かがみよかがみのないしょごと(2)ロンディーネが大陸から持ってきた書物の中に紛れていた荒唐無稽な空想小説では、遠い夏日星からタコのような形をした生き物が攻めてくるという筋書きだった。
宵の入りから空の色が何処か落ち着かないそれだとカムラの里の対為す焔はそれぞれに感じ取っていた。
だからといって百竜夜行の兆しがあるでもなく、心の底を羽箒で撫で上げるような曖昧で弱い何らかの予感だけがあったので、黒白の双子の片割れが何を言うでもなく大社跡へと発って四半刻ばかり。
いやに静かで大型モンスターの気配が遠い。
岩山を翔け上り、見下ろす沢には数頭のケルビが悠長に跳ねて行き過ぎた後、水の流れ落ちる音しか響かない。
何かが気まぐれに作った螺旋階段のようなぽつりぽつりとせり出した浮島のような足場を飛び渡って、いつもの場所へ。
かつて祈りと風車の羽音に満ち、今は寂しさだけが残る廃亡の杜を見下ろす岩の頂上。
遮るもののないそこには冴え冴えと白い月が冷ややかな光を投げ落としていた。
眼下の杜は影絵のように黒く夜の底へと没し、高所を吹く風のうねりが雲を押し流す。
彼女は海というものを寒冷群島の冥府じみた光景でしか知らないが、深い水底から見上げる世界を脳裏にふと思い描く。頭上遥か遠くの透明な水面。
もしそうならば水面の向こうには何があるのだろうか。川面に落ちる木の葉のように何かが落ちてくることは。もし、そんなことがあったなら。
取り留めのない思考と同時に、月の真下で星が一粒瞬いた。――直後はそう思ったが。
南方の夏の海によく似た色の双眸が捉えたのは。
「どうして――――――!?」
と半泣きで叫びながら風に煽られて落下する、人間と思しきもの。
巨大タコをぶつ切りで焼いてお腹いっぱい、という期待が俄かに膨らみ、静かに弾けて消えた。
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「聞いてください!今変なことが起きたんです!」
「それ今見たかも知れない」
具体的には空から人が降ってくるとかいう。
カムラの里では一度も見たことのない顔だが、伝統技である筈の疾翔けで落下の勢いを殺してくるくる周り、門構えだけが残る平らな地面に降り立った夏日星からの侵略オロミドロ、もといオロミドロ装備のハンターが涙目でそう訴えた。
「此処に泉が湧いてて、飛び込んだらいつの間にか空から落ちてたんです!」
「そうなんだ」
とは言うが、ちょっとよくわからなかった。
確かに、大社跡で不思議なことが起こるという噂は昔からある。
だが本当に何かがあったとしても知る限りでは鬼火騒動。それもマガイマガドの鬼火だったというカラクリつき。
人が空から降ってくるという、あからさまにおかしな出来事は聞いたことがない。
「あの、あなたはハンターですよね?」
「うん」
「私もハンターなんです!すぐそこのカムラの里で育って……」
「カムラで?」
違和感はすぐにやってきた。
百竜夜行で一度は消えかけた小さな里。里付きハンターがしばらく不在で、碧い目の双子が新たに里付きとなったのは記憶に新しい。
見れば歳の頃も近く、なんというか、特徴的なのである。
本当にいたのなら顔見知りでない方がおかしい。子供の数など数える程のカムラで、顔も名前も知らないなどあり得ない。
「私もそうだけど」
「え?」
猫の耳に似たヘルムの内できょとんと目を瞬くハンターの娘も同じ疑問を抱いたらしく、かくんと首を傾げた。
何故だか地面にちょっこりと正座したハンターに倣い、横に崩した正座で彼女――にしきも向かい合って座る。
狩場のど真ん中で、立ち話もなんだから、とは実に呑気だった。
「んん?カムラって、カムラですよね?里長がフゲン様で」
「ギルドマネージャーはゴコク様」
「お団子屋さんはヨモギと」
「オテマエさん」
「おにぎり屋さんのセイハクくんが好きなのは?」
「コミツ」
鏡と言葉を交わすような隙間のない会話。
おお、と二人同時に小さく感嘆し、恋心がバレバレな少年にほんの一瞬思いを馳せた。
気を取り直してもう一問。
「じゃあ、狩猟を教えてくれたのは?」
「ウツシ教官」
それだけ聞けば、答えれば、両者の間に自ずと結果が見えた。
信じ難いことではある。
借り物の空想小説にだってあるかないかの途方もない話だ。
思い描く過去の何処にもいないカムラのハンターは、確かに此処にいる。
いかなる奇縁にか、誰も意識することのなかった透明な境界を破って、紫天の宵の玉響に。
「別のわたし?」
「私は私」
林檎飴の色がニコ!と嬉しそうに輝いた。
碧色は初対面には判りづらい程、微かに。
「わたしユキミ」
「にしき」
焔と焔はこの日、出逢った。