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    梓と佐門

    2022.11.9

    降らずとも 木と木が触れ合う音を耳が拾った。微かな音であったが、一人粛々と情報の海に沈んでいた錦戸の意識を浮上させるには十分だった。
     何時間振りか。ブルーライトを放ち続ける画面と文字で埋め尽くされた紙面から目を引き離し顔を上げた錦戸を待っていたのは、今しがた鳴った音に似た、柔らかく控えめな笑みを携えた青年であった。薫る深い青茶はきっと青年が手ずから淹れたものなのだろう、ふわりと漂う湯気が纏うのは芳ばしくよい香りだ。
    「根を詰め過ぎると眼に文字が移ってしまうよ」
    「……こんの?」
    「そう、こんのだけに根」
     口を中途半端に開いたまま未だ反応し切れていない当人を他所に、名前を呼ばれた紺野は、そういう錦戸の仕方のない所も含めて俺たちは好きだけれど、と緩く結わえられている艶やかな髪を揺らしながら、緩んだ口許を緩く握った指の影に隠して呟いた。
    「どうしてここに?」
     比呂がね、と笑みを浮かべた紺野に机の向こう側からお茶を勧められる。疑問を抱いたままの錦戸が湯呑みに触れれば、指先から熱が伝わった。釣られるように眼鏡を薄く曇らせながらも口に含んでみる。するり、と肩から余分な力が抜けて行く。それが錦戸の表情に表れていたのか、勧めた当人の顔も嬉しそうにほころんだ。
    「うまいな」
    「良かった。室温設定が適切でも、案外、体は冷えてしまうものだから」
     胃まで温かさが流れて来た頃、紺野がこほん、とゆったり咳払いをした。両手の指を頭に添えている。細い眉の下がり具合に錦戸は見覚えがあった。おそらく、頭を抱えるジェスチャーなのだろう、と当たりを付けた錦戸の脳裏に涙目で紺野に駆け寄る茶色頭の姿が浮かぶ。
    「なあなあ、梓、佐門があまのいわとになっちまった! どうしよう? おれ、どうしたらいい? なんか手伝えねーかなあ、顔、いつもよりどんよりしてた……って。随分と心配していたよ」
    「天の岩戸に隠れた、ではなく、なってしまうのか。岩戸と言うのなら俺は無機物だったか」
    「錦戸」
     つい、言及されるのを避けて、誰しもが引っ掛かるであろう箇所を——主題ではないことへ話題を逸らそうとして、やんわり、それでよいのかと声色で問われる。
     これがユニットのメンバーでなければ、笑って意を汲み取り話に乗ってくれるか、白々しいと眉をひそめながらも流すか、いずれにせよ、錦戸のやり易いようになるのだが、もう既に身内とも言える、言えるようになった紺野は流さず引き留めた。咎める、より困ったように名前を呼ぶその男の心配そうな澄んだ視線に、思わず目を逸らした。紺野はいつも優しいが、だからこそするどいし、錦戸に対して容赦がない。出会った当初はそんなことは思わなかったのだが、今は違う。こちらもあちらも、注意深く窺い、薄っすらと、だが明確な線が引かれていたあの頃とは。
    「……二人が話して納得したのであれば俺は構わないけれど、錦戸は構うんじゃない?」
     中々に賑やかだった数刻前を思い出して、錦戸は呻いた。
     おそらくあの飛び切りのお人好しは、五十嵐比呂は、十の内の六は納得していなかった。信頼するブレーンがそう言うのであればそうなんだろうけどさ、と自分に言い聞かせながらも何か言いたげに唇を尖らせていた。錦戸の判断が正解である、と理解しながらも、しかし一方で正解だからそれに全て従って良しとならないのが五十嵐だった。さっぱりとしているようで案外、気持ちを割り切り、替えるのは苦手らしかった。特に親しい人の心配事となればこの傾向は強い。つまり、それだけ錦戸の顔色が良くなかったか五十嵐の観察眼が鋭かったか、どちらもか、ということだ。
     抜かったなと嘆息して、錦戸は紺野を横目で見た。言葉を用いるより、紙と機械しか置かれていない殺風景な机を彩る作業を優先する事にしたらしい。いつの間にか机には彩り豊かな茶菓子が幾つかと、資料をまとめる為の物だろうファイルが増えていた。
     テーブルコーディネートをする紺野を眺めながら、思案する。メンバーを信用していないわけでも、頼れないわけでもない。むしろよく頼っている方だと、自分では思っている。その上で、何事にも向き不向き、適材適所があるというだけの話だ。こう言った分析や下準備は錦戸にとっては趣味と言ってもよいものだが、五十嵐や他のメンバーにとってはそうではない。勿論、いずれは全員が意識して考えられるようになるのが最善だが、今はまだ早い。他のことに集中すべき大事な時期だ。特に、特に五十嵐は。それは確かで、錦戸にとっては譲れない部分だった。
     心配させたことは問題なのだから、話し合ってメンバーが手伝う以外の改善策を提示しよう。五十嵐の気持ちは嬉しい。率直に、そう思う。そう、気持ちは、だ。気持ちは嬉しいが、だが——
    「手伝いたいならテストで半分以上点を取ってから言え! テスト直前になってから俺に泣き付くな……!」
     突然頭を抱えて小さく叫び声を上げた錦戸を見て、椅子に腰掛け資料の収納を始めていた紺野が軽やかに笑った。
    「そうだね。それなら錦戸、これ、早く終わらせて早く寝て、明日の朝食は一緒に食べよう。みんなも錦戸と話したがっていたから」
     今日も会ったし話しただろう、という錦戸の腹を曲げた少年のような小さ過ぎる声は、そうだねと再度繰り返された穏やかでしなやかな紺野の言葉の前でほどけてとけた。
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