今日の続きを:Side L 体調や起床が気がかりだからと晴れやかな天気を願ったり、一週間の献立を決めてから週末の買い出しの約束をしたり、風呂場からシャンプーのストックを取ってほしいと叫んだり。そんな生活を共にしているからこその明日の描き方がある。
「何か朝晩は特に冷え込むらしいぜ。腹出して寝るなよ。あと明日の中に着込む服は準備しとけ。アイロンが要るなら……やっ、出来る。何だよ、その疑いの眼は。いつもやってるって。無事に…………無事に終わってる。すっげェ注意したらおれにも出来るってッ」
「ここ最近、少し魚のメニューが続いてた気もするけど、健康に悪ィモンじゃねェしよ。二人なんだから希望は言えよ。ローが食いたいって言うならそれが一番だ」
「一家族様、一パックまでェ? お一人じゃなくてッ? えーッ、よし、おれがいく。……一つと言えども油断しねェ。獲るべきものは勝ち取るからな」
そんな台詞を本人が何気なく言ってくるんだ。コラさんが本当に自然にそう――つまりは自分の生活におれと言う人間がいることが身に染みついているように話してくる。気づけば会話の主語はおれと自分、そしておにぎり。あの様子じゃあ本人も無意識だろうな。……コラさんだし。もしこれがおれを喜ばせようって言うならとんでもねェ人だよ。
おれは日々、実感する。コラさんの人生に確かにおれが含まれている。
「ロー、二週目の金曜日ってペットボトルの日だっけ? 缶瓶を出す日だっけ? これ、何だか毎週聞いちゃうよな。って、……な、何だ? どうした、ローッ。お前、握り拳を作りながら? ぷるぷる震えてんじゃねェかよ。おれがやらかして何か怒ることが……やっ、それよりも風邪か? 体調悪ィのか? 今日はもっと一緒にくっついて寝るか? その方が起きた時に温かいだろ」
おれがまだ何も言っていないのに、ありとあらゆる可能性を示したコラさんが先へ先へと行ってしまう。
そんなに焦らなくても大丈夫だ。
自分とコラさん、これは本当にどちらの肩を叩く言葉だろう。
「あ、それなら布団の取り合いになったりする? どうしよう、余計に風邪ひいちまうッ」
「ハハッ、互いにンな年じゃないだろ。相変わらず騒がしいな」
冬はつとめて。努めて。実る前の季節には人知れずの努力は要る。ローはいつも冷静だなッ、との評価を覆すことはなく。
「心配は要らない。おれの見立ては確かだ」
そう早く返してしまいたいが、最後の言葉を聞いてしまえば慎重にもなる。今からまだ何か飛び出してくるかもしれない。なァ、コラさん。言質って知ってるか。おれは奪ったそれは絶対に離さねェし、次からは良いように使わせてもらうぞ。
「風邪なら尚更にそうして寝る訳にはいかないだろう。それならコラさん第一に決まって、いる……。ッ、心寂しいが別……部屋一択だ」
「そんな無理矢理出したような声で……。喉も痛いのかッ? とにかく何かしらの薬があったよな。箱の中に風邪用の薬があったのはおれ、この前から何回も見てるからな。えーっと……って、その薬箱がいつもの位置にねェッ」
いや違うっ、まずは体温計かっ。熱い? 汗とかはかいてる? あなたの風邪は鼻から? 喉から? それともおれから? そう更に賑やかになるコラさんに少しだけ期待してしまった。そこにはいつもと異なり、表皮体温は実測より低く出る、この計測方法は外気に影響されるだのと、どうのこうのと口を出さないおれがいて――そして記憶にはおれの額に自分のものを重ねるコラさんがいた。風邪はひいていない。それは言い切れるが、こんなのどうしたって熱が上がるしかないだろ。
「それなら玄関だぞ。一昨日にコラさんがおれを見送る時に霜を踏みたいってはしゃいで、見事にすっ転んだからな。絆創膏を使ってただろ。とにかく風邪じゃない。ちょっと……噛みしめてただけだ」
「何を? おれのドジをッ? 嫌だ、ロー。呆れないでくれ。これはもう一緒に生きてかなきゃなんねェモンなんだよ。だからお前も抱えてくれッ。ッ、今また何でそんなに震えたッ?」
取り込みたいし、取り込まれたいとは常に思う。そりゃあ何をって全てを。とにかく人生全部を。それが何だろうか。この人は本当に……本当にさァ。何なのだろうか。普段と変わらないような声色でおれの体内の臓器全部に響くことを平然と言ってのける。その言葉がどれ程の破壊力があるかはわかっているのか? 目の前で慌てるコラさんに打ち震えるおれ、その異変を察して擦り寄ってくるおにぎり――皆、全員。おれたちの、今の家族の形。日頃は聡いおにぎりだが、今日に限ってはその賑やかなコラさんに遊ぶのか、との可愛らしい勘違いをしたらしい。そうしてコラさんの長い脚にふわりとした毛並みを示すように甘え出した。
「おっ、どうしたァ。……んー? そうだよな。ほら、ほらほらッ、この可愛い子もローが心配だってよ」
その温かで満たされるもののど真ん中にいるのに、おれは何だかこの空間を少し離れた場所で全力で抱きかかえるようにも見ていた。とにかく、自分の眼に映るもの全てを丸ごと愛したくてどうしたら良いのかわからない。
少し前におれの当番で終えた洗い物以来キッチンには静寂があり、部屋にはコラさんと辿ってきた思い出の写真が飾られている。曜日で分けられた分担表は今の生活の最適解だ。「今日は何曜日だっけ?」との声かけに始まり、ローだろ? コラさんだろう? とおれたちは互いに確かめ合う。案外と向こうの方がよく覚えていることも多いんだ。そうそう……覚えている、記憶が良いと言えばこの前はおれの子ども頃の自転車練習の話を引っ張り出してきたっけ。
「普段ガキのくせに落ち着いたローがよォ。コラさんはいるか、後ろに絶対にいてくれッ、って泣いて」
「そんなに騒がしくはしてない」
「おれがローのことを離すかよ……っつってようやく納得して前を向いてな」
「……そのとき確かおれより先にコラさんが転んでたよな?」
しかもバナナの皮で。……え、バナナの皮で? 言ってその状況にまた物申したくなった。だってな、おれが「離すなって言っただろ」との怒りをぶつけようとしたら、視界に相手がいなかったんだぞ。いつも思うがそうした果物の皮はそもそも、そんなに道に落ちているものなのか? 誰かが食った直後くらいの新鮮な黄色味でッ。どう言う状況だよ。コラさん、人が大切な成長の瞬間におれに内緒で食ってたってことはねェよな?
「ち、違ェよ。……多分」
「ワンッ」
笑い合って思い出を共有すれば、甘い果物の名、その特別な音に期待に満ちた反応があった。おにぎりがこうして会話に参加してくるのも珍しくはないことだ。
おれは玄関をくぐった瞬間に安心するんだ。家の中に入るまでには今は少し複雑だけど、その間に高鳴る、逸る左胸がある。大切な場所、大好きな家族。二人と一匹が揃えばこの上なく楽しい。
「……、ッ? ロー? ローッ、やっぱりお前、どこか悪いんじゃねェかッ。ぽーぅっとしてるぞ。とりあえず熱を測るか? ベッドに運んでやる」
大切な相手の運び方。おれがコラさんを抱きかかえたいんだよ、逆だろっと叫ぶのは本当におれだけの勝手になってしまう。でも今はどうしてもそうなるのか。コラさんにとってはそれは昔から馴染みのある自然なことらしい。と、前に言っていた。抱きかかえるように手前に出した腕は何とも正確におれと言う姿形を描いていた。いや、待て。おれはそんなか? 少し小さいな。絶対足りねェだろ、それ。おれはそのサイズには収まらない。そう素直になれない自分はいるが、断じてこれを嫌がっている訳ではない。おれが嫌な訳ねェだろう。そんなことあるはずがない。
「…………別に、本当に……大丈夫だ。ちょっと胸に来ただけだ」
「ハ? 胸って……それはヤバいやつなんじゃないのか? 少し横になれよ。ローが言うならそれを信じるけど寝た方が良い。お前、また無理してるんじゃねェよな?」
心配を体現するとこうなるんだな。慌ただしい身振り手振り、行動を起こしたいとする長い手足は全ておれがためにである。それをまた噛みしめたら、今度はいよいよ立ってられなくなった。世界で一番に愛しくて離したくない、渡したくない。形が定まらなかろうが、どれだけ大きくなろうが両手をこれでもかと広げて必死でしがみ付く。捕らえて、逃さないようにして、そして心の底から強く誓う。
ああ、おれは本当にコラさんが大好きだって。
今度はこちらを気にかけるべきだと思ったのか。おにぎりがおれの傍にやってきて鼻を鳴らす。よくコラさんは「ウチの子はかしこい」と誰かしらに負けじと息荒くしているけど……そうだよな。そうだよなァ。かわいいのもかしこいのも事実だ。それにウチの、って単語はどう考えても良い。おれは抱え込んだ膝に顔を埋めて、この柔らかで温かい幸せを何度も何度も咀嚼する。良いのだろうか? 誰に気遣う訳ではないがそう感じた。
「本当かァ? ローは頑張り屋さんだから、おれ心配だわ」
「頑張り屋って……それをコラさんが言うのかッ?」
「えっ、何? おれが言っちゃだめなのかッ?」
「だっておれよりコラさんの方が……」
「はい、ストーップ。ああ、そう言うことか。あのな、そこは比べる話じゃなくてッ。おれが、ローに対して、思うんだよ。わが家のローくんは頑張り屋さん。わかったか。よく覚えとけよ」
「…………うん、わかった」
コラさんは優しくて誠実な人だと思う。そりゃあ目つきは鋭くて悪ィし、あの体格だから凄まれずとも圧がある。衣服っつーかもう身体からだけど、何となく学ランから漂っちゃいけない匂いが過るし、するなとは言わんが屁は家中ところ構わずにぶっこく。そしてたまに物申したくなるくらいに臭い。あの実家を思えばどこで覚えたって言葉を使っては大口で笑い、細かいことは気にしない。これは大らかだとも言えるけどな。とにかく皿が面倒だとラップやキッチンペーパーの上で何か食うし、見ろッ! 来てーッ! とトイレからまさかの呼び出しもある。
「おれのローはやっぱりすっげェんだよ。自覚持てくださいよ、って話だ」
だから何で……何でそんなことを言っちゃうんだよ。それも全部おれの台詞だよ。心の根には思い描く正義を置いてるし、基本的には真面目だ。穏やかで温かくてカッコ良くて……それなのにこんな時のおれは本人に思ってしまう。
本当にずるくて、わるくて、ひどい人だ、って。
おれの心知らずにそれをひっくるめて笑ってるんだよ。腹立たしいくらいに感情を揺さぶられる。喜怒哀楽全てを持っていってほしい。他の誰でもなく、コラさんにそうしてほしい。
ここまでの気持ちを抱いてこの距離で生きている自分を先の言葉を借りれば、確かに「頑張り屋」なのだろう。生活を共にしている……いや、生活を共にしているからこそ、一層に自分とは違う人であることを思う。それでも決して他人だなんて呼ぶことはない。幼馴染、友だち、仲間、パートナー――そして家族。コラさんを表現出来る呼び方は多い。恋人の以外は。それでもおれはその中でどれもの一番の座を渡したくはない。どうしようもないくらいに……本当に大好きなんだ。
生き方を重ねて日々を過ごしていく。その日々の中の季節や天気、気温、体調や感情で形や色が変わる。
おれにとっての幸せは確かで何とも不確かだ。それでも一番に大切なものって、案外とそう言うものなのかもしれない。
◇
「コラさん、そろそろ明日に響くぞ」
「んー? ……うん。あ、……あー、もうちょっとなー」
おれたちの共同生活の理由を背負った大好きな人を見る。こんなときは少し寂しいがコラさんの心はこの場にいない。あまりこちらに返してくれない。そしておれも素直に心の内は言わない。だからおれたちの間に大きな変化はなく、歯切れが悪いような返事を聞いて、また人差し指タイピングに戻っていくだろう背を眺めた。多分この場合は一言「こっちを向いて」と伝えればそれで良いのだと思う。そうすればコラさんは優しいからその手を止めて、おれの顔を覗き込んでくれるだろう。
どうした? 学校で何かあったか? そういや今日はまだまだ話が聞き足りねェな。
もしかして体調が悪いのか? ごめん。通学も遠いよな。おれに構わずに先に休んで良いからな。
話したいことがあるなら今すぐに聞く。よし、リビングで少し何か飲もうか。
――な、そうしようぜ、ロー
瞬時にコラさんの頭の中の主体がおれになり、そのどれもにとびきりの笑顔が付いてくる。大好きな声はいつもおれに問いかけるように向けられるけど、無理に口を割らせるようなものではない。おれにわからないようにゆっくりと穏やかに息が鼻から取り込まれて、何かを察したように目尻が下がる。そして低く、優しくコラさんの喉が鳴る。音が鳴る。今からはローとおれだけの時間だぞ。それにおれの全身が物語っている。
構ってくれ。寂しい。
でもそんな正直で可愛いおれは、コラさんが言う可愛いそのおれはコラさんの手を止めさせる言葉を発せずに、今日も心の中でつぶやいた。おれはこんなにも慎ましい人間だっただろうか。
「どんな感じだ?」
「いつもと行動っつーか、活動範囲が違うんだよ。こりゃ何かあるぞ」
そこまでの力は要るのかと弾く音が鳴る。どうやらドフラミンゴの一日に何かしらの動きがあったらしく、コラさんはこれまた何かしらを打ち込んでいる。場が静かになって、あまり滑らかでないキーボードの動きが続き、次に何かを打ち間違えたらしい連打音が聞こえてきた。対策本部の本部長はこんな時は前を見ては一人でつぶやいている。
手伝うよ。おれが打とうか。その方が早いよ。意見も交わそう。二人ならもっと良い案が出るかもしれない。
そう頭には次から次へと浮かぶのだけど……おれは知っている。おれがこうすることを押し負けて渋々頷くことはあれども、コラさんはこの件に関わることを元より良くは思っていない。
「……ん? どうした? 遊ぶか?」
また足元に擦り寄ってきたおにぎりの息遣いが響く。どこまでわかっているのだろうか。本当は全部、全部お見通しなんじゃないのか。その上でおれの心情やおれたちの関係性を案じてくれているんじゃないか。
「ワンッ」
タイミングの良い返事とこの無垢な表情に疑いだなんて似合わないけどな。日々この愛らしい「まるみ」にも癒されていく。今この空間に――おれの感情に割り入れるのって、やっぱり家族のおにぎりしかいないよなァ。
いつものように抱き上げてその毛並みを鼻に当てて、おれはまたコラさんを見た。やるべきことに向き合っている背中を見ながら「ああ、今おれたちは同じものを見ているなァ」だとかを思いながら、自分と大好きな人を重ねる。
ここを押すとコラさんが言っていた「字を打ち込むと前の字が消えちまうッ。何か上から書き込まれる」ってやつが一発で直るぞ。前にすごいって言ってくれた〝画面を見ない入力〟はさ、おれもっと早く出来るんだ。常に案じていたい。止めないし、言ったところで止める人でもねェだろ。だってそう言う人を好きになった。そう言う人だからこそ大好きになった。
――おれ、コラさんの力になりたいよ。
人生を重ねさせてほしい。昨日、今日の感情じゃないんだ。違うだなんて言葉は使いたくないけれど、それでもおれの「好き」はコラさんとは違う。大切なものを見失わない人だ。肝心な時にはドジを見せてくれない。
「曜日とか時間帯とか、それで分析してみるのも一つじゃないか。地図上でマーキングすれば何か浮かぶかもしれない。あとは学校行事とか近隣のイベントと照らしてみるとか」
そうしておれは距離を詰める。触れた制服からまだ熱は伝わらない。座っているときくらいおれの方が背丈が上になれば良いのにまだ同じくらいだ。コラさんが隣を向くまでモニターから離れない自分の眼が何とも白々しかった。
「まとめるのはおれもちょっと思ったけど……そうか、一回書いてみるか。にしてもローは今日も凄ェな。おれとは違って、いつも落ち着いて物事を見てるよなー」
ンな訳あるか。あんたの邪魔をしたくないから、感情を何とか出さないようにしているだけで、左胸はとっくに忙しない。そう胸ぐらを掴んでやりたい感情をぐむっと胃に落とし込む。
「あと……さっきからずっと困ってる変換モード、そこ押したら直るぞ」
手の中にある日常になるべくおれの熱が移らないように。今はこの距離で良いんだと言い聞かせるように。せめてもの反撃でおれはマウスに余るコラさんの手に自分のものを重ね合わせた。