グレムル前提のヒスムル(仮)16ムルソーと出会ったのはある冬の日の事だった。
事務所に所属してから2年が過ぎてやっとムルソーに会う機会が生まれたのだ。
あの時はまだ隈も薄くて体もしっかりしていた。
……書類の山もまだ低かった。
グレゴールが上の階のフィクサー達に仕事を分担しようと書類を持って部屋を見渡すと、一人だけ忙しそうなフィクサーが居たのでついそちらを見てしまったのだ。
そいつは一人で電話対応をしながら提出用の書類を書き上げて、どちらも終わると今度はパソコンに手を伸ばして仕事をしていた。
正直、外勤と武器の製造を担当しているグレゴールにとっては人間とは思えない動きだった。
「……何か御用でしょうか。」
まるでこの状態が通常運転かのようにこちらに視線だけを寄越して聞いてきたそいつに若干引きながらもグレゴールは十数枚の書類を見せた。
「えっと……ここの奴らにこれ頼みたいんだけど……」
「では、私が承ります。少々お待ちください。」
「え、いや……」
グレゴールが言い終わる前にムルソーがその書類をサッと取って脇にある書類の山へ移し、パソコンに向き直ってしまった。
「提出期限はいつ頃でしょうか。」
「……来週まで……だけど……」
「分かりました。ではお預かりします。」
取り付く島も無いとは正にこの事だろう。
「仕事以外の話をして来るな」と言いたげな背中を見てグレゴールは渋々引き下がった。
気弱そうなフィクサーに聞いてみると「ムルソーに何を頼んでも断らないので自然ととりあえずムルソーに任せる流れが出来た」との事だった。
実際ムルソーが何の不平不満も言わなかったのを思い返してグレゴールは苦い顔をした。
「そんな事やってたらあいついつか過労死するぞ。ちょっとは分担しろよ。」
「……でも……あの人達に出来ると思います……?」
声を顰めてそう言われ、グレゴールは何やら騒がしいムルソーのデスクを見た。
(……この事務所……思ってたよりダメかもしれないな……)
恐らく先輩権限を駆使してムルソーに仕事を押し付けている奴等がデスクに群がっている様を見てグレゴールは溜め息を吐いた。
その後、暇がある時にはムルソーの様子を見に行った。
殆どは扉のガラス越しだったが、深夜にムルソー一人だけが仕事をしているのを見てグレゴールはついに中に入って話しかける事にした。
「……なあ、お前さん。」
タイプ音は絶え間無く鳴り響いていた。
「そんな働き方してて疲れないのか?」
タイプ音が少なくなった。
「……私の状態が貴方に何の影響を?」
「いや……気になるだろ、一人だけそんな事してたら。」
「……」
ムルソーは黙り込んでしまった。
「……んで……疲れないのか?」
「……疲れます。」
「そうだよな。うん。」
「……それが何か?」
「……なんでそんな馬鹿みたいに仕事引き受けちゃうんだよ。自分の出来る範囲超えてるだろ?」
ムルソーはこちらを振り向いて冷淡な顔でこう言った。
「時間が必要なだけです。処理出来ない物はありません。」
「………は……」
ここまでハッキリと言われるとは思っていなかった。
それもどちらかと言うと否定系の答えを。
ムルソーはそう言ったきり作業に戻ってしまい、とても話しかけられるような雰囲気ではなかった。
ある日、グレゴールが帰路についていると偶然ムルソーの後ろ姿を目撃した。
武器を持っていないので外勤ではない。
恐らく退勤したのだろう。
(……つーかなんで同じ道に……)
万が一にでもムルソーにストーカーだと思われるのは嫌だったので少しずつ距離を離していく事にした。
だが、その努力も虚しくムルソーに振り向かれた事であっさりと見つかってしまうのだった。
「……」
振り向いた割に何の反応も示さないムルソーに一応左手を上げて愛想笑いをしながら通り過ぎようとした。
「……こんばんは。」
わざわざ頭を下げて挨拶をして来たムルソーに少なからずグレゴールは驚かされた。
「あ、あぁ……こんばんは……」
「貴方も退勤ですか?」
「あ〜、うん。お前さんもだよな?お疲れさん。」
「はい。お疲れ様です。」
……あれ?意外と気さくだな……
「……お前さん、座りっぱなしだったろ?大丈夫か?」
「ええ、問題ありません。夜は外勤でしたので。」
「……お前さん、そこまでやる理由ってあるのか?なんか目標とかあるのか?」
デスクワークだけでなく外回り(それもただの外回りではない、大抵戦闘だ)もやっていたと言う衝撃の事実が発覚した事でそんな疑問が浮かんだ。
「目標……ですか。」
「例えば俺はいつかこの腕を量産出来るようにして自分の工房を持ちたいと思ってるんだよ。まあ……まずは試運転の申請からなんだけどな。」
「……」
「……そう言うの、無いのか?何か買いたい物があるとかさ……」
「……いえ、特にありません。」
グレゴールは思わずムルソーを見つめた。
ムルソーもどこか不思議そうにこちらを見つめ返して来た。
「……え……じゃあ……目標も無しに、あのハードワークこなしてるって事か……?」
「そうなりますね。」
「……辛くないのか?それ……やってる内に虚しくなってきたりしないのか……?」
「……」
ムルソーは何かを考え込んでいるようで黙り込んでしまった。
「……あのさ……あんな馬鹿どもの仕事引き受けるのやめた方が良いよ。今の状態続けてたらお前さん搾り尽くされるぞ。あいつら感謝もしねえでお前さんに押し付けて……お前さんはそれで良いのか?」
話している内に怒りが込み上げて来て、ついそれを滲ませてしまった。
だが、ムルソーは逆に眉を顰めてこちらを見ていた。
「……やはり貴方と私の物の考え方は違うようですね。」
「え……?」
「貴方は目標が無ければ人は頑張れないと思っているようですね。貴方達の理論は私のような働き方をしているといつか潰れてしまうと、そう言った理論なのではないでしょうか。ですが私は違います。同じような毎日に辟易して潰れる程柔ではありません。……恐らく私の感覚は貴方達に理解されないのでしょうね。」
ムルソーから返された答えがあまりにもグレゴールの常識から外れていたのでグレゴールは歩みを止めてしまった。
こいつは……そんな生き方が出来ると思っているのか。
何の目標も理由も無しに、ただ仕事を処理して生きるなんて。
「……そんなの……機械と一緒じゃねえか。」
何とかして、何か理由を見つけ出したかった。
何故かは分からないが、焦燥感に駆られていた。
「……なあ……何かある筈だろ?お前さんにだって働く理由の一つくらい……」
「……強いて言えば家賃を払う為でしょうか。」
「……」
「……ご満足頂けましたか?」
グレゴールは何も返せなかった。
「……一つ、言わせて頂きますが……」
妙な胸騒ぎと共にムルソーを見上げる。
「貴方の常識を人に求めないでください。」
とどめを刺された。
そんな感覚がして、グレゴールはその場に膝をついた。
ムルソーはそれに驚いたようでバッとしゃがみ込んでグレゴールの顔を覗き込んできた。
「……どうされましたか?」
グレゴールは前髪に指を通して額に手をやった。
「……お前さん、俺の事嫌いだろ?」
「……?いえ……特にそう言った感情を持った事はありませんが。」
「じゃあ覚えといてくれ。人ってな、自分の常識否定されると多少のショックを受けるんだ。」
その日はそれだけ言って別れた。
「ハァァ〜〜……」
朝から喫煙スペースで大量の煙を溜め息と共に吐き出す。
今思い出してもむしゃくしゃする、昨日のムルソーとの会話。
『貴方の常識を人に求めないでください。』
ムルソーの言い分は確かに理解出来る。
出来る……のだが……
(……あいつの味方したかっただけなのに……)
何となく、この工房で孤立しているように見えるムルソー。
だからこそ、自分一人だけでも苦労を分かち合ってやりたかったのに……それを突っぱねられては沈む他無いだろう。
「おじさん、どうしたんですか?陰鬱な顔して……」
「いやぁ、ちょっと、な……」
いつも喫煙室でグレゴールを労ってくれる同僚にはせめて気を使わせまいと曖昧に誤魔化した。
が……
「……お前さん、ムルソーの事どう思う?」
やはり吐き出さずには居られなかった。
「ああ、いつも事務所に居ますよね。」
「……あいつ、働き過ぎじゃないか?」
「おじさんが言えた義理じゃなさそうですけど……まあ、その内潰れちゃいそうな雰囲気ではありますね。」
「なんでそんなに働くのかって聞いたんだけどさ、特に理由は無いとか言われて……おまけに『貴方の常識を人に求めないでください』ってさ……」
それを聞いて同僚は「あ〜……」と察したような顔をした。
「……あいつの言ってる事、ひとっつも理解出来なかったんだよ。」
それが何だか、悔しかった。
「おじさんはムルソーさんの事理解したいんですか?」
「……なんか、ヤなんだよ。同じ人間の筈なのに異星人と交流してるみたいで。」
「……」
同僚は不意に神妙な面持ちで黙り込んだ後、声を潜めて話し出した。
「これ……あんまり言いたくないんですけどね……ムルソーさんによく話しかけてた人が居て、2人で外勤に行った後……ムルソーさんがその人の遺体を担いで帰って来たらしいんですよ。」
「……」
「その時、何も変わった様子も無く仕事に戻ったみたいで……それが原因でいびられてるんじゃないかって思ってるんです。」
正直、イメージ通りではある。
だが……聞きたくなかった事を、聞いてしまったような気がした。
「……そうか。」
ますますムルソーの人間味が薄れてしまった。
だが、結局の所それはグレゴールが測っているだけで実際の所は分からないのだ。
ムルソーはただでさえ常日頃から感情を出さない男だ。
もしかしたらムルソーなりに傷付いている事だってあるかもしれない。
「……」
だが、前向きに考えようとすればする程……
ムルソーの事を疑う気持ちが膨らんで行くのだった。
ある夜の事、グレゴールはムルソーが居るフロアを覗き込んで思わず目を丸くした。
ムルソーがたった1人、地べたに座り込んで長槌(恐らく自分に支給された物だろう)のメンテナンスをしていた。
(……あいつ、万能だな……)
そう思ってひとまず退勤ボタンを押してから戻ると、ムルソーはまだ槌の部分を弄っていた。
扉をそっと開いてムルソーに近付いてみると、ムルソーが眉を顰めているのに気付いた。
「どうかしたのか?」
「……先程使用した時どうにも手応えがおかしかったので分解したのですが異常が確認出来ずに居ます。」
「おかしかったってのはどんな感じに?」
「……普段よりも振動量が少ないような気がしました。」
「ふん……そうなるとここかバッテリーに故障がありそうだな。ちょっと貸してみろ。」
ムルソーは何だか不服そうな顔をしながら槌を手渡して来た。
「どれどれ〜……?」
グレゴールはその場に胡座をかいて、追加でムルソーにライトを借りて隅々まで観察した。
一度元通りに組み合わせ、試しに軽く地面を叩いてみると、確かに振動が弱く感じた。
「……これ、振動板は変えたのか?」
「はい。」
「んじゃ、別のとこだな……ぅ〜ん……ん?」
槌の内部に繋がっている錆びたチェーンを引っ張ってみると、歯車が回りづらくなっている事に気付いた。
歯車は振動によって生まれた電流で回り、その回転で更に発電する事で振動に還元される作りなのだが、確かにこれでは振動が少ない訳だ。
「……お前さん、ちゃんとチェーンに油挿してるのか?」
「はい。」
「じゃあなんか巻き込んでんのかな……」
そう思い、蓋を開けてみると……
「……」
ギトギトしていた。
「……なんで、こんな事になってるんだ……?」
「……」
「……お前……本当にまずい時になってから油挿すのは遅いって知らなかったのか……?しかも一回で大量に入れただろ。」
図星のようでムルソーは渋い顔をしながら黙りこくっていた。
「あ〜……とりあえず使えそうなパーツ抜き出すか……掃除してる時間が勿体無い。交換してもらうぞ。」
「……分かりました。」
何だかいやに不満げな顔のムルソーをじっと見てみる。
(……こいつ、こんな顔出来るんだな。)
思わず笑みを漏らすと、ムルソーが少しだけ目を見開いてグレゴールを見た。
「お前さん、そんな顔出来るんだったら早く見せろよ。」
「……貴方に見せる義理はありませんが。」
「……」
クソ生意気だな、こいつ……
「ハァ……表情筋使えって意味だよ。」
「……使う理由が見つかりません。」
「お前さ……ほんと機械じゃないんだから……」
眉を顰めた何とも言えないムルソーの顔を見てグレゴールはそれ以上は言わない事にした。
「……所で、お前さんこれから帰るのか?俺も帰るとこなんだけど。」
「……ええ、そうですが。」
「じゃ、一緒に帰ろうぜ。どうせ途中までは一緒なんだし。」
「………はい。」
2人で歩く夜道は恐ろしく静かで、足音を立てるのも憚られる程だった。
ムルソーはグレゴールに速度を合わせているのかそれとも眠気で早く歩けないのかゆったりとした速度で歩いていた。
「……貴方が……」
「ん?」
「……貴方が、私に構う理由は……何かあるんですか……?」
少しだけ掠れた声が、ダイレクトに耳に届いて、少しの間言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「……何だろうな。気になってるっちゃあ気にはなってるけど。」
「……私に構って、貴方に何の利益があるんです……?」
かの部分が掠れて聞こえなかったが、意味は理解出来た。
「そりゃあ……」
「……」
「……お前さんの人間らしい所を、見てみたいのかもしれないな。」
その言葉にムルソーは眉間の皺を増やした。
「……答えが定まっているのかと思ったのですが……」
「……言おうとして思ったんだよ。」
「……」
こちらを見るムルソーの瞳は揺れているように見えた。
「……そう、ですか。」
意外にも淡白な返事が返されてグレゴールは驚いた。
何かしら聞き返されると思ったのだが……
「……私に、そんな物を期待しているのなら……お好きに、どうぞ……」
そう言ってムルソーは目を閉じてぐらりと体勢を崩した。
「うわっ……!おい、ここで目ぇ閉じるな!起きろ!」
慌てて肩を掴んで支えると、ハッとムルソーが目を覚ました。
「あっぶないな……ほら、肩貸すから頑張れ。あとどのぐらいで着くんだ?」
「……この道を……曲がった所の、アパートです……」
ムルソーを頑張って支えてアパートに着き、ドアの前で不安になりつつも別れた。
次の日、オフィスを覗き込むと朝風呂でも入ったのか少しさっぱりしたムルソーが相も変わらず仕事をしていた。
(一日ぐらい休んでも良さそうなもんなのにな……)
だが口を出した所で突っぱねられると思ったので何もしない事にした。
それから数日経った頃、グレゴールは外勤でムルソーと一緒に動く事になった。
「……一人の方が動きやすいのですが。」
「お前な……自分の背後自分で守れると思ってるのか?たまには人に背中預けろよ。」
「……」
槌を握る手に僅かに力が入ったように見えた。
「はぁ……まあ、距離は取るけど見えない所に行ったりはしないからな。」
「……」
ムルソーの表情は険しかった。
こちらに向けられていないだけマシだったが、何が不満でそんな顔をしているのか理解し難かった。
「さあ、行くぞ。」
* * *
ムルソーの戦いぶりは目覚ましい物だった。
振り上げた槌を素早く振り下ろし、振り下ろした体勢のまま槌の向きを変えて横に振りかぶり、3人程吹っ飛ばす。
近付いて来る相手には槌の先でみぞおちを突き、よろめいた所を逃さず頭を殴って倒す。
こんな風に隙の無い動きをしていた。
正直、ここまで動けるのは意外だった。
パソコンに向き合っている姿や帰り道で歩きながら寝かけている姿しか見て来なかったので余計にそう思ったのかもしれない。
とは言えムルソーばかり見ている訳にも行かず、ムルソーとグレゴールに近付いて来る敵を斬り倒していた。
「ふぅ〜……これで最後か?」
「逃げた者さえ含めなければ最後ですね。」
「そっか。お疲れさん。」
「……終わったつもりですか?」
「え?」
ムルソーは眉間に皺を寄せてこちらを睨むように見て来た。
「……どんな理由で逃げて行ったのか確認する必要があります。もし復讐の為の手段が目的であったのなら追って殺すべきです。」
「……まあ……確かにそうかもしれないけど……」
ムルソーは槌を握り締めて歩き出した。
先程よりもピリピリとした雰囲気のムルソーについて行き、歩き回ったが目標は見つからなかった。
「……なあ。確かにその方が安全かもしれないけど……今日はもう切り上げようぜ。無駄な体力消耗したくないだろ?」
「……」
「……お前はあんだけ動いたんだからちょっと休んだ方が良いよ。」
ムルソーは納得の行かなそうな顔をしながらも渋々と言ったように頷いた。
「……もしかしてさ……」
前を歩くムルソーがこちらを振り向いた。
「昔、お前が背負って帰って来たって言う同僚……」
ムルソーが歩みを止めて、グレゴールが見上げた時には俯いていた。
「……ごめん。やっぱ何でもない。」
「……、」
グレゴールが歩き出そうとすると、ムルソーは足早に歩き始めた。
苛立っているように見えたから、グレゴールは何も言わずについて行った。
帰って早々パソコンに向き合い始めたムルソーを置いて、グレゴールは退勤した。
知りたかったムルソーの真相に触れられたのは良かったが……やはり、あまり良い気分ではなかった。
グレゴールがカップ麺を食べながらパソコンで作業をしていると、視界の端に紙コップに入ったコーヒーが置かれた。
「おぉ、ありが……」
いつもの同僚だと思って視線を上げたグレゴールはそのまま固まった。
「……何か?」
「え……あ〜、いや……わざわざありがと……」
ムルソーは眉間に皺を寄せたまま去ってしまった。
「……」
コーヒーを一口啜ってみる。
いつもの同僚が淹れてくれるコーヒーとは違って、少し甘かった。
(……あいつはコーヒー飲む時砂糖入れるのか。)
正直グレゴールの好みは無糖の苦いコーヒーだったがこれはこれで悪くないので当たり前だが全部飲む事にした。
そして……ムルソーが好みそうな味も念の為覚えておく事にした。
* * *
「ほい。」
「……」
あれから数日後、恐らくムルソーは忘れたであろう頃にコーヒーの差し入れをした。
ムルソーは戸惑っているのか何度もコーヒーとグレゴールを見て「どうも」とだけ答えてモニターに目線を戻してしまった。
だが、それだけで良かった。
いつもと違うムルソーの仕草を見れて満足感に浸れたのだから。
ある日、ムルソーに仕事を回しに行くとムルソーから微かに香水の匂いがした。
「……?お前さん、香水とか付けるのか?」
「……気が向いたので。」
「へえ〜……意外だな、なんか。」
「……」
ムルソーはジトリとした顔でこちらを見て、またモニターに向き直った。
「貴方の中の私であればそうなのでしょうが、私は貴方の思っている物とは違います。」
「あ〜〜分かったって。もうイメージ押し付けたりしないからさ……」
「……」
ムルソーが何かを言いたそうにこちらを見た。
「……何だよ?」
「……私の周りで騒ぎ立てない貴方は好きです。」
「………は?」
グレゴールはオフィス内を見回した。
皆、目を逸らした。
「……あのな……普通人に仕事押し付けた立場の奴が周りで騒ぐ権利は無いんだよ。せめて邪魔せずにそっとするのが普通なんだ。そこを基準にするなよ……」
「……どちらにせよ、限られた人しか居ませんので貴方は特別です。」
「……」
グレゴールは目を逸らした奴らをジロリと睨みつけた。
「はぁ……まあ良いや。急がなくても良いからとりあえずよろしく。」
「分かりました。3日後にお渡しします。」
グレゴールは誰がやったのかキーボードの傍に積まれたエナジードリンクの空き缶のタワーを見てそっと手を伸ばした。
「あっ……!グレゴールさん、それ僕がやります……!」
この間ムルソーの現状を説明した若い奴が慌てて缶を片付けにかかった。
「……なんで今になってやるんだよ……」
グレゴールは呆れて溜め息を吐きながらオフィスを出た。
「グレゴール。」
ムルソーに名前で呼ばれるようになったのは出会ってから一年経った頃だった。
いつの間にか口調も変えてたしムルソーからすればそれが許される距離感に至ったのかもしれない。
「ん?お前さんも外勤か?」
「ああ。貴方と同じ場所だ。」
「そっか。お互い気を付けような。」
ムルソーはどこか遠い所を見つめているような目で頷いた。
* * *
現場を確認しての話し合いによってグレゴールが外、ムルソーが中を叩く事になった。
「お前さん……中でそれ振り回すのは厳しくないか?」
「屋内での立ち回り方は心得ているつもりだ。問題は無い。」
「……なら良いんだけど……」
やけに自信満々なムルソーに若干の不安も覚えながら敵を切り刻んでいる時、ムルソーの溢れる自信の根拠を知る事になった。
「ぅわぁぁああああーーっ!!」
「え?」
相手も上を見上げて呆然としていたのでそちらをチラリと見ると、建物の窓が開いておりそこから人が落ちて来た。
とりあえずその場の全員を切り刻んでからもう一度見てみるとやはり落ちて来る人が居た。
自分から落ちた訳ではなさそうなのを見てグレゴールはムルソーの自信の根拠を知った。
(いや……確かにこうすれば動けなくはなるだろうけど……あいつマジか……)
恐らくよろめいた敵を次々と窓から外に放り込んでいるのだろう。
その作業自体隙が生まれそうな物だが恐らくあの階の敵は全て片付いたのだろう。
グレゴールが落ちて来る敵と周囲に警戒していると……
「グレゴール!」
「え?」
聞いた事の無いような声で、ムルソーがグレゴールの名前を呼んだ。
その声に上を向くと、ムルソーがこちらに降って来ていた。
「………はぁッ!?」
足場になる物を探す暇は無かった。
鋸の先端を壁に固定して、そこにムルソーが着地して右腕が痺れる中、鋸から滑り落ちたムルソーを左腕で抱き抱えた。
「ぅ、ぐ……っ、くそ……何考えてんだよ……、」
右上半身の痺れに耐えかねてその場に崩れ落ちると、ムルソーは一緒にしゃがみ込んでグレゴールの顔を覗き込んで来た。
「貴方なら受け止めてくれるような気がしたから。」
「何だよそれ……どっからそんな根拠の無い自信来るんだよ……怖えよ……」
「……実際貴方はそうしてくれた。」
「今回だけはな!っう……くそ……」
右肩を押さえていると、ムルソーはまじまじとグレゴールを見つめて来た。
「はぁ……お前さんのせいで壊れるとこだったよ。いや……中がイカれたかもしれないから帰ったら点検しないと……はぁ……」
グレゴールがぶつぶつと言いながら鋸の状態を確かめていると。
「グレゴール。」
「あ?何だよ。」
「……」
人を呼んだくせにいざ答えてそちらを見ても何も言わない。
「……何だよ。」
少しだけ苛立って眉間に皺を寄せると……
「……貴方の表情が好きだ。」
「……はあ?」
「貴方の目が好きだ。貴方の声が好きだ。貴方の手が好きだ。」
「は、いや何だよ急に?」
ムルソーはグレゴールの左手に両手を添えて、手袋を外した。
そしてその手を自分の頬に擦り寄せ、首に滑らせた後……あろう事か、自分の胸に押し付けた。
「………は?」
色々と、納得がいかなかった。
まず、場所がおかしいしそもそもなんで自分なのかも全く分からないし、こいつの胸がなんでこんなに弾力があるのかもほんっっとに分からないしこいつ自身なんか感じてるような顔してるのがなんか……なんかヤバいって思った。
あれこれ考えている内にムルソーの乳首が勃ってきてムルソーが俺の手を動かして擦らせているから余計に存在を主張してきてて……
「っ……やめろって!」
その手を振り払うと、ムルソーは伏せていた目を見開いてこちらを見て来た。
その目が、酷く寂しそうに見えたのは多分気のせいではないのだろう。
「お前な……!勝手に人の手使って興奮するなよ!!俺一回でも『やって良いよ』って言ったか⁉︎言ってないだろそんな事ひとっことも!!」
「……」
「そうやってしゅんとした顔してたら許されるって思うなよ⁉︎女が男襲ったって強姦は成立するんだからな!お前がどっちなのかは知らないけど俺はお前にそんな気を起こした事は一度も無いんだよ!!そう言うの求めてるんだったら他の奴当たれ!」
「……貴方ではないと、意味が無い。」
「知らねえよ!!よそ行け!!」
グレゴールはそう吐き捨てるように叫ぶと立ち上がってさっさと歩いて道を曲がった。
(クソ……)
こんなにも心が乱れている理由はムルソーに対しての怒りだけではない事をグレゴールは分かっていた。
あの、ムルソーの寂しそうな眉と、蕩けた目と、グレゴールの手を包む手袋越しの温かさに不覚にも胸を射抜かれたからだ。
(いや、違う……絶対違う、ビックリして心臓が縮み上がっただけだ、そのせいで血流がどうこうなって暑くなっただけだ、そもそもあいつは同じ職場に居るんだぞ……?そんな奴にあんな事されたら誰だって記憶に残るに決まってる……そう、そうだ、全部ショックだっただけだ……)
必死に後ろに居るムルソーに言い訳をするが、全て意味が無い事はグレゴール自身分かっていた。
(……もしかしたら、)
ずっと、触れられるのを待っていたのかもしれない。
そんな事を考えて、足を止めた。
(……違う。これはただの同情だ。あいつにとっても俺にとっても良くない……)
もし同情で付き合ってやったとしてもムルソーはきっとそれをすぐに見抜くだろう。
(……)
今まで見て来たムルソーの表情が頭を過った。
確かにあの目に宿っていたのは恋だった。
ずっと前から、ムルソーはグレゴールの事を……熱を持った視線で見つめて来ていたのだ。
(……俺だって、ムルソーの顔見て楽しんでたのに。)
あいつの気持ちには、応えてやらないのか?
グレゴールは後ろを振り返って、ムルソーを見た。
「……え……?」
ムルソーが、居ない。
慌てて周りを見回すがどこにも居なかった。
……嫌な予感がした。
さっき居た路地に走って戻り、覗き込むとムルソーはそこに居た。
だが……ムルソーは壁を背にへたり込んでいて、それを囲んでいる3人の男が居た。
(……あいつら……まさかこの前逃した……)
すぐさま鋸にエンジンを掛けようとするが、先程ムルソーを受け止めた時に打撃を受けたのか動かなかった。
(クソ……)
助けるのなら一気に片を付けなければならない。
グレゴールは息を潜めて様子を窺った。
よく見ると囲んでいる男の一人はムルソーの槌を持っていた。
鋸の方が殺傷能力が高いとは言え槌で頭を殴られれば脳震盪の恐れがある。
隙を見せればすぐさま頭を潰されるだろう。
不意に、ムルソーが口を開いた。
「武器は……使っても良いが、壊さないでほしい……弁償してやる事は出来ない……」
(な……)
ムルソーの表情には諦めの色が浮かんでいた。
あの様子だ、グレゴールが見ていない間に一発喰らったのだろう。
「……どうする?壊してやるか?」
「いや……壊した所で反応薄そうだし放置で良いだろ。」
そう言って男はニィッと口角を上げてムルソーの脚の間に靴の先を挟んだ。
「こっちの方が良い反応するだろ。」
周りの男達が下品に笑い、グレゴールは覚悟を決めて鋸を構えて突進した。
「……貴方達に反応出来るかどうかは分からないが。」
「〜〜〜ッ!!お前なぁ!!」
グレゴールの鋸の先端が男の脇腹に突き刺さった。
「こんな時にクソ真面目に答えてんじゃねえよ!馬鹿かお前は⁉︎」
その時。
鋸のエンジンが掛かり、チェーンが回り始めた。
男の断末魔が響き、グレゴールは周りの男にも鋸を振るった。
「あとなぁ!!それどころじゃなかったとしても声上げろよ!!気付かずに帰るとこだっただろ!!」
「……」
分かっていた。
きっと、グレゴールに拒絶された事が余程のショックだったのだと。
「……助けない訳無いだろ……、」
チェーンの回転が収まった所で、ムルソーの前にしゃがみ込んだ。
「……グレゴール……」
その頬に手を添えて、そっと口付ける。
唇をそっと離すと、グレゴールの頬に返り血が付いていたようで、ムルソーの口元にも血が付いてしまっていた。
「あ……くそ……」
グレゴールは悪態をつきながら頬の血を拭い、ムルソーの口元の血も拭ってやった。
まるで赤ん坊の汚れた口を拭っているような感覚だった。
ムルソーは戸惑っているようで小刻みに視線を泳がせながらグレゴールを見上げていた。
「……ごめん。さっきは言い過ぎた。最初に構ったの、俺なのに……」
「……」
「……まだ、俺の事好きか……?」
「……ああ。むしろ……惚れ直した。」
「そっか。良かったよ。俺も……責任取れそうだから。」
ムルソーがおずおずとグレゴールのうなじに両手を添えて来たのでまたキスをした。
今度は舌を絡めて。
唇を離すとムルソーがこれ以上無いくらいに蕩けた顔をしていた。
「……グレゴール……」
「何だよ。」
自分でやった事だが何だか恥ずかしくてギリギリ目が合わない位置で視線を留めた。
「……私の家に、来ないか?」
「人を野良猫みたいに家に誘うんじゃないよ。」
「違う。ただ貴方とセックスしたいだけだ。」
「………」
「……貴方とセッ」
「聞こえてるわ!!ド直球に言いやがって……」
「そうしないと伝わらない。」
ムルソーは期待を込めた眼差し……と言うかもう逃がす気の無い目でこちらを見ていた。
(……責任取れと。そう言いたそうだな……)
グレゴールは深い溜め息を吐いて腹を括った。
「……分かったよ。ただやり方知らないからだいぶ焦らす事になるぞ。」
「それでも良い。ある程度は仕方の無い過程だ。」
「……一応聞いておくけどお前さんが下で良いんだよな?」
ムルソーは頷いた。
(助かった……)
他の奴ならまだしもこいつに突っ込まれるのだけは避けたいとグレゴールはムルソーを見上げながら思った。
翌日。
グレゴールは書類とエナドリに囲まれているムルソーに近付き、そっとコーヒーを差し出した。
「ほい。お疲れさん。」
「溢す可能性があるので手元に置かないでほしい。」
ムルソーはコーヒーに目もくれずにそう言った。
「……えっと……じゃあどこに置けば……?」
「……貰っても飲めない可能性が高いので今度からは私の分は無くても構わない。」
「……ああそう……」
喫煙所にて。
(……いや……おかしくないか……?)
グレゴールは最近で一番不味く感じる喫煙タイムを味わっていた。
(仮にも昨日ドラマみたいな展開になってセックスまで行ったのに……え?そんなもんなのか?それともあいつだからなのか?)
ムルソーの冷たい態度は今日から始まった事ではない、昨日からだった。
事が終わるとムルソーは余韻の欠片も感じさせずさっさとシャワーを浴びて寝室に戻るなり『貴方もシャワーを浴びて寝ると良い。私は先に寝ている』と言って本当に寝るし、今朝気付いたらムルソーは先に起きてリビングで朝食を食べていて全く昨晩の雰囲気を感じられずに事務所まで来てしまったのだ。
昨日ならまだ『賢者タイムだろうな』で済ませられたものの今朝に突入してこの冷たい態度が続いているのは如何なものかと思ってしまう。
(……あいつが恥ずかしがってあんな態度取るとは思えないし……もしかしてモタモタし過ぎたから怒ってんのかな……?でもそれでも良いってお前が言ったんだろ……?)
グレゴールが苦い顔をしてムルソーに渡す筈だったコーヒーも飲んでいると、いつもグレゴールにコーヒーを淹れてくれる同僚がグレゴールの顔を見て笑って来た。
「いつになく苦い顔してますね、おじさん。」
「ん……色々あってなぁ。」
笑いながら適当に誤魔化すつもりで居ると、同僚が驚くべき事を言ってグレゴールは危うく咽せかけた。
「さっきムルソーさんにコーヒー断られてましたもんねえ。」
「ん"ッ……、……見てたのか……?」
まさか見られていたとは思っていなかったので本当に驚いた。
「ええ、まあ。多分おじさん上の階で笑い話にされてますよ。」
「ちっ……俺の話じゃなくてムルソーの嫌味だろ。どうせ……」
「……上の人達の事、嫌いなんですか?」
「まあ、な……人に仕事押し付けて楽して金貰ってるような奴らだろ。ちょっとは仕事すりゃあ良いのに……」
同僚はグレゴールをじっと見つめていた。
「……おじさん、なんかさっぱりしてません?昨日家帰ったんですか?」
「ん?まあ……うん。そうだけど。」
実際はムルソーの家に泊まったのだが、いくら優しい奴でもそんな事は言える訳が……
「ムルソーさんもなんかさっぱりしてましたよね。」
「……そ、そうだったか?」
そう、言える訳が無かったのだ。
それなのに……
「え〜、あんな近くまで行ったのに気付かないなんて事あります?」
「……」
……バレそうだ。
と言うか、確実に探りを入れて来ている。
「……はぁ……お前さんなぁ……そう言うの意地悪いぞ……?」
「あ、やっぱり何かあったんですね?」
「お前さんには負けるよ、ほんと……」
「何があったんです?聞かせてくださいよ〜。」
グレゴールは溜め息を吐いて全てを話した。
昨日の外勤の事、終わった時にムルソーの方から告白して来た事、その後危機に陥ったムルソーを助け、そこで良い雰囲気になってセックスまで行った事、その後何故かムルソーが冷たいと言う事を話すと、同僚は首を傾げていた。
「……なんか恥ずかしいんだよ、俺だけ気にしてんの。」
「……ムルソーさん、昨日が初めてなんですよね?」
「多分……」
「……じゃあ、おじさんとのエッチに問題があった訳じゃなくて、元々ムルソーさんがああ言うタイプなんじゃないですか?」
「……ほう?」
盲点だった。
「多分おじさんとムルソーさんの間には温度差があるんですよ。お互いどんな関係が良いかとか、そう言うの確認してみた方が良いんじゃないですか?」
「おお……お前さんはほんと頼りになるなぁ……」
グレゴールは半ば滲み出た涙を拭いながらしみじみと言った。
「なあ、ムルソー。お前……一応、俺の事ちゃんと好きなんだよな……?」
グレゴールがそう聞くと、ムルソーは微妙な顔をした。
「……私は貴方の事が好きではあるが……貴方が思っているような気持ちではないかもしれない。」
「……はあ……?」
「……私と貴方の間に認識の差異がある事は貴方も承知の上だと思っていたのだが。」
「ん……まあ……な。」
そうだ。ムルソーと付き合う以上多少の価値観の違いは避けられないのだ。
「……一応、お前の好きがどう言う好きなのか教えてくれないか?こうは思うけどこうは思わない、みたいな……」
「……貴方と恋人らしい事をしたいとは思うが、人生の伴侶にはしたくないと思っている。」
「……そう……」
人生の伴侶にはしたくないと言う言葉が、胸に突き刺さった。
グレゴールも、そこまで考えていた訳ではないが……やはり、面と向かってハッキリ言われると傷付くものである。
「……だが、貴方に特段不満を覚えている訳ではない。それは……理解してほしい。」
「……うん。分かってるよ。」
「……」
ムルソーは俯いて、何かを考えているようだった。
「……貴方は……」
「ん?」
「貴方は、私に対して要望は無いのか?」
「……特に無いな。まあ強いて言うなら……」
ムルソーが子供のような顔でグレゴールを見上げた。
「休む時間を増やそうか。俺も出来るだけ自分でやるからさ。」
「……」
「……まあ、出来たらだからな。」
「……」
ムルソーは次第に目を細めていって、グレゴールを見上げてこう言った。
「……一つ、話しておきたい事がある。」
「ん?」
「……私は貴方が死んでも気に留めない。だから貴方も、私が死んでも何とも思わないでほしい。」
「……」
グレゴールは……ムルソーの言葉が信じられなかった。
ムルソーは表に出さないだけで無意識の内に綻びが生じている人間だ。
だが……ムルソーなりに、色々と考えた結果なのかもしれないと思うと、何も言い返せなかった。
「……じゃあ死なないように頑張らないとな。」
「……」
人生の伴侶にしたくないと言った意味が、理解出来た。
だから、そう返した。
きっと気が楽になるだろうから。