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    *実在する場所や人物、キャラクターとは一切関係ありません。

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    桜のなかうろうろする十夜

    2022.11.7(時差ということにしたい)

    舂く揺れて 未だ微睡みに包まれている寮の扉を押しひらけば、出たばかりの日差しをふんだんに纏った風が一層くどいと言ってもよいほど丹念に穏やかな暖かさを押し付けて来る。そんな影も暗さもない朝だった。
     アイドルとして必要なスキルの育成は勿論、生活を支える年季の入った寮舎から一人出た青年、宗像十夜は、その長い脚でもって学舎へ向かうべく最寄り駅へと緩やかな坂を下っていた。舗装された坂の脇に立つ木々は温厚過ぎる陽気に手を広げ伸ばすかの如く、空へと差し出した枝に小ぶりな花を咲かせ全身を白で埋め尽くし、共に揺れる葉もまだ若く柔らかいのか、それすら色素が薄かった。
     人のいない、まだひっそりとした歩道橋を渡るだけでもそこかしこ視界に散らばる柔らかい花片。コンクリートの灰色を覆い、皺のない張った制服の白に触れ続ける淡色。風流や風情を超えた絶え間のない春嵐に酔いそうだった。桜並木とも言えぬ路でこのありようだ。いま公園や奥山の方へ立ち入ったのなら、流石に息苦しさを感じそうである。ちらりとその景色を想像して、十夜は靄ならぬ桜掛かった道の端で静かに酩酊した。
     違和感を明確に抱いたのは、市役所を通り過ぎ、駅に着いてからだった。
     人があまりいない、どころではなく無人。早朝とは言え、十夜が寮から出た時点で始発が動いて然るべき時刻だ。にも関わらず、住宅街は勿論、駅舎の周辺にも人の影が一つたりとも見当たらない。寮側の地区の流れを受け入れている改札口から離れ、ぐるりと短いトンネルを抜け真反対、商業施設が併設されている改札口を確認しても、同様に人の気配はなかった。異常だった。
     タッチパネルにかざしたカードを、使い始めたばかりのまだ硬い黒革の学生鞄へしまう。異常、と言えばまだある。電子機器に電気は通っているというのに、沈黙したまま動かないのだ。十夜が切符を購入する為に指でなぞったつるりと平たい画面は、光も表示も点いていながら、反応がない。電子機器が何も役に立たないことを直ぐに理解し、カードの代わりに手に取った光ることすらしない板を——携帯を元の定位置へ戻した。
     そしてもう一つ、と、顔を上げて眉目を顰め束の間空中を注視してから、十夜は瞼を閉じ細く長く息を吐いた。捕まえに行かずとも襟の間や鞄に入り込むこの花。花弁。寮からここまで十夜の視界を薄く染めていた桜は、奥山でもない駅前のバスロータリーであっても容赦なく舞っていた。比べてみれば通学路よりも増えている。どう見積もったとしても、植えてある木の本数に対して散る花弁の数が合わなかった。
     暫く常と変わらぬ表情で常ならぬ様相の周囲と自身の状況を確認したが、駅から近い場所では解決の糸口はなく、変わったところも他に見付からなかった。ショーウィンドウのガラスの前に立ち、姿見代わりにしてみても、制服を着て真っ直ぐに立つ青年の身に変化は見当たらず、強いて指摘するならば濃紅の髪に桜が飾られているくらいだが、これを一々払っても限りがないのは分かり切っていた為十夜はそのまま飾らせていた。
     さて、これからどうするか。シャッターが閉められている書店の軒下でいくつかある選択肢を脳裏に浮かばせ思案しているときの事だ。頬を風が撫でた。ただそれだけだが、通り過ぎた風の周囲の陽気に似合わぬ涼しさに目を見張る。吹いて来た方へ顔を向け、冷たい、と形容してもよいだろう、まるで冬を運ぶ北西風のような、蕭条さすら感じる冷気の通り道を赤い瞳で辿る。
     映ったのはこの地でも有名な大路であった。

     真ん中の歩行者用の参道を挟んで二車線ある広い路は奥へ進むにつれ狭くなる。遙か昔、攻め入る敵に対しての防衛策として機能していた路は、現代も外側を変化させながら中身はそのまま残っていた。常時ならば絶え間なく車が通り過ぎ人が往来する活気溢れる道路の中心もいまは静寂に包まれ、迷いなく先へ行く十夜の耳には己が立てた足音と揺れる草木の音だけが聴こえていた。桜を剥がす風を遡り、普段は使わない道の真ん中をただひとり歩く。十夜自身にとっては何ら思い入れのある道ではなかったが、いつもと違って随分と肌に馴染み、妙に落ち着く静けさだった。
     そうして向かった一本道の最初の到着地点。この異変の理由そのものでなくとも、変化が起こる、起こす切っ掛けを求めて行き着いた場所。大路の突き当たりにあったのは、一面の池だ。
    「夢、か」
     十夜の記憶が正しければ、本来なら鳥居の元に砂利で敷き詰められた道と神社へ繋ぐ赤い橋が存在するはずである。しかしその場所にあったのは門でも地面でもない。己の脚で歩むしかない人間を遮るように敷地の入り口一杯に広がる大きな池だ。底は辛うじて認識出来るが、面積を考えれば池ではなく湖と言いたくなるものだった。
     あまりの脈絡のなさに、眉根が寄る。ここまで十夜が見て来た場所は、異常はあれど土地自体に変化はなかった。だからこそ、ここがどこなのか何なのか、と同時に何か起こったのか、可能性としては多方に考える余地があった。だがこの変化は随分とあからさまではないか。幻覚か、はたまた夢か。どうひっくり返したところで、これは現実では起こり得ない。
     そう判じて、十夜は止まった足の、ローファーの先にある水面を憮然とした表情で一瞥した。浮かぶ蓮の葉のふちは黄色く色付き、枯れた一葉は花の白と水の青に混ざって点々と漂っている。
     風が身体に当たる。酷く寒かった。涼しい、ではなく、寒かった。悴む指先を鞄の持ち手ごと固く握って周囲を見渡す。寒い? 春だというのに? 本当に春、なのだろうか。疑ぐる赤い虹彩の前を散った桜がはらはらと落ちて被り、一枚ならば浮かぶはずの水面のなかへと呑まれて行く。寒さの中に背後から吹いた生温い春風が、前から吹く風を打ち消す。花を笑って揺らし、見えぬ底へ誘う。その繰り返しを幾重にも重ねて行く。
     夢だろうことに説明や理由を求めて何になる。そう思いながらも眼前の光景に、空気に、十夜は臓腑の底を撫でられているかのような厭な感覚が膨れ広がるのを感じた。先程とは打って変わって強く吹き込む温い風は、寒さより厄介な代物ではないか。頭の中では警鐘が小さく、だが確実に鳴っている。冷たくなって来た四肢の末端まで意識を伸ばし動くか試す。身体はまだ問題なく動かせるようだ。ここに立っている事で得られるものは己にとって必要なものか、自問自答の解は即時に下され、十夜が踵を返そうとした、瞬間——儚く美しい色が歪んだ。
     池の上を覆いゆっくりと呑まれていた桜の花弁が突然重量を増し石に変化したかの如く蓮の葉を巻き込み一斉に沈み込む。水と混ざり、染め合い、ゆらりと揺れて、池の水は瞬く間に薄墨色へと変貌した。
     現実では有り得ない事象が、現実の顔をして繰り広げられて行く。
     目を見開き思わず息を呑んだ十夜の五感が次に池から拾ったのは、複数の声だった。混ざり合った音が耳朶を打った時、十夜は理解した。何を言っているのか、誰の声か、分からない筈がなかった。似ているどころではない、脳裡に浮かんだ人間そのものの気配に、反発して池から退がり掛けた足を意識的に留める。
     厳格と言えば聞こえはよいが興味を欠けらも持たない冷たい声が纏わり付いて来たかと思えば、作り物めいた耳障りで湿度の高い声が非難する響きを携えひととき水面に浮かび上がり、次いで数多の密やかな笑声が波紋を拡げる。
    「……黙れ」
     次第に大きくなって行く音を、堪え難い声を振り払おうと引き結んでいた唇から言葉を鋭く絞り出す。低い波形に、嘲るかの如く水面を乱していた声達は一呼吸分だけ口を閉ざした。直ぐに減らぬ繰り言の唱和を再開するもそれは次第に割れて崩れ始める。十夜に不協和音を投げ付け響かせながら、しかし最期にはくぐもった音となってゆっくり水底へと沈んで行った。
     残響すら消えた静まり返る空間で、炯眼を燃え上がらせる十夜の腹からふつふつと湧くのは怒りだ。現実で蔓延る声の主への怒りであり、その声の言葉を恐れ夢に見たと云う、己の弱さに対する腹立たしさだ。力の入り過ぎた手のひらが締まり鞄に使われている合皮が微かに悲鳴をあげ、もう片方の手のひらには切り揃えられた爪が食い込んでいた。
     渦巻く炎は鎮まらず、それでも焼き切れられないのは、溶けることのない氷が芯にあるからだろう。
     背を正し粛然と十夜は前を向いた。過去は過去だ。変えられない。だからこそ、現在を、これからを変えなくてはならない。変える為には避けられない困難という名の些事から大事まで種類豊富な壁が前方にはあって、それらに立ち向かい足掻かなくては自己を保つことが、生きることが、難しい。全てを承知の上で青年が少年の頃、背がいまの半分もなかった何年も前から、足掻き踠いて自分の為に生きてやると己に誓ったのだ。
     僅かに逡巡してから口を開く。
    「何があろうと、何処であろうと。夢であろうが進む以外の道は選ばない」
     だから阻むな、拒むな、道を開けろ、と。静かに言い切って、池を見据える。色が変化したままの水面に早々と新たな白花を飾る池は何も語らず、対峙する青年も動かず、数秒か数十秒か、はたまた数分か。
     経った時間に比例して桜に埋まって行く十夜の足先数センチ前から、漸々池の向こうの見えぬ対角線へと続く朱に塗られた橋が浮かび上がった。
     戸惑いや躊躇はなく、十夜は足を前へ出す。一歩、橋台の境を跨ぎ、一歩、掛かった橋を踏み締め、渡る。
     橋を進むにつれ増す冷気に包まれながら橋の中程に差し掛かったとき、不意に甘い香りが鼻を掠めた。桜とは異なる、はっきりと分かる甘さ。思考より先に自然と足が歩みをゆるめる。何かに促されるように差し出した左手の人差し指の背を、ひとひら、赤が撫でて通り過ぎた。まだ橋の終わりまで距離があった筈だが、木製の橋に下ろした足は土の上に着地していた。地図の縮尺を一気に変えたときのような妙な感覚。
     気付けば十夜の前には梅の木が佇んでいた。
     枝の影が髪に触れそうなほど近い。大木と云う訳ではないが、背を真っ直ぐにして一本、周囲の桜に混じる梅の色は、記憶していた公園や住宅を背景に立つ梅の薄紅よりも目を惹く鮮烈さで、真朱と言っても良いようほどに濃く赤い。
     早春を告げる花が何故、と言葉を落とすのと、十夜が無意識の内に伸ばしていた指先に木の肌が触れたのは同時だった。

    「——十夜!」
    「宗像?」
     力強く、しなやかに呼ばれた十夜自身の名前が、耳朶を叩いた。
     目が覚めるような光に、何度か瞬く。触れている木の肌は変わらず温かかったが、見えた世界は打って変わって広く青々とし、鼻腔に入る空気は澄んで冷たかった。
     名前を呼んだ声の出所は探すまでもなく、直ぐ近くにあった。どこか心配そうに覗いて来る顔は見慣れたもので、十夜と同学年で同じ寮の住人である。十夜に顔をまじまじと見られているのに気付いて、二人は何故か安堵したかように息を吐いていた。
    「……明石と紺野、か」
    「あっ、と、驚かせてわるい」
    「いや……。ここは」
    「ここ? 寮から近い、いつも走るときに通っている公園だけれど……宗像? 大丈夫?」
     ああ、と応えながらも珍しく反応鈍く辺りを見回す十夜に、達真と梓は顔を見合わせて不思議そうにしている。どちらも着ているのはトレーニング用のシャツで、太陽はまだ出たばかりの位置にあるように思えた。気温は、どうだろう、と気を向ければ、冷たい風が吹いた。
     頭は働いているが、どうにも現実と確信するには頼りなく、十夜は顔の前で手を振りだした達真に、問うた。
    「桜を、見たか?」
    「桜? 秋に桜は見ないんじゃ……あ、もしかしてコスモス、か?」
     秋の桜でコスモス! 小麦に教えてもらったんだよなあと目尻を下げて笑う顔とこちらを未だに心配そうに窺う目から視線を外した。
     あれ程舞っていた桜の白い花弁はどこにも見当たらない。再度、風が通った。北風だ。秋風なのだろう。
     そうだ秋だ。十一月、だった。朝窓から見た裏山の風景を、身支度をし枯れ葉が落ちる寮の坂や道を歩いた記憶を思い出す。振り返って見ても、記憶のどこにも欠けてはなかった。だが同時に、春の陽気の中、歩き怒り進んだ記憶も鮮明なものとして確かに残っていた。
     結局、あれは何だったのか。本当に夢だったのか。十夜には分からなかった。
     手のひらが触れている木を見上げる。剪定され葉をも落とした空を突き刺す枝が、冷たい秋風に吹かれてゆらりと戦いだ。
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