ドリーは酒場を飛び出すと、オルモス港の近くに所有している商館に向かって駆け出した。何も考える暇を与えないように、襲い来る動揺を払うように、ひたすらに走った。
「君をその不安から救うには、モラだけでは足りなくなる時が来るだろう」
それでも頭にはあの書記官の声が残っていて、鮮明に響く。それがドリーを苦しめた。うるさい、だまれ、何が分かる、今日初めて会った男が、私の何を知った気になっている。救う?私に救いをくれるのはモラだけだ。人は言葉を使うから嘘をつける、でも愛しいモラは私を裏切らない、そこに在るだけで私に信頼と安心を与えてくれる。
「君に懸想しているから」
「俺は君の傍に居ても、不安にさせることは無いと約束できるよ」
そんな曖昧なものを繋ぎ止める約束なんて馬鹿馬鹿しい。口約束なんて、何も信じられない、信じたくなどない。固いベッドの上で、また一緒に外で遊びましょうと優しく声を向けてくれた愛しい影。罪は、その言葉を信じた無知な自分だった。私をつくったあの日の全てを、忘れることなんて出来やしない。
ドリーは商館に着き使用人達を目にすると、多少頭が冷えてきたのを自覚した。必要な言葉だけを交わし、部屋に入るとふらふらとした足取りでテーブルの上にランプを置き、ベッドに倒れる。机上のランプの蓋は躊躇いがちに少しだけ開くと、何かを察したように静かに閉まった。窓から差し込む月光が少し眩しくて、ドリーは両肩を自分の手で抱えた。
あの男は、追ってこなかった。
酒場の個室で男商人に組み敷かれそうになった時、肩を掴んだ穢らわしい手に嫌気を覚えた。その後割って入ったあの書記官が自分の両肩を抱えた時、同じ感覚を覚えることは無かった。それは自分に向けられた感情の違いなどという問題ではないように思えて、そう感じる自分に戸惑っている。同時に、ひどく悔しくもあった。
静かな夜とは正反対に混乱する感情を抑えられないままでいると、しゃりん、と窓から鈴のような音がした。抱えていた頭をあげて音の先に目をやると、そこには白銀の髪を揺らす、妖精のような神。
「ぎゃあ!」
「驚かせてごめんなさい、ドリー。こんばんは」
「な、なんの御用ですか?もう営業時間外ですわよ」
「あなたに一つだけ謝りたいことがあって来たの。結論から言わせてもらうわね。アルハイゼンに少しだけ、あなたのことを教えたのは私なの」
ナヒーダは先刻、アルハイゼンにドリーの過去を少しだけ打ち明けたことを順を追って説明した。ドリーはその話を聞き進めるほどに、全ての違和感が繋がって冷静になっていく。誰にも自らの過去を話したことなど無いのに、あの男に核心を突かれた原因が分からなかったから。言葉通り、全知全能たる神にでも聞かない限りは。
「結果的に、貴方を不快にさせてしまったのは私が原因よ。本当にごめんなさい」
「別に、貴方に不満など感じておりませんわ。そんな事を神に聞くあの男の神経が理解不能ですのよ」
「ひとつだけ理解して欲しいのは、彼は純粋に、あなたのことが知りたかっただけだということ。あなたに避けられていることも察していて、自らの好意にどう対応すべきか知らなかった彼は、術を選べなかったんだと思うわ」
「だ、だからといって…そんな馬鹿げたこと」
「そうね、あの彼が馬鹿みたいに心の中を貴方でいっぱいにしてたのを見た時、私も驚いたの」
知恵の神が民を騙して、ましてや自分のような商人を欺いてもなんのメリットもない。だからナヒーダの言葉は全て真実なのだとドリーは認めざるを得なかった。しかしだからといって、ドリーの中でのアルハイゼンに対する心象に大きな変化があるわけでは無い。依然として彼は避けたい存在であるし、顔を合わせたその日にいきなり好意があると示されても返す言葉などある筈も無い。
「…彼の言葉に戸惑ってる?」
「と、戸惑ってなんて!?ただ私とモラを侮辱されてこれ以上なく腹が立ってるだけですわ!」
「私が言うのもなんだけれど…アルハイゼンに言われたことなんて気にしなくていいんじゃないかしら」
「…んえ?」
にこにこと上品に笑う草神の真意を汲み取れずにドリーは訝しげな顔を浮かべる。アルハイゼンに自分のことを話したのも、自分と話す機会をつくったのも彼女だというのに。我らがクラクサナリデビ様のお考えを理解するのは骨が折れる。
「私、モラで全てを解決出来るという貴方の考えが好きよ。口だけじゃくて、本当に出来るかもしれないと思わせてしまう強さがあるもの」
「それは光栄ですこと?」
「今はそれでいいじゃない。貴方は貴方、彼は彼でしょ。モラと愛情、いずれ貴方に必要になるものはどちらかなんて、その時が来てこそ決着が着くことだもの」
「……」
「だから、もしも貴方が愛情を必要とした時。彼は貴方に手を差し出してくれる存在のひとりだということ。それを頭の片隅にでも置いとくだけでいいんじゃないかしら。」
「私があの書記官が気に食わないと知った上で?」
「ええ。だってアルハイゼンって、貴方が嫌ったぐらいで手を引くような性格じゃないでしょう?どう考えても彼自身は変わらないもの」
「だ〜から、そういうところが嫌いなんですのよっ!」
そう言ってキイと歯を見せて怒ったドリーを見て、ナヒーダは目を細めてフフと笑う。さっきまで自分の混乱を収められずにいたドリーの姿はすっかり無いようだった。アルハイゼンとドリー、どちらも自らの道をゆく強かな人間であるのをナヒーダはよく知っている。そのまま迷うことなくその道を進むのも、もしもそれらの道が交わる日が来るとしても、そのどちらも2人にとって良い未来であって欲しい。神が願っているのは、それだけだ。