混ざって消えたフレグランス 赤葦が木兎との同棲を始めてから数年が経ち、騒がしい彼との生活にも慣れてきたある日、変化が訪れた。
最初はいつもよりハグを強請ってくるだけで微笑ましいものだったが、積極的に甘えてくると言うにはあまりに頻繁にハグを求め、今では赤葦の衣服をこっそり抱き締めている姿まで見かけた。そして、最近の彼は決まって、赤葦自身や衣服を抱き締める時、すぅ……と大きく息を吸い込み深呼吸をするのだ。
木兎から甘えられるのは悪い気はしない。むしろ彼に求められるのは嬉しく思うし、人生で一番の幸福だ。それでも、あまりに過剰に求められると、何か不安にさせているのではないかと心配になる。特に最近はただ甘えていると言うよりは何かを探しているようにも感じられ、恋人になったからには必ず彼を幸せにしようと決心していた赤葦は、何が原因か毎日頭を悩ませていた。
そして今日も、ソファで寛いでいたところで隣に座ってきた木兎からのハグを受け入れていると、彼はいつものように赤葦の肩に顔を埋めて大きく息を吸うが、すぐに顔を上げた。今までならもっと確かめるように深呼吸しながら腕に力を込めるところだが、今日はやけに早く開放された。
木兎は赤葦から離れるや否や、今にも泣き出しそうな顔で口を開く。
「赤葦、どうしよう……!俺、赤葦にだけ鼻が変になっちゃった……!」
「……もしかして、俺って臭いですか?」
「違う!最近赤葦の匂いがしなくなっちゃったの!」
ようやくここ数日の疑問が解決するのかと思いきや、またしても謎が増えた。
鼻が変になったとだけ言われたならば、嗅覚に問題がある可能性が考えられる。自分にだけ変な匂いを感じるならば、こちらの体臭に問題がある。しかし、彼曰くどちらも違うようで、赤葦の匂いだけが感じられなくなったと主張する。
赤葦はずびずびと鼻をすする木兎を宥めながら、必死に脳みそを回転させる。最近の彼がハグを求めるタイミングや、彼が抱えていた衣服の共通点を探っているうちに、一つの答えが浮かんだ。
「木兎さん、最近俺の服持ち出してますよね」
「も、持ち出してはない!ちゃんと畳んで戻してる!」
「木兎さんの畳み方は俺と違うのですぐに分かりますよ。あと、こっそり行動する時の木兎さんは分かりやす過ぎます」
「う……流石赤葦……」
バレーではそれなりにクレバーなプレーをする時もあるのだが、日常生活の木兎はかなり分かりやすい。バレたくない時は分かりやすく落ち着きがなくなり、視線が泳ぎ、こちらをチラチラと盗み見て気にするのだ。そして足音を殺して歩くことに集中し過ぎて、後ろから尾行されていることにも気が付かないので、服をこっそり抱き締めていることには早い段階で気付いていた。
「俺の服を出す時、いつも手前の服を選んでますよね」
「うん、そうだけど……」
「なるほど。大体分かりました」
ハグのタイミング。そして彼がいつも選んでいた服から、赤葦は結論を導き出した。
「木兎さんの鼻は正常です。だからこそ俺の匂いが分からないんですよ」
「どういうこと?」
「木兎さんはいつも俺の風呂上がりにハグしますよね?それから、木兎さんがいつも選ぶ俺の服は、全部洗濯が終わったばかりのものです」
漫画編集者である赤葦と、プロのスポーツ選手である木兎が二人でリラックスできる時間は限られていて、大抵は二人とも入浴を済ませた後だった。そして、彼が選ぶ服は衣装ケースの手前に入れてあるものばかり。服に無頓着で同じ服を着回す赤葦は、洗濯が終わってからまたすぐに着れるようにと、洗い終わったものを手前に入れていた。
「つまり、木兎さんが嗅いでいる俺の匂いは、ボディソープとか柔軟剤混じりのものなんですよ」
「それなら石鹸の匂いとかするはずじゃない?」
「そうです。でも、木兎さんも同じ石鹸使ってますよね?木兎さんは今の自分の匂いが分かりますか?」
「……はっ!」
赤葦の言葉を聞いた木兎は素直に自分の匂いを嗅ぐと、驚いて目を見開いた。
「俺も石鹸の匂いだ……!じゃあ、赤葦の匂いがしないのって……!」
「同じ匂いだから分からなかっただけですね」
「良かった〜!」
木兎は安堵して、再び赤葦に抱きついた。そして息を吸い込むと、嬉しそうに笑う。ただの深呼吸だと思っていたそれが、実は自分の匂いを嗅いでいるのだと知った赤葦は、少し恥ずかしく思いながらも笑って揺れる肩を抱いた。
「そもそも、どうして俺の匂いを嗅ぎたがるんですか?」
「んー……いい匂いってわけじゃないけど、落ち着くというか、赤葦だなって思うから……?」
木兎自身も赤葦の匂いを気に入っている理由が曖昧なようだが、それでもぼんやりと挙げられた理由に、自分の存在が彼の支えになっていることを実感し、赤葦はじんわりと温かいものが込み上げてくるのを感じた。体の底から温まるようなこの感覚が、木兎の体温によってさらに心地よい温もりへと変わる。
「それなら、俺の匂いが分からないのは嫌なんじゃ……」
「確かに……でも赤葦と同じ匂いなのもなんか嬉しいし………あ!そうだ!」
木兎は肩に預けていた頭を勢いよく上げると、これは名案だと言わんばかりの勢いで口を開く。
「赤葦、これからは洗う前の洗濯物くれない?」
「え、いや、それは流石に……一日着たのはちょっと……」
「駄目なの?一緒に暮らす前は風呂の前にハグもしてたよね?」
時々見せる鋭い発言を、こんなところで披露しないで欲しい。赤葦はそう思いながらもあっさりと頷いた。正直なところ、赤葦としても自分の匂いを気に入っている木兎が愛おしくて、できる限り何でも言うことを聞いてやりたいのだ。
「じゃあ、明日から俺が帰ってくるまで風呂禁止ね!」
「わかりました」
「あ、でも俺だけ赤葦の匂い嗅げるのはズルいし、俺のユニフォームと交換にする?」
「え……!?」
「よし、そうしよう!じゃあ赤葦、おやすみ!」
最後の最後にとんでもない約束を取り付けられたような気がするが、一頻り赤葦を抱き締めて満足した木兎は明日も早いからと寝室に消えてしまい、反論の余地など与えられないまま一人残された。
赤葦はあの愛してやまないスターのユニフォームを手にしてしまう明日が恐ろしく、その日は一睡もできないまま夜が開けるのだった。