グレムノレ前提のヒスムル(仮)26話ふーっと吐いた息が白く色付いて消えて行くのを眺めながら、ヒースクリフはムルソーと共に歩いていた。
ついこの間起こったねじれの事件など無かったかのようにK社の巣は普段通りの日常をヒースクリフに見せていた。
チキンを食べに店に入って行く者、店内でチキンを頬張る者。
その中には家族連れも居たが、他は皆他人同士のようだった。
デパートにはまばらに人が居り、それぞれ見たいフロアで商品を眺めていた。
皆が皆、この巣での当たり前の日常に浸っていた。
「……なんか、改めて見ると……皆楽そうだなぁ……」
基本的に外勤では死と隣り合わせのフィクサーや裏路地の住民と違って、今この場に居る全員はゆったりとしていて気楽そうだった。
「……彼等の日常が完璧に保証されている訳ではない。ねじれは条件さえ合えばどこにでも発生するから……彼等も、突然死ぬ日が来るかもしれない者達だ。」
「……そう言われてみりゃあそうだな……」
先日ムルソーが言ったように生の喜びを噛み締める事こそが最も良い事なのかもしれない。
「……上映時間までもう少し時間があるな。どこかで時間を潰そうか。」
「おう。」
道を歩いているとやたらと飲食店が目に付いて、そのどれもが食欲をそそられる物だったのでつい目移りしていると、ムルソーが「映画を観る前に軽く何か食べておこうか」と言ってくれた。
「あれ、でもポップコーンあるんじゃなかったっけか……?」
「……それも食べたいのなら買おう。」
「……食べる。」
ムルソーは微笑んでショーケースに向かって行った。
一通り見て食べて回った後、漸く映画館に辿り着いた。
(すげーキャラメルの匂いがする……)
あえて匂いを嗅ごうと努力せずとも鼻に届くキャラメルの匂いがヒースクリフの食欲を唆った。
「ポップコーンの味はどっちにする?」
「……キャラメルで。」
「分かった。」
匂いを嗅いでいると塩よりもキャラメルの口になってしまった。
「飲み物は……」
「あーー……コーラで。」
「分かった。」
今まで映画館に行った事は無かったが、こう言う時は大体コーラなのだろうと思っての選択だった。
「……」
ムルソーが列に並んだのを見届けた後、ヒースクリフは空間を見渡した。
広いエントランスの壁と床は暗い色で統一されており、外からの明かりと天井にちらほら設置されている暖色灯の光。
受付カウンターの右隣には廊下があり、左隣には物販コーナーがあった。
(……そうだよな……初めてなんだよな……映画館。)
初めて来る場所の割にはイメージ通りと言う印象だった。
そもそもそのイメージがいつから植えられた物なのか、ヒースクリフの記憶には無かったが。
(テレビかな……)
そんな事を考えながらガラス張りの入口から見える道路を眺めていると、ムルソーがこちらに歩いて来る気配がした。
「……上映までここで待っているか?」
「いや、何となく見てただけだから……」
「では、行こうか。」
エスカレーターで登ってから長い廊下を歩き、重い扉を開くと、一面にソファが整列されていた。
もう既に何組か座っており、ヒースクリフ達もそれに加わった。
肘掛けに溝があり、そこにやたら大きいポップコーンの箱と飲み物を置いた。
照明を反射してテカテカと光っているキャラメルポップコーンを一粒取って食べてみると、匂い通りの甘味が口の中に広がった。
スクリーンには他の映画や飲み物、サービスの広告が流れており、ヒースクリフはそれをぼんやりと見ていた。
「……随分食べているな。」
「え?」
ムルソーの方を見たヒースクリフの手にはポップコーンが摘まれていた。
ポップコーンの箱を見てみると山になっていたポップコーンが少し減っていた。
「……気付いたらこんなに……」
「好きに食べて良い。私には……少し甘過ぎるから。」
そう言って少しだけ口角を上げているムルソーの言葉に甘えて食べていると、照明が消えて映画が始まった。
最初の内はポップコーンを食べながら見ていたヒースクリフだったが、展開が進むに連れて食べる手を止めて映画を観るようになった。
映画では都市に存在し得ないアンドロイドが造られており、最初はコードなどが剥き出しの状態だったのが今では人間と大差無い姿になっていた。
主人公はアンドロイドが開発者に閉じ込められているかのような印象を受け、脱走の手伝いをしたが……
最後には唖然とせざるを得なかった。
いつか聞いた人工知能の倫理改正案の話の発端になったのではないかと思う結末だった。
エンドロールが終わる前からまばらに人が減り始め、終わった頃にはヒースクリフとムルソーだけになっていた。
ヒースクリフが席から立って隣を見ると……ムルソーは目を閉じて座席に身を預けていた。
(……いつから寝てたんだ……?)
もしかして中盤から殆ど寝ていたのではないかと思う程の熟睡っぷりだった。
起こすのを躊躇っていると、不意にムルソーが目を開いた。
「……!」
上映が終わったのを瞬時に察したようで、ムルソーはハッとして背もたれから背中を離した。
「すげー爆睡だったな。どのくらいから寝てたんだよ?」
「……いつの間にか……すまない。」
「まあ、俺は楽しめたから良いけど……あんたはこの映画観たかったんじゃないのかよ?」
「……今までも何度か観ている。」
「え?マジで?」
「……最初の一回は最後まで観れたのだが……その後はどうしても途中から寝てしまって……」
「……まあ、疲れてるだろうしな。」
ヒースクリフが何の気無しにそう呟くと、ムルソーは申し訳無さそうな顔でヒースクリフを見上げた。
「……その、さ。もうそんな気ぃ使わなくて良いぞ。もう気になり過ぎなくなったし……」
「……そうか。」
「それより、昼メシどこで食う?」
「……もう腹が減ったのか?」
「まあ……流石にポップコーンだけじゃあ……な。」
ヒースクリフはいくつかカップの底に転がっているポップコーンを見てそう呟いた。
「……そうか。」
何故かしみじみとした風に呟いてムルソーは立ち上がった。
座席を戻すムルソーを見てヒースクリフも同じように座席を戻していると、不意にムルソーが近寄って来て耳元で囁いた。
「食べ終わったらホテルに行こう。」
「………」
目を見開いてムルソーを見ると、ムルソーはまっすぐヒースクリフを見詰めていた。
「……えっと……今日……?」
「今日以上に良い日は無いと思うのだが。」
「……そ、そう……なのか……?」
「ああ。」
ヒースクリフが座席を戻し終えると、ムルソーはヒースクリフの手を握ってゆっくりと出口へ向かった。
ヒースクリフよりも少し大きくて、案外柔らかくて温かい手だった。
「ん?もう腹一杯なのか?」
「これでも食べるようになった方なのだが……どうにも……」
ファミレスで昼食を済ませる事になったのは良かったが……ムルソーはあと何口か分残ったスパゲッティを前に苦い顔をしていた。
ヒースクリフがメニューを見返してみると120gと書いてあり、普段家では100gしか食べないムルソーが苦戦するのは妥当に思えた。
「……それ、貰って良いか?」
「……食べ切れるのなら、頼む。」
ムルソーはかつてオムライスとポテトとサラダが乗っていた皿をチラと見遣りながらスパゲッティをヒースクリフに差し出した。
「俺もそんな食べる方じゃなかったんだけど……働き始めてからやたら腹減るようになってさ。」
「今までと比べて必要なカロリーが変わったのだろう。貴方は私よりも動く事が多いから……」
「……まあ、そうか……」
ヒースクリフはスパゲッティをフォークで巻きながらそう返して、不意にグレゴールの事を思い出した。
「そう言えばおっさんは結構食ってたな……やっぱ動いてるか動いてないかで違うのかな。」
「……グレゴールは……あれでも栄養が足りていないから脂肪が付いていないだけだな。」
「摂った栄養すぐに消費しちまってるのか……」
「眠気覚ましには空腹が一番効くとも言っていたな。ただ……その状態でカフェインを摂ると体調が悪くなるから何かしらは食べるようにしているらしいが。」
「……休めよ、普通に……」
そう言ったヒースクリフも頭の中ではグレゴールの気持ちを理解しているつもりだった。
自分の夢を叶える為なのだ。
それだけでもグレゴールにとっては多少無理をする理由になるだろう。
(……特に何の目的も無く仕事してるムルソーが一番ヤバいんだよな……)
そんな考えを心に留めながらヒースクリフはスパゲッティを完食した。
「……デザートは……」
「あー……いいや……お腹いっぱい。」
「分かった。」
会計を済ませて店を出ると、ムルソーはゆったりと歩き始めた。
ムルソーについて歩くと、人通りの少ない路地に出て、向かう先にホテルが見えた。
向かう途中、何も言えないままホテルに到着し、ムルソーがチェックインするのをぼーっと見届けた。
「……おいで。」
受付のカウンターの前で振り向いて来たムルソーにそう言われ、ヒースクリフはやっと我に帰り、少し恥ずかしくなりつつもムルソーの側へ行った。
エレベーターに乗ると、扉が閉まった瞬間にムルソーがヒースクリフの手を握って来た。
自分の手汗が気になってもぞもぞと動かすと、ムルソーがヒースクリフを見て微笑んだ。
ヒースクリフはそれも気恥ずかしくて、目線をエレベーターのボタンに移した。
部屋に入ると、ムルソーはコートを脱いでハンガーに掛けた。
それに倣ってヒースクリフも上着をハンガーに掛けると、ムルソーは浴室の方へ歩いて行った。
(あ、そうか……まず体洗うのか……)
ムルソーが出て来るまで待とうとしていたヒースクリフだったが、浴室からムルソーに呼ばれて一緒に入る事になった。
ムルソーはヒースクリフをバスタブの縁に座らせると、シャワーの湯加減を確かめてからヒースクリフの頭に掛けた。
ヒースクリフが目を閉じると、ムルソーの指が濡れた髪の間に入り込んで来て頭皮を解し始めた。
それが何故かくすぐったく感じて身を捩るが、ムルソーの手が追いかけて来るので逃れるのを諦めて、耐える事に集中した。
髪を洗い終えると、ムルソーが体も洗おうとして来たので流石にそれは断って自分で体を洗った。
ヒースクリフが体を洗っている間、ムルソーは自分の髪を洗っており、ヒースクリフが体を洗い終えた時、頭が泡まみれになったムルソーがシャワーヘッドを必要そうにしていた。
「……丁度良いから流すよ。」
「頼む。」
ムルソーにしてもらったように流し終えると、ムルソーが前髪を後ろに流した。
その動作が何だかグッと来て何となく見つめていると、ムルソーが不意にヒースクリフを見た。
ムルソーの目は澄んだ緑色に見えた。
「先に上がってゆっくりしていてほしい。バスローブがあるからそれを着て……髪も乾かしておきなさい。」
「分かった。」
言われた通りに髪を乾かし、バスローブを着て廊下へ出てヒースクリフは初めて気が付いた。
(……そっか……受け入れる側だから準備に時間掛かるのか……)
案外肌触りの良いバスローブの感触を堪能しながらベッドに腰掛ける。
部屋は少量の暖色灯で照らされており、良い雰囲気を演出しようとしているのが窺えた。
ベッドも体が沈み過ぎない程度に弾力があり、何よりシーツの手触りが良かった。
ヒースクリフの人生初のラブホテルとしては中々良い所に来たように思えた。
(……もしかしておっさんと来た事あんのかな……)
そんな事を考えながらベッドでゴロゴロとしていると、満腹感や部屋の薄暗さも相まって次第に眠くなって来た。
(……まあ、音聞こえりゃ起きれるだろ……多分……)
そう思って瞼を閉じると、じわじわと意識が暗闇に引き摺り込まれる感覚がした。
「ヒースクリフ。」
「はっ……!?」
ムルソーの声に飛び起きると、ムルソーはヒースクリフの横に座っていた。
髪は乾いているし、バスローブも着ている。
「くっそ……音聞こえたら起きれると思ってたのに……」
「眠かったのだな。」
ムルソーは笑っていたが、ヒースクリフとしては少し複雑な気持ちだった。
今日は何かとムルソーにリードされていて、これから抱く側としての行動が中々出来ていなかったのだ。
イメージトレーニングまでしていた為、より悔しい心持ちだった。
頭をガシガシと掻いていると、不意にムルソーが腹に腕を回して来てそっと抱き締めて来た。
そのまま一緒に倒れてベッドに横になると、ムルソーが隣に仰向けになって、手を繋いで来た。
お互いに仰向けになったまま見つめ合っていると、不意にムルソーが足をヒースクリフの足にすり寄せて来た。
「……っ……」
肌が擦れ合う感覚がどうにもくすぐったくて身を捩ると、「どうだ?」と聞かれた。
「……くすぐってぇ……」
「フ……良い合図だな。」
暫くの間、隣り合わせになったお互いの足を自分の足で触れてくすぐったく、焦ったい前戯の時間を味わっていた。
その内ヒースクリフが焦ったくなってムルソーの胸に片腕と頭を乗せると、ムルソーはその頭を撫でて来た。
「そろそろ始めようか。」
「ん……」
ヒースクリフはシーツに手をついて体を起こすと、下に横たわっているムルソーをじっと見つめた。
サラサラとした前髪の下にある目はこの間よりも緑色に色付いており、隈も薄くなっていた。
肌も初めて会った日よりも血色が良く見えて、正直……興奮した。
白いバスローブからはそんな肌が覗いていて……バスローブの下に手を差し込んだ。
「ふふっ……」
もちもちと胸を揉んでいると、ムルソーが不意に笑った。
「な、なんだよ……」
「……相変わらず、胸が好きなんだな。」
「なんとなくだよ、なんとなく……」
ヒースクリフが胸を弄っていると、不意にムルソーが起き上がってヒースクリフにしがみ付くように抱きつき、耳元でこんな事を囁いて来た。
「……ずっとしたかった。」
「……っ、」
「貴方の手が、私の体に触れる日をずっと待ち望んでいた。」
そう言って胸を揉んでいる手を上から押さえ付けるように手を添えて来る。
「……あんた……今までそんな事考えてたのか……?」
「悪いか?」
「………ヘンタイ……」
「変態ですまない。」
「……っ、」
ムルソーはそこでスイッチが入ったのか鎖骨から首筋までを舐め、唇で食んで来た。
そこでヒースクリフも負けじとムルソーにキスをして……そのままなだれ込むように行為が始まった。
シャワーを浴び終えて、二人でホテルを出て帰路に就いている間もヒースクリフはどこか地に足が付いていないような、一種の放心状態にあった。
すっかり日が暮れて、暗闇を掻き消すように光で満ちている巣の商店街にも現実感が感じられない有様だった。
そんな中でただ一つ際立っているのはムルソーだった。
繋いだ手の温度と、匂いと、すぐ隣で服が擦れる感覚。
その体をもう一度腕の中に収めたくて仕方無かった。
家に帰ると、ヒースクリフは思い切ってムルソーに抱き付いた。
「……フッ……」
胸元に頬を擦り寄せていると、ムルソーがキスを促すかのように顔を寄せて来たので、遠慮無くキスをした。
「……その……ムルソー……」
「何だ?ヒースクリフ。」
「もっかい、したい……」
「貴方の好きにして良い。この休みの間だけは……私は貴方のものだから。」
ヒースクリフはムルソーを自分の物にしたいと思っていた訳ではなかったが……それでもその言葉が嬉しくなって、ムルソーを抱き締めた。
「……俺、もっとあんたに相応しい奴になる。」
「……ああ。」
ムルソーは少し寂しそうな目をしていたが、それ以上は何も言わなかった。