愚行 大きくてきれいに舗装された道のすみ、ごろりと横になって珍しいペールグリーンの髪の隙間から遠くケファレを見上げていた。暖かくて柔らかい光は、ついぞ故郷では見なかったものだ。この暖かい"光"というものは、もうここ永遠の聖都オクヘイマにしかないらしい。
先日滅ぼされたばかりの故郷では作物は実らないし、動物達は痩せこけていた。
神よ。世を背負うケファレよ。
ここにおわしたならば、何故助けてくれなかったのですか?
ー・愚行・ー
つい先日オクヘイマ入りした生き残りのうち、一人の子供がどうやら黄金裔であるらしい。アグライアは自身の金糸にかかった子供の動向を知るために雲石市場へとやってきた。子供はもっと外縁の道端で死んだように転がっていると知っている。無気力に転がってすでに2日。黄金裔であるのならばこんな事で死にはしないだろうが、そろそろ、とりあえず何か食べさせなければいけない。
オクヘイマに入った時にはたったひとり、生き残りのキャラバンに混じって虚ろな目をして自分自身を抱きしめながら入ってきたように記憶している。
よくある不幸といえばそれまでの話ではある。アグライアはそんな不幸を比喩ではなく何千、何万と見てきた。絶望の淵に佇む人間には同情も慰めも功を奏さないと知っている。だから一旦保護して、然るべき時に彼が黄金裔だと告げようと。そうすれば憎しみにせよ悲しみにせよ怒りにせよ、生きる為の気力のようなものを得られて、ここで意義のない死を迎えずにすむはずだと。
火を追う旅は長い。
道半ばで亡くなる黄金裔を見なかったわけではないから、立ち上がらないのならそれはそれで構わないものの、わざわざ積極的に喪わずともいいはずだ。アグライアは千年かわらぬ外縁を、小さな籠にいくつかの果物を入れて歩む。
難民は皆きちんと保護しているから(それが反発を産んでいるのは重々承知の上で)当たり前に……所謂、浮浪者の類はひとりもいない。その中で極めて異質な、道端に転がる薄汚い子供。
「こんにちは、アナイクス」
金糸は彼の様子を目で見るより正確に教えてくれる。美しい容姿が酷く汚れている事、酷くやせ細っている事、呼吸が深く遅く、生きる気力が失われている事。
「街に入りたくありませんか?」
子供はぼんやりと横倒しに回廊と空を眺めているだけで返事はない。アグライアの事も見えていないのか、無視をしているのか視線もあわなかった。
死を望む絶望を知っている。
死を拒む絶望も知っている。
「アナイクス」
みすぼらしく汚れた頬に手を伸ばす。痩けた頬は子供とは思えないほど水分が少なく、触れていると傷をつけてしまいそうなほど。
この子くらいなら運べるだろうか。
果物を籠ごと大地獣にやってしまい、痩せて骨と皮になった腕をとりあげた。細い。この暖かな光の届かない場所は一面の夜であるから、もともとろくなものを食べてはこなかったのだろう。軽い骨、痩せた肉。この子は大きく……所謂屈強にはなれないだろうと思う。
腕を肩にかけ、骨ばった尻の下に腕を差し込んで持ち上げる。
「同じに死ぬにしても、餓死は辛いものですよ。どんなに無気力でも、覚悟があっても無意識に何か口にしてしまって何度も飢えの苦しみを味わいかねません。生きた肉に蛆が湧いても、水一滴で生き残れてしまう可能性もある。貴方は若いですから……死ぬのにも一苦労ありますよ。どうでしょう。もう少し生きてみても良いのではないですか?」
歩きながらゆっくりとそう伝えると、ぷらぷら揺れていたアナイクスの手は、力なくアグライアの背中に回った。
目が眩むほど美しいオクヘイマの柔らかい風を全身に受けながら、随分近くなったケファレを見上げている。さわさわと入り込む風が心地よく、時折肌を撫でていく天蓋の布はまるで姉の手を思い出させる優しさ。
屋敷には沢山の布や糸がそこかしこにかけられていて、染色したあと干されている布が風にはためいて落ちそうになった。あ、と思ってすぐに起き上がる。納得の仕上がりではないにせよ、買手がついたので色を入れて卸すのですと言っていた。まさか風に攫われたり落ちて汚すわけにもいかない。今のアナイクスの仕事といえば布の見張り、それだけなのだから。
あれから二十日たった。
アナイクスはすっかり子供らしい瑞々しさを取り戻した所だ。体力だってかなり戻ったところ。
「っ!」
慌てて掴もうとした布は、ひらりと窓から出ていく前に糸に阻まれたようにはためきながら止まる。それから背後からたおやかな腕、手のひら、指先が伸びてアナイクスの腕を掴んだ。
「あまり無理に走らないで。まだ本調子ではないのですから」
「アグライア? 戻っていたんですか?」
「貴方が駆けだす姿が見えたので慌てて戻りました。布の見張りをありがとうございます」
しろく柔らかい手は糸を手繰り寄せ、風に攫われそうになった布を掴む。
「どうでしょう。貴方から見て美しく染まっていますか?」
手渡された布はどこも美しく染まった深緋。盲ていて、こんなにも色ムラなく染まるものかとため息が出るほど。厚みだってしっかりとしていて弾力があるように感じられるほどだ。
「よく染まっています」
「ありがとう。もう一度染める必要はありますか?」
依頼主から渡された見本と見比べるに、もう一度は必要なさそうである。アナイクスはいいえと言い、これなら依頼主も納得の出来でしょうと言った。
もともとアグライアは織った布の染色は請負って居なかったらしい。当然盲ているので、色の判別までは難しいから。なんとなく手触りで色の染まり具合くらいはわかるのですが。それが依頼の色と同じかはわかりませんので。アグライアはそう言っていた。
優しく頭を撫でられて姉を懐う。
こんなに優しい人ではなかったし、やんちゃで潑剌とした人だった。けれどアナイクスにはいつだって慈しみを持って接してくれた人だった。少し歳が離れていたのもあるかもしれない。喧嘩の時には大地獣のぬいぐるみの首をもぎ取られた事がある。凄くショックで泣いた事もあった。なんてことだ、今更思い出した。きっとアグライアならそんな事にはならないのだろうと思う。
「商談にもどらなくても良いのですか?」
「これを届けてからにしましょう。ついてきてくれますか?」
「わかりました」
無気力に転がっていたアナイクスを保護してくれたアグライアに不躾であってはいけないと思ってきちんと聞いた事は無いのだけれど、とてもこれだけで生計を立てられるとは思えない商売の仕方をする。どころか機織り機はうすく埃が積もっていたし、糸車には布がかけられていて、毎日あくせくと働いているわけではないよう。それでも必ず、所謂夕食には食卓を共にした。アグライアの屋敷には驚くべき事に炊事場があり、外で何かを買い求める必要がないのだ。詰まるところ富裕層であるように思う。毎日殆ど育たない作物の為に水を撒いてまわったアナイクスなどとは育ちからして違いそう。
手を引かれながらオクヘイマの市街地へ。布を引き渡すと、神に感謝を捧げるオクヘイマ市民に大袈裟なと少し笑ってしまった。確かにアグライアの美しさも献身もまるで伝え聞く神々のよう。けれど決して神ではない。
神であったのなら、どうして助けてくれなかったのかと恨まなければいけない。世を背負っているくせ、誰の事も助けようとしないケファレのように。だからアグライアの事を、冗談でも女神のようとは褒めたくなかった。そんな妄信的な人々の事も疎ましく思う。
「私は仕事に戻りますから、ここから一人で帰れますね?」
「はい。きをつけて」
盲ていてもそれを感じさせないほどひとり歩きが出来、人と目をあわせる事さえできるのだからただ頷くだけでもアグライアはわかってくれるだろう。けれどアナイクスは敬意を持って全てを口に出している。色の濃淡はもとより、ひとつひとつの些細な返事に至るまで。
彼女は死ぬ辛さを知っていた。それを選ぶにはアナイクスが若く、より長く苦しむ事も。彼女に救われたのだから彼女の望む生き方をするのも悪くはない。姉のように、母のように慕わせて欲しい。せめて、ひとりで生きていきなさいと突き放されるまでは。
更に十日。
陰りの無いオクヘイマに雷鳴が轟いた。
貴方はここで待つように。ラフトラ1体を置いて出かけるアグライアの背中を黙って見送った。焦りと緊張で心が焼けていく。姉のように、母のように喪うのかもしれない。大人とは子供を庇護するものです。そんな慈しむような微笑みと共に行ってしまったけれど気が気でない。
アナイクスはうろうろと屋敷を彷徨い歩きながらアグライアの帰りを待つ事しかできなかった。子供の手足が思うより短い事、力が弱い事、端的に言うのであれば足手まといである事はよく理解している。だからついていくよりここで待つ方がお互いに生存率が高い。そんなのは知っているけれど。