愛と呼ぶにはなんとやら 放課後の化学準備室には、俺との雑談を主な目的として足を運ぶモノ好きな生徒が度々訪れる。
六月十二日、天気のご機嫌とりが難しいこの頃、今日も土砂降りの雨で空気が冷たい。親が迎えに来るまで暖まらせて、という生徒のためにストーブを焚きながら軽い雑談をしていた。
「それでねそれでね、ウエディングドレスって────────────なんだって」
「へぇ...」
「あは、じろ〜ちゃん興味無さすぎ」
今日はプロポーズの日だ、なんて浮かれていた生徒が結婚に関する雑学を得意げに話すのを聞いて、仕事片手に相槌をうつ。
「興味」
ないことはないけど、と呟く。本当だ。こういった自分に縁がない(と、少なくとも自認している)事柄に対しての知識は、小さくても知れる機会があるのなら知っておくべきだ、と思う。面白いし、人生において知らないことが減っていくのは、安心するから。
「結婚とか無縁すぎて」
と、ポツリ。せんせ〜は結婚する気ないのという問いかけに、恋人の姿が浮かんだ。言っちゃダメ、って信じて疑わなかった俺の我慢の甲斐も虚しく、力強い"好き"を正面からぶつけてきたあの人が。
問に答えようにもどう返そうか考えあぐねていると、コンコンコン...と、一定のリズムで扉が鳴った。
「失礼する、提出物のことで山下先生に用事が。」
*
「山下くん、君と結婚がしたい」
「なにを、」
言ってるんですか!? と狼狽える俺をはざまさんがじわじわと窓際に追い詰める。
生徒も帰ったことだしそろそろ俺も、と身支度を済ませ照明を消したタイミングで、本日2回目である規則正しい3回ノックが耳道を伝った。
先程よりも酷くなった土砂降りは雷をも呼んできて、鬱陶しい湿気で跳ねる髪と絶妙な寒さが気持ち悪い。
大雨による気温の低下のせいでもあったし、帰ろうとしてストーブを止めたから、でもあった。
恋人の口から出た触れたくない話題に、逃げたくなったせいでもある、のかもしれない。
「すまない。正確には結婚ではなくてパートナーとして、関係をより確かにしておきたい。君も知っての通り日本では...」
「いやです!」
薄暗く冷たい空気の中にピシャリ響いた声に、暗闇の中で開いたはざまさんの瞳孔が、一瞬大きく縮んだ。
空から眩しい光の柱が降る。数秒の時差を経て遠くで落ちた音が聞こえたけれど、それと同時の拒絶だった。
自分が思っていたよりはっきり、大きな声が出てしまった。オロオロと取り繕おうとするも、あ、え、と言葉になれなかった音だけがポロリと零れるだけだ。
呼吸をひとつ、大きく整えたこの人は、優しく冷静な声で俺を呼んでくれる。
「山下くん。君の意思は尊重する、嫌だ、の理由を聞いてもいいだろうか」
俺が何度、うかっかり間違えても、助け舟を出してくれるこの人は──やはり優しく落ち着いて、俺の手をそっと握る。
恋と呼ぶには遅すぎた感情も、同僚のままでいい。同僚以上は求めない。そう誓ったはずだった。
冷たい手に僅かに感じる温もりによって壊されたその誓いは、今度こそこれ以上形を変えてはいけないものだと俺は知ってる。
恋人のままでいい。恋人以上は求めない。
「おれ、は」
あんたが今、俺でいいって言うから。それに甘えてあんたを貰ってるだけで。将来、そう。俺が怖くて不安で考えるのが昔から苦手な将来、のこと。あんたが本当に好きな人を見つけるまでの、期限付きの関係だって割り切っておかないと。
今以上の関係への変化よりも、今の関係の安定の方が大切なのだ。それが、俺がはざまさんと、一緒にいられる時間が長くなる確率が上がる最適解だった。リスクになんて触れたくない。
いつか来る別れの時は、どちらの選択をしても必ず訪れるのだから、俺は俺が壊れないための保身に"変わらない"を選びたかった。
「このまま、がいい」
言えるわけがなかった。
パートナーになった後に失うよりも、恋人を失う方がまだましだ、なんて考え。
山下くん、そう呼ぶ声が固さを帯びるのは仕方の無いことだ。はぐらかしてしまいたい。変わることも失うことも怖い、だなんて臆病な理由で、はざまさんの真っ直ぐな気持ちからだって逃げ出してしまう俺は、最低だ。
「どうして」
「パートナーとか、俺にはちょっと重い、です。不安になる...」
「そうか...」
俺の意思を尊重する、の言葉通り引いてくれるつもりなのか、はたまたどう説得しようか思考を巡らせている最中なのか。綺麗な細い指で顎を支えているはざまさんに"妥協点"を提案してみようか、とふと思いつく。
本音を言えば上手く誤魔化すため、でもあったのだけれど。
「はざまさん、今日、恋人の日らしいですよ。あと、6月って天気悪くて結婚する人少ないから、結婚式場が儲からないんですって」
「...?そうか」
唐突な俺の予想外な発言、に首を傾げるはざまさん。そのままの勢いで言ってしまえ、と、少し早口で言葉を紡いだ。
「だから、ジューンブライドって騒ぎ立てて利益を得ようとするんですって。ね、はざまさん、今ここで...今日だけ、ですけど。結婚しましょう」
「は?」
吃驚した時の顔がひどく幼い恋人の手を引き、同時に、後ろでにあったカーテンを自身に引き寄せてふわりと頭にかける。
「っと、こうやって顔出したら...ベールだね、なんつって」
なはは、レースじゃなくて遮光カーテンなんで黒ですけど。化学準備室だし、ここ。そう言いかけた唇が塞がれて音が消えたことに気づいたのは、変温動物のように冷えきった身体に、はざまさんの温度が移ってきたからだった。
一体どこまで言えたのだろうか、それすら分からない程に。
ほんの数秒、触れるだけ、のキスだったのに。
「──喰われるかと思った」
体温を一気にあげた頬をはざまさんが優しく撫でる。
「...真っ赤だ。...山下くん、この命ある限り真心を尽くすことを、君に誓う」
「あ、」
キスと同時にすっかり頭からずり落ちたカーテンが、風もないのに、豪雨に晒された窓ガラスの振動によって少し震えた。
息が詰まって胸が苦しくて。それなのに身体が異様に熱い。さっき分けてもらったはざまさんの熱が、熱量保存の法則を無視して俺を喰ってるみたいだ。
ポロッと熱を取りこぼす。なんで、涙なんか。これじゃあ俺は...ほんとははざまさんのパートナーになりたい、って言ってるようなもんだ。
ふっ、と笑う柔らかなはざまさんの笑顔と、背後で鳴り響く雷雨の轟音とが全くむずびつかなくて不思議な気持ちになる。
それでもただ、綺麗な人だな、と思った。
「なぜ泣く」
重い雨音にかき消されるその声は、しかし俺の耳に柔らかく最後まで届く。
「明日も仕事だ。早く帰って休みなさい」
あっけに取られているくせに、身体が熱くて涙が止まらない。チグハグな感情に振り回されている俺の頭をくしゃりと撫でたはざまさんの熱が離れて、もっとをそっと飲み込む。
俺の方を向いた身体ごと、熱源がいっぽにほと俺から遠ざかる。
ついに後ろを向いたその姿が、ふと足を止めて俺を振り返った。
「ときに山下くん」
「...は、い」
「今日だけ結婚しよう、と言ったな?であれば、来年のこの日は結婚記念日だ。再来年も、その先もだ。誰にも渡さない。君の一生分のこの日を、私だけのものにする。その覚悟をしておきなさい」
ああ、ほんとにかっこいいなぁ、と思う。欲しかったものを、真っ直ぐに、簡単に与えてくれるあんたって、ほんとうにすごいよね。だから好きなんだ。
俺のため、じゃなくて、あくまで自分のためだというあんたが。
「...っ、す...です」
言葉は轟音と夜の闇に溶けて届かない。
遠ざかった背がもう一度だけこちらを振り返った。
「それと。君は絶対に、私以外には染まらないと。君の黒は私だけだと、解釈させてもらった」
半開きの、重い色を纏った扉の前に佇むはざまさんが、夜の闇に溶けながらもいっとう優しく微笑んで。黒なんて、あんたには似合わない、のに。
「それでは失礼する」
黒い廊下に吸い込まれて消えてく。
ちょっと待って、と思うのに、嗚咽に蝕まれた口から出せる恋人への言葉はもう無かった。
「はは...聞いてた...んだ...俺、否定しなかったから...誓ったことに、なっちゃった」
*
『それでねそれでね、ウエディングドレスって、白だと"貴方色に染まります"で、黒だと"あなた以外には絶対に染まりません"なんだって』