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    ミイラ尾(2)横書きにした

    #ヴァシ尾
    vasiTail

    ミイラ尾(2)ミイラ尾2

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     夜更かししてはいられない。
     翌朝、月曜日、快晴、いよいよサマースクールがはじまった。
     朝十時、博物館の敷地内に隣接する別棟に入れてもらう。保存修復部門はここに集中している。
    「やあ、諸君!」
     講師の英国紳士はロマンスグレーにジーンズとTシャツ。わかわかしく、尻あがりの大声、ほがらかな人物だ。これからまずは二週間、彼のもとで収蔵物の保存修復、予防保存について学んでいく。
    「修復をするには、まずその作品の状態を調査し、それを踏まえたうえで、適した処置を施さなきゃならない。人間のからだとおなじさ。胃がわるいのに脳を切られちゃたまらないだろう。修復というと、綿棒での洗浄や、欠落部への補作を想像するだろうが、一に調査、二に調査。未来のために、修復前の状態をかならずレポートに残しておかなきゃならない。意外と書類仕事もあるのさ」
     参加者は三十人、うち英国人が十人、北米から十人。おなじ英語圏だからだろうか。彼らはよく質問し、よく発言する。ほかにはフランス、オランダ、フィンランド……、ヴァシリのように大学で学んでから、不安定なアソシエイトを脱するため、という参加者もいれば、まだ物見遊山の大学生も、現役の専門職も研修で来ている。能力も年齢層もばらばらだ。だが、みな語学が達者だった。自己紹介はなんとか切りぬけた。講義の予習をしてきたため、かろうじて振り落とされなかったが、聴きとりに骨が折れる。技術を学ぶうんぬんのまえに、英語で詰みそうだ。
    「このクラスでは基礎を学んでもらう。まだ諸君に、実際の修復をまかせることはできない。なん名かは上級クラスに応募してくれているね。たのしんでやっていこう」
     ひとり、日本からの女子大学生が参加していた。彼女も冷や汗をだらだら流しながら、半笑いで食らいついていた。英語か。英語だな。無言のまま、両者には仲間意識がうまれた。
     昼食は歓迎会を兼ね、ブッフェ形式で大皿がならび、関係者のみ立ちいれる裏庭のデッキで食べた。講師は、セミナーはコンパが九割と豪語する。昼だからもちろん酒はない。ヴァシリはレモネードがうれしかった。空はよく晴れ、庭にはバラが満開だが、ヴァシリの関心は博物館図録に釘づけだ。
     きのう出くわしたものたち。
     尻をやたら強調してきた、うずくまるアフロディーテ。ローマ時代に好まれたモティーフで、似たようなポーズの像がエルミタージュにもあるのを見たことがある。チェスのクイーンはハリー・ポッターに登場した、ルイス島のチェス駒。象牙ではなくセイウチの牙だった。
     有名どころは、まあいい。
    「あった」
     これで殴られた。チベットの金剛杵。両端とも湾曲した形状のものしか知らなかった。片側が鈴だから、金剛鈴という。
    「これで撃たれた」
     モザンビークのライフルの椅子、の背もたれ部分。
     一緒にいたハンドバッグの人形も、銃器を分解し繋げなおして作られたものだ。銃器の母。「武器をアートに」活動で作られた二十一世紀の作品である。大英博物館の収集は多岐におよぶのだ。
    「熱心だな」
     ロシア語が降ってきた。図録に影をつくる黒髪。あおいヘアバンド。日本人からの参加者、あの女子大学生だ。
    「そのミイラが好きなのか」
    「……べつに、こんなやつ、好きなんかじゃない」
     ミイラなんか見てない。だが、レモネードの氷がとけるまで、ヴァシリは踊り子のミイラのページを凝視していた。バステト神の像を探していたはずなのに。沈殿したきいろいシロップ、レモンスライスがむなしく浮く。
     芝のうえ、彼女はとなりに座るので、ヴァシリはできるだけ気さくに、会話をしてみることにした。
    「……ロシア語はうまいんだね」
    「そう、父がドイツ語もポーランド語もするのでいけるんだが。う~、なぜ英語だけ……ぐうぅ!」
    「はは。それだけできれば英語もかんたんそうだが」
    「そうはいかないんだよなあ」
    「おたがい、この旅でなんとかしたいものだ」
     自分のことに必死で、学友の名まで頭にはいっていない。彼女も同様だろう。
    「ヴァシリだ。こんなへんてこミイラに興味はない。専門は絵画修復だ」
    「アシㇼパ」
     彼女の瞳にはふかい紺青の星がまじっていた。さしだされたかぼそい手を握ると、思いのほかちからづよく握りかえされた。
     ミイラにも生前の固有名詞があるだろう。問うたら答えるだろうか。まさか「マクベス」じゃあるまい。教えてくれるかな。ヴァシリはたのしみになった。
     午後は陶磁器やガラス保存修復専門のマネジャーが講師となった。ジャブのような雑談が終わったところで、飛びこみの緊急の修復がまいこみ、講座ではなく実践の見学をする機会をえた。自然光にすぐれたラボだった。研修生たちは交代しながら、ガラス窓越しに高度な設備と技術を学べ、ヴァシリとアシㇼパは英語に負けずにすんだ。
     英国紳士は夜の歓迎会もおこないたそうにしていた。何人かはついて行ったかもしれない。ヴァシリは気疲れ、英語疲れした。アシㇼパも行かないという。
    「日本の法では、まだ飲酒しちゃいけないんだ」
     飲酒に、年齢制限?
    「まともな親に育てられたんだな」
     おおきなくちで笑っている。
    「フィッシュアンドチップスのほうが私にあっている。滞在中、毎日ちがう店をたずねると決めているんだ。うまい店が見つかるまで戦うつもりだ」
    「死ぬぞ……。ひとりで平気か?」
    「あはは!」
    「気をつけて。私は博物館を見ていく」
    「うん。またあした!」
     収蔵品が増えるごとに増築し、それらの修復・保管のためにまた増築をかさねた大英博物館、そのバックヤードは、迷宮である。古株の警備員でさえ、すべての扉、すべての通路を把握していない、とロマンスグレーは笑い話とも本気ともつかないジョークを言っていた。迷子にならないよう、正門から入館しなおす。
    「またあした、か」
     さよならのあいさつであるが、約束にもなる。あした、と伝えてきたミイラに律儀に会いにゆく。
    「眠っている」
     墨でえがかれたとおり、ミイラはおおきな目を見開いてはいる。きゅっと首をちぢこまらせ、肩をすくめ、腕を内側に折りこみ、手は指をそろえて腿に乗せ、図録のとおりでいる。窮屈そうに、乾燥して、人目にさらされている。それが、ヴァシリには、目を閉じて眠っているのだとわかる。
     夜行性なんだな。女神も猫もロゼッタストーンも眠っている。また夜に来てやらなきゃならない。
     これら奇妙なできごとを、ヴァシリはごく自然のこととして受けとめていた。


     ミイラは名を教えてはくれなかった。というより、おしゃべりをする意思がない。またあしたもこい、とは手を変え品を変えて伝えてくる。なんのために。押しつけられた金剛鈴をちりちり鳴らさせられ、用済みとばかり、追いだされた。
    「は?」
     ヴァシリはフンフン鼻息あらく、まだあかるいロンドンの夜を帰宅する。
     そんな一週間を、むやみにくりかえした。


     国際博物館会議の憲章において、博物館とは、歴史、美術、民俗、産業、自然科学などに関する資料を収集し、保管し、展示して教育的配慮のもとに一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーションに資するために必要な事業をおこない、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関として規定されている。
     うん、わかる。予習してきた。
     だが若手講師の話題が、ハイデガーの『存在と時間』になったあたりから、暗雲がたちこめる。黒森の哲学者は、モノの存在は人間の存在に関する「気づかい」のもとにつくられていると語る。たとえば、人間が雨をしのぐ「ための」モノが傘だし、水を飲む「ために」コップがある。
    「ここにハンマーがあるでしょ。本棚が壊れていたとしたら、こいつで釘を打つよね、ムカつくやつがいたらこいつで頭を殴るし。つまりそのとき、ハンマーは人間の『気づかい』によって『~のための』モノ、になる。でも『~のための』存在は、普段は意識されない。壊れて使えないときや、必要なのに見あたらない場合だけ意識される。屋根の庇とか。あたりまえに雨をしのいでくれているときは、なんとも思わないけど、雨が吹きこんでしまったとき、存在を意識する。いらいらとともにね。デザインもおなじだと思うんだ。人間が生活に対してもたらしたひとつの『気づかい』であるといえるんじゃないかな」
     博物館、美術館、展覧会というのは基本的にモノを集めて並べることだ。キュレータはモノをとおして自分の思想や世界観を表出するのが仕事ともいえる。モノを並べると、いろんなものが見えてくるのだ。そういう場をつくるために、モノの修復と保存にたずさわるのがわれわれ修復士の仕事だ、という。いうが、ヴァシリの理解が正しいのかわからない。
     文化遺物が存在するのは、私たち「のため」の「気づかい」である? 彼らは見られるために存在していて、そして修復士は、彼らが見られる状態であるために存在していて、私が絵画のケアをしたいというのは、ただのたいらな支持体のうえに油やなんだの成分がのっかっている絵画が存在するということ自体が、絵画が私に「気づかい」してくれてるってこと――、え、逆? それってあなたの感想ですよね?
     わけがわからなくなってくる。この講座の趣旨はなんなんだ。
     ヴァシリは講義中、なんども頭を掻きむしった。髪は鳥の巣になった。
    「ヴァシリ、生きてるか」
     休憩時間になるとアシㇼパとヴァシリはつるむようになった。できるだけ英語でしゃべろう、という約束で。
    「座学に負けそうだった」
    「午後は実技だから! 元気を出すんだ!」
     そういうアシㇼパの頭も鳥の巣だ。見まわせば多くの参加者の頭が鳥の巣になっていたので、おそらく今回は講師がわるい。英語のせいじゃない。月曜日にはじまったサマースクールも五日目、金曜日。疲れがたまった受講生たちは、あの講師に、みんなまとめていじわるをされたのだ。
     ロンドンの下町でテイクアウトしたベーグルサンドをもちゃもちゃ噛む。弾力がありすぎる。顎も負けそう。
     さらなる懸案事項がある。
    「また会いたい、と言うくせに、名前も教えてくれないって、どういうことだ……」
     ため息とともにつぶやくと、アシㇼパのあおい眼はきらきら、うるさいほどひかりだした。
    「恋のおはなし!」
    「ちがう」
    「そうかぁ。うんうん。ヴァシリはミイラだけかと思っていたが、そうかぁ」
    「ちがうって。ん、ちがわないか?」
     アシㇼパにはセミナー後、ときには昼の休憩時間にも、足しげくミイラのもとへかよっているのを知られている。隠すことではないし、とヴァシリはかるく捉えている。
    「名は言えないとなると……、身分ちがいの恋かな。伯爵令嬢とか。会いたいと言っているのなら、脈はある! んも~、いつの間にそんな相手と出会っていたんだ。出会いはどこ。博物館?」
     ヴァシリはベーグルをもちもちしつつ首肯する。
    「だよなぁ! ヴァシリはせっかくロンドンまで来たのにバーにもフィッシュアンドチップスにも行かず、ミイラの周りばかりウロチョロしているものなぁ! そのひともミイラ好きなのかな?」
     もちゃもちゃ、噛みきれない。飲みこんでしまえ。
    「ごくん。……というか、ミイラだ」
     アシㇼパはヒュッと息をのむ。はじめて見せる表情だ。ランチでざわついていたバラの庭園に、天使がとおった。
     英語で雑談に挑戦したのがよくなかった。ヴァシリの不名誉な噂は、またたくまに大英博物館じゅうをかけめぐった。
     ミイラに「会いたい」と言われた男――!
    「ちがう、恋のおはなしじゃないっ」


    𓃠𓃠𓃠𓃠𓃠𓃠


     ボォーン、ボォーン――、古時計の鳴るような、不安感と安定感をともなう耳鳴りがあった。わずかな凪。はっとしたとき、あたりに人影はなく、照明はおとされうすぐらく、ショーケースのなか片膝たてて身をおこしたミイラの、ぽかんとこちらを見つめているのがあった。
    「や、これは、ちがうっ」
     ヴァシリは両手をばたばたふった。ちがうって、なにが。腕時計を見ると、すでに閉館後である。警備員や監視係はなにをしている。どうして一般客の私を追いだしてくれない。だいたいミイラがぽかん、てなんだ。表情があってはだめだろう。壁画も、死者のマスクも、みな一様の無表情じゃないか。
     ミイラが手をのばす。強化ガラスが、ラピスラズリのたゆたうようにあおく透け、そいつが現実世界へやってくるための扉となる。
     土曜日、セミナーは休み。ヴァシリが怪奇にであって、七日目になる。二日目から六日目、いや一日目もだ、ヴァシリは閉館後に招きいれられたのだった。こんなふうに美術品との境界をなくしたように、館にとり残されたのは、はじめてだった。ぞくりとする。ミイラの間、踊り子のミイラと名づけられた由来不明のミイラ以外のミイラたちと、その棺までもがじろり、じろじろ、こちらを見ていた。半人間、半屍体、半美術品というおそろしい存在のグロテスクが、かなしげに問いかける目が、そろってヴァシリを見つめたのだ。
    「おい。まいったな……。しゃべれないだけじゃない、おまえたち、息もしないんじゃ……、無音は、なんか……はぁ。こまるな」
     うろたえてしまったのも嫌になる。嫌といえば、ミイラ男に夢中になったまま、博物館と融合したように俗世から忘れられたもの嫌だ。一週間もまめに「またあした」の約束を守りつづけたのも馬鹿らしい。またあした、またあしたを、いつまでやる気だ。先が見えないのも落ちつかない。さらに重ねてしまえば、このミイラ男はヴァシリを呼んでなにをしている? ふだんは正門をはいってすぐのところで待ちわびている。チベットの顔のついた金剛鈴をヴァシリにおしつけ、鳴らせとジェスチャーする。鳴らしたら鈴をひったくるように回収し、はいサヨナラまたトゥモロー。質問も不満もなにも、くちにさせやしないのだ。もう来ない。もうあすは来てやらない。それでもまだ、またあした、シェイクスピアが詠う。
     よし。さっさと帰ろう。鈴を鳴らせばいいのだから。
    「ほら、はやくよこせ」
     てのひらをさしだすと、展示台を降りようとしていたミイラ男は、くっきりした縁どりの目をいっそう見ひらき、まっくろな瞳を比例しておおきくさせた。皮膚がひっぱられ、つられるのか、半びらきになったくちびるで、ヴァシリの手に自分の手をのせ、さらりとした手、ぬるりとこちら側へやってきた。
    「ちがうっ!」
     べちんっと払い落とす。しまった、必要以上にちからがこもってしまった。三千だか四千五百年だかの遺物を損なったら大損失だ。
    「えっと……」
     あたふたミイラを伺う。するとミイラはくちだけでうすぐらく笑った。くそ、と吐き捨てられたらどれだけ楽か。またやってしまった。――彼には、人格がある。
    「……ごめん。痛かったか」
     もういちど手をさしのべる。ミイラ男はヴァシリをたっぷり睨んだ。ヴァシリのゆびを、くんくん嗅ぐ。嗅覚あるのか?
     ミイラは、もっとくちのうまいやつを選んだらよかったんだ。もしくはミイラが、もうちょっとましにコミュニケーションをとれるやつだったなら。ヴァシリは自問と沈思のぬかるみに足をとられる。
     本人の知らないことだが、こういうとき、ヴァシリはじっと見つめるような視線をもつ。赤ん坊のようなみずいろの目が、赤裸々なあおい瞳が、じっと一点を見る。その焦点が今回は、ミイラの黄金比の深淵の、燃焼するその黒の一点だった。視線とは、したたかな力学だ。とくにかわいたミイラにとっては。燃焼するのは隕石で、命だ。夢のなかで天のかけらが無数に降ってきてぶつかる。無数は無数だ、とにかく無数の、天からのかけら、宇宙の塵が、ぶつかりあって命が燃えた。
     ヴァシリはきゅっと握った両手を、ズボンのポケットにしまいこんだ。砂がざり、と鳴った。
    「あけっぱなしの手は、さみしい」
     これを決め手に、ミイラはヴァシリの手をひっぱりだし、とりなおした、腕ずもうでも挑むように。ヴァシリはそこに桜色の爪を確認する。つい見てしまう、わかわかしい、やさしげな色なのだ。砂のように乾燥していたはずのミイラの手に、脂とも汗ともちがう、純粋な水のようなうるおいがあった。ぬくみがないのは、緊張のためだと思わせるような、人間らしさのある手。
    「水分量、増えた……?」
     ミイラも首をかしげた。
    「なあ、おまえ、ちょっとは譲歩しろよ」
     語りかけると、彼はすこし考えるようにし、うなずいた。こんなにやりとりが成立したのははじめてだ。ヴァシリは掴みあっているほうのミイラの腕を、わきに挟みこんだ。捕らえた。
    「聞きたいことがいっぱいある。わかってるよな? でも、おまえは答えられない。おい、とか、おまえ、ばっかりはなんか嫌だ。なまえくらいは、教えてほしい。どうしたらいい」
     ミイラは目をぱちぱちさせた。それから魔法を使うときのゆびふり。蛍光灯がバチバチはじける。浮かびあがる水銀、察するに象形文字。
    「んん?」
     ミイラが書いたのはクエスチョンマークを左右反転させたような、ゼンマイのような、うずまきの一辺を下に垂らしたような形だった。
    「なまえか? ヒエログリフで?」
     ミイラが半分うなずく。半分正解なのか、名の半分なのか、真実を教えるつもりはないのか。よくも器用に首をかしげながらうなずくものだ。どちらにせよ、
    「読めない」
     ミイラがまたぽかんと見あげてくる。
    「読めない。発音できない。意味も理解できない」
     ミイラがくちをひき結ぶ。
    「不満そうにするな。私はべつに考古学者じゃないし、古代エジプトには興味がない。……選ぶ相手をまちがえたんじゃないか。大英博物館なら有能な研究者がいっぱいいるだろうに。ぐるぐるはおっちょこちょいなんだな」
     ぐるぐる、と呼びながら、ヴァシリもその文字を宙に書く。ぐるぐる呼ばわりは拒否された。ミイラをわきに挟んだヴァシリの腕を、こんどはミイラがわきに挟みなおして、さして広くはないミイラの間を、ヴァシリをひっぱり歩きだす。つまさき立ち、ルルベの歩行。
     副葬品のコーナー。ピンクの爪でつんつん、ガラスをたたく。
     大英博物館の展示物のほとんどは、歴史的価値のつけられない人類の宝だ。そのため説明は不要。長ったらしい説明文は併記されていない。最小限、補足的に文字があるのみ。そこには、こうある。ファイアンス施釉陶器。先王朝からローマ時代まで、各時代をとおして製作された、古代エジプト特有の焼物。当時のことばで、チェヘネト。
    「チェヘネトくん?」
     ミイラ男はゆびでバッテンをつくる。
     ファイアンスとは、石英の粉末に天然炭酸ソーダを混ぜ、成形し、そのうえにアルカリ質の釉をかけて焼成したもので、特に青色がすぐれている。いくら専門ではなくても、修復士志望ならだれでも知っている。ヴァシリはバックパックから図録をとりだした。
    「ファイアンス施釉陶器、っと」
     杯や鉢といった各種容器、中王国時代のカバの像をはじめとした動物像、人物像、アミュレット、ビーズ、サッカラのピラミッドの地下通路の青釉タイル。一般向けのその図録には、大英博物館が所蔵するファイアンスの焼物のすべては網羅されていない。量が多すぎるのだ。
     紀元前六百年から三百年にかけて、ファイアンスのミイラの棺型の人物像に、良質なものがそろっている、とある。王たちの墓からは、そのちいさな人形をおさめるための特別の箱まで用意されて、なかから四百から七百ものそれが発見された。王族のみならず、貴族や神官、副葬品を用意できる身分のものたちは、こぞってこのミイラの人形を墓におさめている。副葬品としてはありふれすぎている。そのありふれたもののひとつが展示されている。
     ミイラの棺型の人物像、殉葬の代替、量産型副葬品。古代エジプト語で、ウシャブティ。
     ミイラはゆびのバッテンをといた。
    「ウシャブティ?」
     彼はうなずかない。だがゆびでちいさなマルをつくる。
     ヴァシリはおぼえず大声がでた。
    「嘘だ! こんなの、なまえじゃない。ウシャブティ『答えるもの』だって? さっき私が『答えられない』と言ったのへの嫌味か。『答えるもの』『ここにおります』『私がいたします』?」
     古代人がウシャブティを埋葬したのは、死者が死後の世界ですべきあらゆる仕事を、代わりにさせるためだと『死者の書』にある。
     死者たちがミイラになるのは、死後の世界へ行くためだ。肉体を保管しておかねば、死後の世界で生きられない(なのに脳味噌は捨ててしまう。鼻水を発生させる装置と考えられていたのだ)。世知辛いことに、死後の世界でも、ひとびとは食べていくために、麦を育てなければならない。野を耕し、地に水をひき、東より西に砂を運ぶ――そのすべてを命じられて『ここにおります』『私がいたします』と『答えるもの』が、ウシャブティなのだ。ヴァシリはいまさらながら、ぞっとする。先日ここでマグナ・カルタを見たばかりじゃないか。それから八百年かけて現代、人権や自由がようやく世界に行きわたるか、行きわたらないか、やはり行きわたらないのか、というところ。
    「奴隷だったのか」
     だがミイラはつよく否定した。それからくびれた腰をぐねりとまわす。人間ばなれ、とまでは言わないが、鍛えられたものの身体のつかいかた。
    「なんだ?」
     彼は足の拇指をしろくして歩く、あの跳躍のような、ふわふわと浮遊するような歩きかたで、ミイラの間のあちこちをゆききし、目だけしか動かさないミイラたちから借りものをしてゆく。ゆびさきにちいさいシンバルのような青銅の楽器をつける。金のたいらなコインをうす布の端に等間隔に縫いつけた、あかいヴェールを腰にまとう。コインがすれてチリチリと鳴る。
     シャン、シャン、ヂリヂリ。
     音が生まれはじめる。
     跳躍、跳躍――。メソポタミア、シュメールのゾーンにまではいっていく。
    「あ、待って」
     どこから取り出されたのだか、弓形ハープ、牛頭のリラ、銀の管楽器、シストラム、長棹リュート、枠太鼓、葦笛、樽型両面太鼓、金のトランペットが、古代の音色を奏ではじめる。演奏するのは、石、テラコッタ、紙の楽師たち。自由すぎる鼓笛隊になって、飛び跳ねるミイラのあとにつづく。大英博物館の収蔵品は約八百万点。そのうち常設展示はたったの約十五万点。修復や解明を待つおおくの収蔵品たちが、バックヤードに眠っている。まさかそれらが起きだして、ほいほいミイラについて行くのか。
    「ちょっと待てって」
     ヘレニズムのブラックオニキスの首飾り、タヒチの黒蝶貝、やがて、なにが、いつの時代の、いずれの地域のものかもわからなくなる。ミイラ、ちゃんとお片づけできるのか。
    「嵐みたいなやつ」
     追いかけて、走って、ミイラがヴァシリを待ち受けていたのは、ギリシャコレクションの広間だった。縦長のその大広間には、両壁にかずかずの白亜の大理石の彫刻、パルテノンの至宝が並んでいる。展示室の配置としては博物館にはいってすぐ。つまり大勢の観光客が、とりあえずお目当てにやってくる場所であり、人間の大群がいないと、ひえびえと感じられるほどの広間。そこが、とんでもないことになっていた。
     ちいさな楽人らがギリシャの彫像の台座に位置をとり、席をゆずった先住の彫像たちは、めいめい床に座りこむ。ギリシャ彫刻たちは見物客かとおもいきや、手拍子・謡を担当するようだ。大理石のてのひらを打ち鳴らすな、欠ける、こわい。それらの中央で、ミイラは、彼こそがギリシャの神になったかのように、反りかえった流麗なポーズ、ヴェールの襞、繊細なゆびつきで静止している。
     それからのことを、ヴァシリは言語化できない。
     頭で分析し、理性で納得しようとするのは、間違いだ。
     マリインスキー・バレエを見たことがある。ロイヤルバレエ団のプリンシパル、パリ・オペラ座のエトワール、世にうつくしい踊りはいくらでもある。誹りをおそれずにいうなら、この背面半分はボロの亜麻布を巻きつけたままの、からだの不自由なミイラの舞踏は、さほど技巧的ではない。ルネサンス期、イタリアで生まれ、フランスで発展し、ロシアが究極までたかめたバレエには、とおくおよばない。バレエと比較するのもまちがっているのだ。現存するどの踊りとも、来歴を異にする、秘められたまま世界から忘れさられてしまったがゆえに、この世でもっともうつくしいステップがあった。
     そもそもヴァシリは観劇や映画鑑賞が苦手だ。席にしばりつけられ、相手のあたえる一定の時空間を受容しなければならないのが苦痛だ。つまらないと感じたら早送りなり、停止なり、席を立つなり、自分で決めたい。博物館や展覧会はいい。自分のペースで体験、発見を行える。彼の舞踏は後者にちかい。距離のせいで彼のおおきさは豆粒ほどなのに、まるで目のまえで、耳のそばで、頬をよせるように、舞われている。ヴァシリのためだけに踊られているとわかる。
     いまミイラはステップもなく、手をひらひらとうごかしているだけだ。それなのに、なんだろう、このふかい感興。自我が鎔かされる。手招いている。なにかに背をおされるように、ヴァシリはちかづかされる。一歩、ゆっくりと、おおきく、掬うような、一歩。ミイラのつまさきも、ちかづいてくる。一歩、一歩、しなやかな脚の、円を描くように。
     皮膚がふれたかに思えた。あまいにおいがした。バニラとシナモン、ちがう、コーラの炭酸、はじける、あまい。鼻をよせると、ミイラは目をほそめる微笑、ヴェールをひるがえし、目くらまし、一息のステップで射程から逃げた。
     ゆびのシンバルがじりりと擦りあう、心臓をひっかく、もどかしい音色。脚とともに巻きあげられたあかいヴェールのコインが歌う。ミイラが反る、ひかり、撥ねあがった胸の真珠のネックレスの、天たかくかがやく。大理石の床をうちつけるステップ、手拍子がついてくる。弦、弦、弦が、うなりすぎてロック音楽よりうるさい。ミイラの腰がまたぐねり、うねる。流し目。いつのまに施したのか、孔雀の碧の目化粧が、こめかみまでふとく、切れあがっている。肉体は官能をもよおしながらも、無心にたわむれる子供の純粋さがある。恍惚のくびすじ。神と遊ぶとは、このような瞬間を言うのだ。いつの間にか、ミイラはふたたび眼前に迫っていた。清涼なかおり。ミイラの腰、ふかいピンク色の腰布が、またうねる。胸にクロスする革紐が肉に食いこむ。どうして彼は汗をかかないのだろう。不思議に、悔しい。彼の汗を見たい。味を確かめておきたい。そのステップと跳躍が残せないのなら、せめて汗を残したい。いつしか、心から、あついものが湧きあがり――、
     ぶつん。
     音楽はとぎれる。
     とぎれてそこに、うるさいほどの音楽があったと思いだす。
    「ああっ!」
    「あぶない!」
     叫んだのは、楽師か、神々か。
     ミイラが卒倒した。大理石の台座に頭をかすめてひっくりかえる。
    「おいっ!」
     ヴァシリの、つかめそうだったなにかも、とぎれる。欲しかったものは、なんだっけ。
    「どうした。エネルギー切れみたいなのがあるのか。もうっ、驚かせてくれる」
     ミイラはいつもの窮屈な、眠っているときの状態にもどっていた。顔だけが動く。へらへら笑っている。腰がすこしだけ動く。
    「わかってる。奴隷じゃないのは、わかった。ごめん。相当の鍛錬を積んだんだろう。誇りがあるんだな。神々にちかい職業だった? 踊れる神官、とか……よく知らない……すまない……」
     踊り子のミイラ、という彼に与えられた作品名はまあまあ適切だったのだ。
    「じゃあ、踊り手のウシャブティ、とりあえず……ウシャブティでいいんだな」
     ウシャブティはまた器用に半分、うなずいた。


    𓃠𓃠𓃠𓃠𓃠𓃠


     セミナー七日目、ウシャブティとの邂逅から数えれば十日目。
    「え、アシㇼパは修復士志望じゃないのか」
    「うん、キュレータ……、学芸員というんだが、日本じゃ分業がすすんでなくて、学芸員はなんでもするなんでも屋さんで、私はそれを志望している」
     いわく、出品交渉から広報、調査、運送、保険、展示造作、なんでもやるのが雑芸員、もとい学芸員。
    「日本の学芸員はクーリエもやる。欧米のキュレータとちがって、じかに作品にふれることもあるのが、おおきい」
     クーリエは貸出先の美術館まで作品を運び、状態を管理し、開梱、展示、撤去、梱包といった、行ってきますから、ただいままで、移送のいっさいを仕切る業務をいう。欧米の美術館にはクーリエ業務にあたる、レジストラという専門職が存在する。彼らは運送される美術品に可能なかぎり密着し、状態の管理をするのが仕事だ。展示に適した気温、湿度でなければ作品の梱包を解いてはならない。美術品に関する相応の知識がなければつとまらない。そのうえ、飛行機便ならまだましだが、船便なら数日がかりの旅である。どこでも眠れ、体力があり、どんな地域の料理でも食えなければならない。言語につうじ、体力があり、ひととのあいだに垣根のひくいアシㇼパならできそうに思った。フィッシュアンドチップスに勝つつもりでいるほどだ。
    「だから修復の知識も身につけておきたいんだ」
     ヴァシリにはぜったいにむりだ。保険の手続き、出国の手続き、手続きのための手続き、まして新聞社やテレビ局をとおしての広報……、むりだ。
    「ちなみに私以外にも、いろんな分野のメンバーがこのサマースクールに参加している」
     ヴァシリのような修復・保存を担当する修復技術者志望者のほかに、マネジメント担当のアドミニストレータ(資金調達)、美術教育やワークショップなどを担当するエデュケータ(教育担当学芸員)、調査研究・展覧会企画をまとめるキュレータ(学芸管理者)など、協働関係にあたる専門職やその志望者も混じっている。アシㇼパは呆れながらも、彼がどこの美術館のキュレータで、彼女はエデュケータ志望のなになにで、とヴァシリに教えてきかせた。
    「知らなかった」
     どうりでコミュ強の陽気なやからがまじっているわけだ。キュレータなんて、ようするにお祭り野郎だ。おおいにヴァシリの偏見であるが。
    「ミイラにばかり夢中なせいだぞ。この業界、頻繁に博物館や美術館同士で収蔵品をかしだしあうんだ。変にめだってないで、所属と名前と得意分野もおぼえておいてもらっておけ」
    「変に? めだってたかな」
     ミイラに恋した男、と噂されているのは把握している。「ミイラに魅了にかかったあわれな男」「そのくせ『あんなミイラに興味はない』とか言いはってる」「なぞのツンデレ」「ぜったい好きじゃん」「対物性愛ありよりのあり」仮にも学友にむかって言いたい放題。修復士のみの集団にあらず、キュレータが混じっているのならうなずける。むろん、ヴァシリの偏見である。
     噂話がはいってくる程度には、耳が英語になれたことを実感する。
    「ついにロマンスグレーまでもが、踊り子のミイラが盗難にあったら、まっさきにヴァシリを疑わなきゃって」
     その悪名は初耳だ。
     踊り子のミイラについて、大英博物館の刊行する歴代の図録をとっかえひっかえし、公開されている範囲はとことん調べた。それ以上のことは、ロマンスグレーの紹介で、ミイラの解説者(インタープリター)を担当するエデュケータに話を聴きにいったりもした。セミナーと無関係の部分でおかしなくらい熱心であると、プログラム参加者にも、おおくの職員にも、知れわたってしまっている。講義のあとにはかならず眠るウシャブティを見に行っていることまで、どういうわけか知られている。「セミナーが休みの土日まで来て、ずっとミイラのまえに立っていた」と言いふらした警備員もいる。だが一時的とはいえ教え子を、盗人予備軍呼ばわりとは。
    「冗談がきつい」
    「ふふふ、イギリスイギリスゥ!」
     筆記具やタブレット端末をしまう。
    「踊り子のミイラ、どこらへんが魅力なんだ? そんなにすてきなら私もじっくり見に行こうかな」
    「一緒にくるか」
     いい考えだ。ヴァシリは行こう、とアシㇼパを誘った。アシㇼパはにやにやしだす。語尾をのばして、からかうときの、変な顔をなる。
    「いいのかぁ? ミイラがやきもちを妬かないか心配だなぁ」
    「アシㇼパ、いくらうつくしくとも、相手はミイラだ」
    「聞いたかっ、みんな! 言った! うつくしいって言った!」
     三十人がかりでどつかれる。「やっぱ好きなんじゃん!」「まじで応援する」「盗むなよ」「俺も推し半跏思惟像に会いてえ」キュレータが混じっているせいだ。ヴァシリはぐるぐる唸って威嚇した。もういい、行こう行こう。


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