ただ受け取ったものをかえすだけ腕時計に目を落とす。夏季休暇の空港を少々甘く見ていた。あとは搭乗するだけとはいえ、待つ身には気が気ではないだろう。足を早めて、人混みを少々強引に進む。ふと、後ろから自分を呼ぶ声がした。
「勇作殿」
決して大きな声ではないのに、よく通る低い声。足が止まる。振り返ると、歳のあまり変わらない男がこちらをまっすぐに見ていた。光を通さないような、真っ黒の瞳が、ひどく印象に残る。
「あの、すみません……どこかでお会いしたでしょうか」
人の顔と名前を覚えることは、不得手なほうではないというのに、彼の顔も名前も、全く出てこない。ならば初対面と断じていいはずなのに、なぜかためらってしまう。彼は小さく首を振った。
「今から俺が言うことは、聞き流して頂いて結構です。なに、時間はかかりません。再びこうして姿を見ることになるとは思っていなかった。ただ、こうして向かい合った以上、俺はあなたに、伝えなければならないことがある。ははあ、戸惑ってますね。いいんですよ。狂人の戯言と思って頂いてかまいません。……俺は、かつて、あなたに多くのものを貰いました。その時は欲しくもないと思っていたんです。捨ててしまいたいとすら、いや、捨てたのだと思っていました。でも、本当は違っていた。あなたに貰ったものは、確かに俺の、“よすが”になった。本当です。それを直視したら、生きていけないと思っていたのに。……今でも俺は、あなたに貰ったものを抱えて生きています」
耳に心地よく響く声。何のことを言っているのか、まるで理解ができないというのに、気を逸らせない。理解したいと、しなければならないのだと、何故だか強く思う。
「――ご家族が呼んでいますね。最後に、これだけ、あなたに伝えたかった。……ありがとう。どうか、幾久しく健やかで」
息子の呼ぶ声が、ひどく遠く聞こえる。表情を動かさなかった彼が、わずかに口角を緩ませて言った言葉に、胸が引き絞られるような痛みと、懐かしさを感じる。人混みに紛れていく背中に、なにかを言わなければならない焦燥がつのる。言うべき言葉が確かにあるはずなのに。
「ありがとう、ございます……、どうかあなたも、幾久しく健やかで」
同じ言葉を、気がつけば返していた。確かにあの人は自分になにかを差し出してくれた。差し出されたものを、自分も返さなければと思った。
背中は雑踏に消える。お父さんはやく、と呼ぶ声がする。その声に向き直りながら、名も知らぬ人の、きっともう会うこともない人の、これからの幸せを、願わずにはいられなかった。