら、せっかくですので演劇を観て行くのはどうでしょう?こんな状況下ではありますが、公演は行われているようですよ」
そのジークにビャッコが提案の声を上げる。アルスト全土が危機的状況であるとはいえ、アーケディアが沈んだ今は僅かながら時間の猶予があった。フォンス・マイムの空気は以前より緊張が漂っていたものの、ラゲルト女王の采配によってか人々はさほど以前と変わらぬ様子で過ごしており、少なくとも大きな混乱には陥っていないようだった。
「……確かに。まだ劇場には多くの人が訪れているようだな」
その街の中にある劇場を一瞥し、メレフも肯定する。街の店々は以前通り経営されているし、劇場の前に集まる人々もまだ多い。劇場前には天の聖杯と英雄アデルを描いた大判のポスターが掲げられている。
「あーそっか。アタシやトラ達は観たことあるけど、メレフ達はまだ観たことないっけ?」
「そうだな、私達はまだここで劇を観たことはない」
メレフがそう返すと、一行の先頭を歩いていたトラとハナが振り返った。
「それはもったいないと思いますも。ハナはここの劇、とっても面白かったと思いますも。お伽話ってキョーミ深いんだって教えてもらいましたも」
「インヴィディアで伝わる英雄と聖杯の伝説――ね。そう言われると私も興味はあるわ」
ハナの言葉にカグツチは微笑みながら返す。ジークもまた気になるのか、彼は劇場前に掲げられたポスターにじっと目を向けていた。
「王子、気になるん?」
「あったり前やろ!英雄アデルの伝説ゆうたら気になって当然やっちゅうねん」
自らは英雄の子孫ではない――そう明かされはしたが、やはり人々の心に深く根付いたアデルの伝説には心惹かれるのだろう。ジークはやや興奮気味にサイカの問いへ返した。
「じゃあ決まり!」
そのジークの様を見たニアは悪戯っぽい笑みを浮かべると、バジェナ劇場の入り口を指差して言った。
「アタシももう一回観たいって思ってたんだよね。ほら皆、そうと決まればさっさと入っちゃおうよ!」
「――――へえ、これが……」
舞台の上で繰り広げられる煌びやかな演劇。一行の中でジークは特に心奪われたのか、彼は食い入るように劇を観ていた。ジーク程ではないものの、サイカやメレフ達もまた集中して演劇を観賞している。
人々のために戦い、そして聖杯と共に去っていった伝説のドライバー――アデル。人々を惹きつけてやまない、その英雄の物語。『英雄アデルの生涯』。
「――…………」
だがカグツチは、その演劇に集中することができなかった。
劇をつまらないと感じた訳ではなかった。むしろ彼女の目にも非常に興味深く映ったし、ジーク達同様心惹かれもした。
だがそれ以上に、彼女は劇が進むたびに己の内に湧き上がる奇妙な感覚の正体が気にかかって仕方なかった。
――何故この劇はこんなに心がざわつくのだろう。いや、その理由なら見当がついた。
理由など、一つしかなかった。
「――あ、皆!中にいたんだ」
劇が終わり一行が劇場の外へと出ると、街並みは一日の終わりを告げるように薄暗くなり始めていた。レックスとヒカリが出てきた一行に駆け寄ってくる。
「おう、ボン。すまんな、逆に待たせてもうたか」
「いや全然。オレ達もさっき終わったところだから」
「アニキ〜、そろそろ宿に行こうも!暗くなってきたし、トラはもうヘトヘトだも」
そう楽しげに会話しているレックス達を横目に、カグツチは別れていたもう一人、ヒカリの方へと歩み寄っていった。
「お疲れ様。座長さんはもういいのかしら?」
「もちろんよ。……全てを治すことはできないけど、それでも少しは楽にしてあげられたはず」
「そう」
カグツチはそう返すと、しばし沈黙してヒカリの顔を見つめた。旧知の人物を想う気持ちからか、ヒカリの表情は少し寂しげながらも喜びの色も見えていた。やや尖った態度を取ってしまいがちな天の聖杯の少女だが、心根は優しいブレイドであることをカグツチはよく知っていた。それは、五百年前の「記録」にも記されている通りだ。
そう、五百年前の記録に。
「――ねえ、ヒカリ。この劇場の座長さんは貴女の知り合いなのよね。コール……という」
「ええ、そうよ。それが?」
ヒカリは問いかけてきたカグツチに軽く返事を返す。あまりにあっさりと返されたカグツチは言葉を続けるのをためらってしまった。
コールという名に、覚えはなかった。それは己を繫ぎ止める存在である日記全ての記述を含めてだ。カグツチがコールという老人について知っているのは、聖杯一行がスペルビア帝国へ訪れる前に世話になった人物の一人であり、どうやらブレイドであるらしいということ、そしてヒカリの知り合いであるということ……それだけだった。
だが、ヒカリは永きに渡り雲海の底に己を封印していた。五百年眠っていたヒカリの旧知の人物ならば、聖杯大戦に関係のある人物なのではないか――そうカグツチは想像した。
「少し――、…………少し話をしてみたいと思っただけよ。難しいなら無理は言わないわ」
カグツチは先に出かかった言葉を飲み込み、それから言い直した。そう予想したものの、その全てをヒカリに告げるのは憚られた。ヒカリはひとつ瞬きし、しばらく黙り、それから僅かに眉をひそめ、真剣な表情でカグツチへと向き直った。
「――分かった。いいわ、多分彼の体調もしばらくは問題ないでしょうし」
「――ヒカリ、本当に?」
カグツチは咄嗟に聞き返した。ヒカリの表情から断られるものと思っていた予想が覆り、彼女の胸は喜びと同時に微かな緊張を覚えた。そのカグツチに向け、ヒカリは頷いて言葉を続ける。
「ええ、……会いたいなら取り継ぐ。それを貴女が望むなら」
そしてカグツチはヒカリと共にコールの元へと向かった。団員に声をかけ、二人は劇場の楽屋裏を進んでいく。
歩みを進めるたびに、カグツチの胸に湧いた小さな緊張は少しずつ膨らんでいった。コール。一体どんな人物なのだろうか。先程観た演劇――『英雄アデルの生涯』を作った者。ヒカリと面識を持つ者。そして、自身が長い間知りたいと望み続けてきた「記憶」の断片を持っているかもしれない者。緊張、期待、不安、そして記憶への強い欲求。それらがないまぜになり、カグツチは廊下を歩くその僅かな時間が酷く長いものであるかのような感覚がした。
「……ここよ。この座長室の中にコールがいるわ」
はたとヒカリが足を止める。バジェナ劇場の一番奥まった場所にある部屋。カグツチは揺れる思考を止め、導かれた部屋の扉をしばし眺めた。
「この中に……」
カグツチはノックをしようと扉へ手を伸ばし、しかしためらいを覚えてその手を引いた。横に立つヒカリが怪訝そうにカグツチを見つめる。
「何を遠慮してるの?別に私の知り合いだもの、気にせず声をかければいいわ」
「けど……」
カグツチはなお躊躇する姿を見せた。カグツチの中の感情が再びかき乱されてゆく。それは自身をこの場所まで連れてきてくれた、目の前の少女――天の聖杯への遠慮だった。
だが当のヒカリはそうしてためらいを見せているカグツチに向けて小さくため息をつくと、ただ穏やかな声で語りかけた。
「貴女が彼に何を訊きたいかくらい分かるわ。それでも私は貴女をここに連れてきた。……これは、償い」
「償い?」
ヒカリの口から出た思いもよらぬ言葉に、カグツチが問い返す。ヒカリはそのカグツチに向け、落ち着き払った声で淡々と言葉を続ける。
「償い、なんて大袈裟かしら。でも……貴女たちが私たちの旅に同行することになったばかりの頃だっけ。貴女、私に尋ねてきたことがあったわね。『聖杯大戦の頃の貴女たちについて聞かせて』……って」
その言葉にカグツチは胸の内が冷えるような心地を覚えた。
数奇な運命に導かれ、再び共に旅をすることとなった「帝国の宝珠」と「天の聖杯」。その旅の初め、アーケディア法王庁を目指す道中のリベラリタス島嶼群で野宿をした夜のことだった。カグツチは自身の日記に記された「天の聖杯」、その当人であるヒカリに興味を引かれ、彼女に五百年前の当時について尋ねたことがあった。
「……でも私は答えられなかった。答えたいとは思ったの。けどあの時は、まだ…………」
「ヒカリ……」
ヒカリが申し訳なさそうに俯く。その曇った表情は、普段は気丈な彼女に似つかわしくないものだった。
語ることが出来なかったというのは、無理もないことだった。共に旅をし、そして彼女たちにについて改めて知っていく中で、ヒカリとホムラがどのような想いで五百年の時を過ごしてきたかをカグツチは学んでいった。それを思えばこそ、カグツチは再び出会ったばかりの頃の非礼に罪悪感を覚えていた。カグツチは苦笑いを浮かべ、顔を俯けているヒカリに返答した。
「いいえ、いいのよ。私こそあの時はごめんなさい。それに貴女はこうしてコール座長の元に引き合わせてくれた。……それだけで十分だわ」
「……カグツチ」
俯いていた聖杯の少女が、カグツチの方へと顔を上げる。
「そう思ってくれるなら嬉しいわ。じゃあ行きましょう、彼の元へ」
「ええ」
カグツチの返事に頷くと、ヒカリはカグツチの代わりに座長室の扉を叩いた。コンコンと軽い音が響き、そして少しの間を置いて部屋の中から水色の髪の少女が顔を出した。
「はい、どなた……あっ、ヒカリちゃん!どうしたの?」
「ああ、イオン。ちょっとコールに用があってね。今は大丈夫かしら?」
そうヒカリが問うと、イオンはちょっと待っててと言って部屋の奥側へと向かって行った。いくらかの会話らしきものが聞こえたあと、再びぱたぱたと戻ってきたイオンは笑顔でヒカリに返答する。
「うん、おじいちゃん大丈夫だって。ヒカリちゃんと……、後ろのブレイドさんも。どうぞ」
手招きするイオンに従い、ヒカリとカグツチは部屋の中に入っていく。座長室はあまり広くはなく、その上様々な書籍や骨董品が雑多に並んでいる。本棚やクローゼットに収まりきっていないそれらは壁や床の大半を覆ってしまっており、お世辞にも整頓されているとは言えなかった。足元の書籍や雑貨に引っかからないよう気を遣いながら歩みを進めるカグツチ達とは逆に、イオンはごたごたとした薄暗い室内を容易くすり抜けていくと、開いている寝室の入り口に顔を入れ、それからカグツチ達に振り返った。
「おじいちゃん、ヒカリちゃん達が来たよ」
「おお、ありがとうイオン」
すると部屋の奥からしわがれた男の声が聞こえた。イオンが手を取り、その声の主をゆっくりと導く。そして部屋から顔を出した男は目の前の客人の姿を見て目を丸くした。
「……あんたは、カグツチ――?」
その老人の反応に、カグツチもまた驚きの表情を浮かべた。ヒカリの旧知の人であることは知っていたが、まさか自分のことまで知っているとは予想外だった。
「……私のことを知っているの?」
カグツチはそう男に問い、そして隣のヒカリの顔を見やる。だがヒカリは何も言わなかった。
――この人物は一体、誰なのだろう。
「……ああ、知っている。そうだな、あんたが儂のことを知らんでも無理はない。だが、『ミノチ』……と言えば分かるか」
ミノチ。その名を聞いたカグツチの胸は跳ねた。聖杯大戦からのち、幾度となくその生を繰り返したカグツチには姿こそ記憶にはなかったが、その名前には覚えが――いや、「記録」があった。確か英雄アデルのブレイドとして、聖杯大戦で自分達と共に戦った仲間で……マンイーター。
その彼に違いない。
「……ミノチ」
カグツチはその名を繰り返すように呟いた。彼女は己の内に燻っていた疑問の一つが溶けて消えていくのを感じた。
手のひらを握り、一つ深呼吸をする。浮足立つような、心細いような自身の感情を落ち着かせるように。
「コール座長――いえ、ミノチさん……と言ったかしら。少し貴方の話を聞かせてほしいの。貴方の体調が許せば、だけれど」
「ああ、儂は構わんよ。ヒカリがそれでいいならな」
そう言うとミノチはカグツチの後ろにいたヒカリへと目を向ける。ミノチもまた、天の聖杯に思うところがあるようだった。だがヒカリは表情を変えず、ただカグツチとミノチに頷いてみせた。
「……いいわ。そのために彼女をここに連れてきたんだから。それじゃあ私は先に宿に戻ってるわ。また後でね、カグツチ」
そう言うとヒカリはその身を翻す。そして老人の傍らにいた少女に一緒に行きましょう、と呼びかけると、ヒカリはイオンと共に部屋を出ていった。
「……その顔をまた見られるとは思わなかった。あんたの作った香水が好きだったよ」
「香水……」
二人の少女が出て行った扉を見やりながら、ミノチは懐かしむように呟いた。室内は薄暗いままで、その上彼はフードを被っている。そのせいで表情の機微までを見ることはできなかったが、ミノチの声はどこか嬉しそうな色があった。
香水。恐らく彼が言っているのは、聖杯大戦当時の自身が趣味としていたフレグランス作りのことであろう。カグツチは「記録」を思い返しながら、そのようなことを頭に思い浮かべた。
マルベーニのブレイドとして共に在りながらその元から離反。その身にはブレイドではない「人間」の細胞が取り込まれており、それ故にドライバー亡き今もその肉体を生きながらえさせているブレイド。聖杯大戦の「記憶」を持つ、数少ない人物の一人。その彼がこうして目の前に存在している。そう、彼の言葉はこの老人がかつて共に戦う仲間だった「彼」自身であるという証明に他ならなかった。
「ミノチさん」
カグツチが切り出す。彼の言葉の端々から得られる確証と期待がカグツチの心を逸らせた。
「貴方は聖杯大戦の当事者……、そうなのでしょう?全てに答えてとまでは言わない、けれど――どうか教えてほしいんです。『あの時』の私のことを、共に歩んだ人達のことを」
一息にまくし立てた。握りしめたカグツチの手のひらに、余計に力がこもった。だがミノチはすぐに答えなかった。ただの沈黙がしばらくその部屋の中を支配して、カグツチは気まずさを覚えた。
「……あんた、演劇を観たか」
と、唐突にミノチが問いをかけてきた。カグツチは頷く。それを見たミノチは、一言そうかと呟くと、小さく唸って再び沈黙した。
「……なるほど。じゃああんたなら分かってしまうのだろうな、あの劇に何が描かれていて、何が描かれていないのか。……だからあんたはここに来た、……違うか?」
「……そうです。ですが私は内容の如何について話に来たのではありません。貴方は貴方なりの考えがあってあの劇を作ったのでしょうから。私はただ……」
「分かっているよ」
声に必死さが滲み出すカグツチに、ミノチは穏やかに返答する。しかしフードから覗くミノチの顔に、僅かな悲しみが表れていることにカグツチは気づいた。
「…………だが、すまない。今のあんたに、あんたが望む事を直接伝えられる資格は儂にはない」
「――ッ……」
ミノチの返答に、カグツチの身が一瞬だけ固まった。知りたいと願い続けていた過去を当事者から聞くことができるもしれない、その希望が崩れていくのを感じ、カグツチは肩を落とした。
「……そう……ですか」
仕方ないことだ。彼もまた当事者。その「記憶」を持ち得ぬ者が向ける問いが、当事者達の何に触れ、何をかき乱し、何を抉り傷つけるのか、当事者でない者が想像し切るのは不可能なことだ。以前ヒカリがカグツチに語る事を拒んだように。
凄惨極まりなかったというその大戦について語ってもらうのが酷だということなど分かりきっていたはずだ――カグツチは気落ちしながらも納得しようと自身にそう言い聞かせた。
「代わりに……といってはなんだが」
だがミノチはカグツチに言葉を続けた。机に積み上げられた大量の本に手を伸ばし、そのうちの一冊をカグツチへと差し出した。カグツチはそれを受け取ると、その表紙をまじまじと眺めた。
「これは……?」
「あの時……『聖杯大戦』の当時、儂が綴っていた脚本だ。他にもいくつかある、持って行ってくれていい」
そう言いながらミノチは山を漁り、もう数冊本を掘り出した。どれも彼の書いた演劇の脚本らしかった。カグツチは戸惑いながら渡された本の表紙を開き、パラパラとページをめくった。
「こんな貴重なもの……」
「内容は覚えているし、写本もある。問題ないさ。あんたはいつも儂の書いた脚本を楽しみにしてくれていたな。特に気に入っていたのは……、この一本か」
そう言うとミノチは引っ張り出した脚本の一冊を手に取り、カグツチに差し出した。カグツチは本の表題を見る。『守るべきもの』――表紙に書かれたその文字に、カグツチはひどく惹きつけられた。
「……所詮それらは脚本だ、脚色された物語に過ぎない。あんたが欲する『真実』とは違っていることだろうが……」
「構いません」
しわがれた声で語るミノチに、カグツチははっきりと返した。ミノチはその声に少し驚いたように顔を上げ、カグツチの顔を見た。
「構いません……、それでも。少しでも『あの時』を知ることができるのならば、それだけで」
「そうかい」
深い皺の刻まれた男の顔が僅かに緩む。乱雑に積み重なった本の山をそっと撫で、ミノチはカグツチに小さく笑いかけた。
「よかったらまたいつか感想を聞かせてくれ。昔『あんた』がよくそうしてくれたようにな。『今のあんた』がそれを読んで、何を思うのか……、儂も興味がある」
カグツチは頷く。そして彼が引っ張り出した脚本を抱えると、カグツチはミノチに微笑み礼を述べた。
「ありがとう、ミノチさん。この脚本、大切に読ませてもらうわ」
「こちらこそ。……またあんたに会えてよかった」
借りた脚本を抱え、カグツチは皆のいる宿へと戻っていった。街中は既に暗く、辺りはインヴィディア特有の噴気結晶により霧雨のように変化したエーテルで普段よりも冷え込んでいた。しかしカグツチの足取りは軽かった。
――早く読みたい、早く知りたい。そう逸る気持ちがカグツチの歩く速度を速めていった。
そしてあっという間に宿に到着したカグツチは、与えられた宿部屋の扉を叩いて中へと入った。
「メレフ様、ただ今戻りました」
ブレイドの声に、中にいたドライバーが振り返る。カグツチのドライバー、メレフは軽く微笑んでカグツチを迎えた。
「ああ、カグツチか」
「遅くなってしまい申し訳ありません。すぐ明日の支度を整えますので……」
「いや、ヒカリから話は聞いている。明日の支度なら私や他の者で終わらせているから、気にする必要はない」
謝罪するカグツチに向け、メレフは穏やかに返す。そしてその帰ってきたカグツチが抱えているものに気づくと、不思議そうにそれらを眺めた。
「……ん?それは本か?」
「はい、演劇の脚本です。全てあの劇団の座長が書いたものだそうで」
「なるほど、それを借りてきたというわけか」
カグツチは返答しつつ備え付けの机上に脚本を下ろしていった。メレフは机上に並べられていくそれらに興味深げに視線を落としている。
「ふむ……、『英雄アデルの生涯』以外にも数多く書かれているのだな。あの演劇はなかなかに興味深かった。スペルビアでは聖杯大戦にまつわる大衆向けの作品は殆ど出回っていないからな……。こうしてそれらに触れられるというのは貴重な経験だった」
メレフはその日観た演劇を思い返したのか、嬉しげにカグツチへと語りかける。元々美術品や音楽といった芸術を好む故か、メレフもまた演劇や脚本に興味を持ったようだった。
「貴重――、……そうですね。確かにそうです」
カグツチはそのメレフの言葉を聞き、並べた脚本の表紙へと目を落とす。
皇帝自身が参戦したはずの聖杯大戦。しかし、スペルビア帝国という国にはそれを語り継ぐものはあまりに少ない。その本当の理由はスペルビアの皇族や帝国の宝珠などの一部の者しか読むことができない記録でしか語られておらず、スペルビアが抱える民の多くには秘匿され続けたままだ。
当時の特別執権官及び皇帝の血縁者が残したという聖杯大戦の記録、そしてカグツチ自らが残した『記述の途切れた日記』。カグツチはそれらのことを思い返し、胸の内が淀むのを感じた。
「……カグツチ?」
そのカグツチの名を、傍らのドライバーが呼んだ。「大衆」ではないそのドライバーは、カグツチの沈んだ表情の理由が分かってしまったのだろう。顔を上げて見たメレフの顔は、心配げに眉をひそめていた。
「……すまん、気を悪くさせたか」
「い、いえ、違います!ただ……」
申し訳なさそうに謝るメレフに、カグツチは慌てて訂正をする。
「ただ、語り継がれていなくとも……やはり知りたいと思ってしまうんです。……その時の私は、私達は、どのように生きていたのだろう……と」
静まり返った真夜中の宿部屋の中では、時折紙のめくられる音だけが響いていた。
メレフは既に眠りについて寝台の中にいたが、カグツチはランプの小さな灯りを付けたまま、借りてきた脚本を読み耽っていた。
今のカグツチではない「彼女」が何を思い、どんなことをしていたのか。その時の「彼女」と共にあった彼らが、どのような思いで生きたか。カグツチはかつて読んだ自身の日記の記述へと想いを馳せながらそれらを読み進めた。
『英雄アデルの生涯』の元となったものであろう脚本もあったが、上演されていたものとは異なる部分も多かった。だが、カグツチはその部分により強く引き込まれていった。古い脚本達は、ただの美しい物語ではなかった。
騎士となった傭兵の女性、ラウラ。イーラの秘宝と呼ばれたブレイド、シン。それだけではない。自分と同じ帝国の宝珠、ワダツミ。天の聖杯、ヒカリ。世界の命運を背負うこととなった英雄アデル。
彼らが生きていたという証。彼らがそこに存在していたという証。自身の日記以外で、カグツチは初めてそれに触れた。
……現代のアルストに残る歴史書はどれも曖昧な記述ばかりだ。スペルビアの歴史書だけではない、他国のものも含めて。そしてその曖昧な歴史書に語られているのは、「天の聖杯」と同調した「英雄アデル」についてが殆どだった。
イーラの戦士であったラウラも、シンも、そして――『彼』も。アデル達と共にあったはずの彼らについては、当時を記すはずの歴史書どころかお伽話ですら、このアルストには伝わっていない。だからこそ、ただの「お伽話」ではないそれらの一つ一つの描写が、カグツチの胸の内を打ち抜いていった。
そして八冊目を読み終えたカグツチは、残り二冊となった脚本に目を落とし、あることに気づいた。
「……あら、これは――?」
残り二冊のうちの片方の脚本には、表題が記されていなかった。心なしか他の脚本よりも薄いようにも見える。カグツチはその表題のない脚本に手を伸ばし、表紙をめくり――そして絶句した。
「――――……、これ……――」
目に飛び込んできた文字。それは『英雄』の傍で旧知の友として共に立った皇帝――かつてのドライバー、『ユーゴ・エル・スペルビア』その者の名だった。
カグツチは俄かに自身のコアクリスタルが熱くなるような感覚に襲われた。震える指先でページをめくり、そこに書かれているものを視界に捉えていく。
それまでに読み進めた八冊の脚本の中に、かの皇帝らしき者の姿が描かれていないわけではなかった。だがその無題の脚本は明らかに他のものと異なっている。かつての主である皇帝ユーゴが「主役」として描かれていたのだった。
――まさかインヴィディアの地で祖国の皇帝の物語に触れる機会が訪れようとは。
皇帝。歴史の陰に消えていった、かつての主人。名を残さなかった、心優しき帝国の守り手。若くして命を落としたドライバー。スペルビア帝国皇帝、ユーゴ・エル・スペルビア。
ページをめくる手の震えが強くなっていく。一つ読み進めるたびに呼吸さえも苦しくなっていくような心地を覚え、炎のブレイドであるはずの彼女の指先はまるで冷え切ってしまったかのように感覚がなくなっていた。だがカグツチは読むことをやめようとはしなかった。
そしてカグツチは最後のページをめくり、それが書きかけで途切れているということに気づいた。
「――――……」
かつての主人を描いた、未完成の脚本。途切れて終わっているその脚本の最後のページを、カグツチはしばし呆然としたように見つめていた。
「ユーゴ、様――――」
震える唇が、「記憶」にない主人の名を呼んだ。記録として知っていた、けれども記憶としては絶対に知り得なかった事実が彼女の思考を支配する。
――ああ、きっと自分はやはり、彼を守ることはできなかったのだ。
「――――ッ」
その言葉が脳裏を掠めた瞬間、カグツチの瞳から涙が溢れ落ちた。止めようがなかった。どう足掻こうと覆しようのない遠い過去がカグツチの胸をかき乱していき、彼女はせめて眠っているメレフを起こさぬようにと精一杯声を潜めた。
カグツチが「彼」を守ることができなかったという事実は、カグツチ自身にも分かりきっていたことのはずだった。彼がどのようにして命を落としたかは知り得なかった。かつての特別執権官と皇帝の血縁者が残したとされる聖杯大戦の極秘記録にも、詳細は記されていない。
だが「何故」命を落としたか――それは、残された日記を読めば分かってしまう。何故ならば、記述がないことこそが最大の「記録」であるからだ。
――日記は「とある日」を最後に記録が途切れてしまっていた。
「とある日」、それはメツとの決着をつけるため、イーラのコアを目指してアウルリウムを発った日。二人の少年を王都へ残し、英雄アデルと聖杯達の一行はメツとの戦いへと赴いた。
……そして、日記の「記録」に残っているのはそこまでだ。それ以降の「ユーゴのブレイドだった頃のカグツチ」の日記の記述がないこと、それは彼の最も傍にいたカグツチは彼の死と同時にコアへと還ったのだということを示している。
彼らがいたこと。ユーゴという皇帝がいたこと。それはカグツチの日記が証明しているはずなのに、忘れたくないと願ったその彼らの、ユーゴの姿が大衆に語り継がれることはないのだということ。その事実を、その無題の脚本がカグツチに強調した。
「……っ、…………」
――虚しい。ただ虚しかった。
守りたいと願い、けれど守れなかった者がいたこと。自身と共に在った人々が、殆どの人々に知られることがないまま時が過ぎ去っていくこと。言いようのない悲しみがカグツチに涙を流させ続け、彼女はただ何も言わずそれを拭った。
ランプの小さな灯りが弱々しく揺れる。油が切れかけているようだった。残るは一冊のみだったが、今の心境で読み切ることができるのかという疑問がカグツチの脳裏をよぎっていった。かといってこのように動揺した状態で心穏やかに眠れるという気もしなかった。カグツチは逡巡しながら最後の一冊となった脚本へと手を伸ばし、弱くなった灯りに照らされた表題をぼんやりと見やった。
最後に残された脚本。それはミノチ曰く当時のカグツチが気に入っていたという一冊――『守るべきもの』だった。
「…………」
カグツチは無言でその表紙を眺めた。日記に描かれた旅路の中に、その物語の名が出てきた記憶はある。しかし、内容までは詳しく知らない。脚本を書き写してある訳でもないのだから当然ではあるが。
カグツチは表紙に手をかける。紡いできた数多の日記と、読み進めた脚本の物語とを交互に思い返し、ためらい、そして彼女はある男の言葉をふと思い出した。
『――お前はあの時のままだ』。
かつての自身が好んだという物語。もしも彼の言った言葉が正しいのだとすれば、もしかしたら。
カグツチは決心してその最後の一冊の表紙を開いた。いっそ何かに縋るような、救いを求めるような心地だった。
長い、長い時の中で、カグツチは数多くの出会いと別れをした。そして自身と同調した全てのドライバーを愛し、守りたいと願った。ドライバーを守りたい、守ってみせる。そう自身が誓い続けてきたことは、よく知っている。だがそれは叶わないことも多かった。守れなかったのはユーゴだけではない。アルストにブレイドとして生まれ出でて、今生においてメレフと出会うまでの時間の中で、何度も、何度も、何度も何度も何度も。
そう、日記を読めば分かってしまう。
だが彼が、彼らが歴史書に語られなくとも、大衆に知られることがなくとも。自身と彼らが共に在った日々が無駄ではなかったのだと。そしてそれらは全て、今へと繋がっているのだと。自身が今最も強く想う願いが、かつても今も変わらないものであるはずだと。そう、証明してくれるのではないか――
ただそれだけの想いがカグツチの手を再び動かした。
明け方を知らせる、インヴィディアの巨神獣越しの淡い朝日が宿の外を色づけ始めた。噴気結晶の霧雨はいつの間にか止んでいて、堅い煉瓦の街道のところどころに出来た水溜まりが、その薄ぼんやりした日の光を柔らかく反射している。カグツチは手にしていた最後の一冊を静かに閉じると、新しい一日が訪れたインヴィディアの風景を宿部屋の窓越しに眺めた。
「――…………」
ひどく穏やかな心地だった。睡眠を取り損ねてしまったが、カグツチは不思議と心が落ち着いていた。しかし、その内には高揚感も微かに覚えていた。
カグツチは油の切れたランプの側に積み重ねられていた脚本たちを一つ一つ手に取っていく。そして彼女はそれら全てを抱えると、まだ眠りから覚めていない今生のドライバーの寝顔を一瞥し、それからひっそりとただ一人で宿部屋を後にした。
――伝えなければならない。彼が描いた全てに触れ、そして今改めて抱いた自身の思いを。
心が急く。まるで昨日の夜、同じように本を抱えて宿へと急いだ時のように。けれどもカグツチの心の内は、その時とよくよく似ていながらもほんの少しだけ違っていた。
ユーゴを守ることはできなかった。そして、数多のドライバーたちも。ならばいくら誓おうと、願おうと、自らの望みは全て空虚で無意味なことなのではないか――そう思うことすらあった。
けれども彼らは皆スペルビアのために、そしてアルストのためにその身を賭して生きた。
皆そうだ。そうだったのだ。カグツチと同調して共に生きた彼らは皆、国と人々の守り手となることを至上の喜びとした。そうして『帝国の守護者』としてカグツチと共に生きた彼らは、誰一人としてその生涯を悔いていないであろうこと――それは、確信めいた思いとしてカグツチの中に強く存在した。
何故なら自分を繋ぐ「記録」と、今この時まで受け継がれてきたカグツチ自身がそれを証明しているのだから。
バジェナ劇場の前に、蒼い炎のブレイドがたどり着く。日が登ったばかりの街を行き交う人々はまだ多くない。劇場の入り口をくぐり、昨日ヒカリと訪れたその場所へ。カグツチは迷うことなく歩みを進めていき、そして最奥の部屋の扉を静かに叩く。
「ミノチさん。私です、カグツチです」
高ぶった心を宥めながら、カグツチは扉の向こうにいるであろう男に呼びかけた。しばらくすると人のうごめく気配がし、それからゆっくりと扉が開かれた。
「なんだカグツチ。……随分と早いじゃないか」
「ごめんなさい、こんな朝早くから。……でも、どうしても今すぐ貴方に会いに行くべきだと思って」
カグツチは謝罪し、苦笑いを浮かべた。扉から半身を覗かせたミノチは軽く咳払いをすると、カグツチの抱えたものを見てやや驚いたように目を瞬かせた。
「もう全部読んだというのか?別に急ぐ必要は――……」
「いいえ、大丈夫。……読ませてくれて本当にありがとう。貴方にお返しします」
カグツチは預かっていた脚本を手にしたまま、迷いのない笑みをミノチへ見せた。ミノチは黙し、それから何か得心したように頷く。
「どうだった?……儂の描いた彼らは、『お坊ちゃん』は……あんたの目にどう映った?」
フードと深い皴から覗く深緑の瞳がカグツチを捉える。無題の脚本と、最後の一冊がカグツチの脳裏をよぎった。長く国交の断絶されていた国で出会った、明かされることのない物語。そして、かつての自分が愛した物語。それはとても――――
「……美しかったわ」
カグツチは迷いのない声で言い切った。その返答に、老人のような姿をしたブレイドはふっと小さく笑い声を漏らした。
「そうか。……なら、あんたに渡したかいがあったというものだな」
朝の冷えた空気が、少しずつ緩み始める。遠くに聞こえる人々の声は徐々に大きくなり始めていた。その声を聞きながら、ミノチは再びカグツチに問うた。
「…………なあカグツチ。『今のあんた』が守りたいものって何だ?」
カグツチはまっすぐミノチを見据える。そして穏やかに微笑みを浮かべると、彼女はゆっくりと口を開いた。
――――答えなど、最初から決まっている。
「……そうですね。聞いてくれるかしら、私の答え。貴方のおかげで思い出すことができました。『私』の守りたいもの、それは――――」