眠る少女の髪をそろりと、ガラス細工に触れるような繊細さで梳く「手」があった。
「熱心ですね」
少女の眠りが深いものであることは知っている。それでも彼女を起こさぬように、ひそめた声で語り掛ければ──ほんの一瞬、その「手」はぴくりと動きを止めた。
「……何の用だ」
もはや何度も聞いた声。少女のそれとは明らかに違う。私の前にぼんやりと現れた、黒紫のもやがじろり、とその「目」を細め。
「言っておくが、ボクからコクリコちゃんを奪おうだとか──」
「いえ。危害を加えるつもりも、あなた方の邪魔をするつもりもありませんよ。
……『あなたの』コクリコット様は、今日も変わらず美しいですね」
早朝の共同洗面所。少女のやわらかな髪をそうっと濡らし、整える姿に微笑みかければ──強調した言葉と純粋な賛辞に、彼はほんの少しだけ表情をゆるめた。
「当然だ。コクリコちゃんはこの世界の誰よりも何よりも美しい。
……それで、オマエはそんな当たり前のことを言いにきたのか?」
「いえ、少しあなたと話がしたかったのです。
この後しばし、お時間をいただけませんか?」
「……ボクに、話だと?」
言いながらも、少女の髪にリボンを結ぶ「手」は止まることなく動いている。無理にとは言いませんよ、と微笑みを返してから、私はそっとその様子を見つめた。
「……どうしてオマエは、そんな目でボクらを見る」
「下心の類はありませんが」
「分かっている、だからそう訊いているんだ」
「……懐かしいな、と思いまして」
そうして浮かべたいつもの笑みは、果たして彼の目へとどのように映ったのだろうか。ほんの少しの沈黙の後、いいだろう、と嫌そうな声が続いた。
「ただし、コクリコちゃんが起きるまでだ。そう長い時間は許さないぞ」
「ええ、それで結構です。ありがとうございます」
「……フン。嫌なやつだな、お前は」
「自覚していますよ」
言って壁の時計へと目をやる。いつもは朝の7時ごろ起きてくる彼女のことだ、彼と話せるのはせいぜい30分ほどだろう。
「それでは談話室にでも、行きましょうか」
命令するな、と私を威嚇する声に、申し訳ありません、とだけ言葉を返した。
「アダム=ユーリエフ。オマエは本当に、何を考えているか分からない」
「よく言われますよ。勘のいい方には、同時に不気味だとも」
「ボクには分からないな、素の自分をさらけ出すことが怖いのか?」
「おや、それはあなたも同じでは?」
「嫌味なやつは嫌いだ」
薄いカーテンの向こうから、静かに差し込む朝日の中で、眠る少女の頬に彼の「手」が触れる。
「……ボクは、コクリコちゃんの親ではないが……コクリコちゃんの家族を奪ったのは、間違いなくボクだ」
「そう聞いております」
「だが決して、ボクは悪事を働いたわけじゃない。コクリコちゃんに害なすものを排除しただけで、ボクは決して──」
「ええ、あなたは悪ではないでしょう」
のろり、と。
そのとき初めて「彼」がこちらを向いた。
「どうして、そう言える?」
「想いの形は違いこそすれ……大切な女性のために、数えきれない人間を手にかけたのは私も同じですから」
「……虐待、だったんだ」
長く長く、重いため息に混じる声だった。
「コクリコちゃんに悲しい思いをさせるわけにはいかない。だからボクは、コクリコちゃんから虐待の……家族から受けていた仕打ちの記憶すら奪った」
「ええ」
「今のコクリコちゃんが追いかけているのは、幸せだった頃の家族との思い出だ。理由はどうあれボクが彼女の家族を奪ったのは事実で、結果はどうあれ彼女たちの『結末』を奪ったのもまた、ボクだ」
「そうなのでしょうね」
決して実体を持たぬ彼が、しかし今だけはうなだれているように見えた。重い声がどこかうつろに続く。
「ボクが彼女の前に姿を現せないのは、その後ろめたさからだ……などと言ったら、オマエは笑うか、アダム=ユーリエフ」
「……かつて、銀髪の王が治めていた国の話をしましょうか」
もう一度、彼の目がこちらを向く。
「決して豊かとはいえない国でした。ろくに作物も育たない極寒の世界で、とある代に生まれた王子ふたりすら、養えぬまま捨てられたと聞きます」
「な──」
「そうして時は流れ、命を落とした国王に代わり女王陛下が国を治め始めてしばし。スラムの端でうずくまっていた、銀髪の少年がふたり保護されたそうです」
「おい、それはまさか」
「……その頃にはなんとか、国が国として在ることができるほどの──とはいえ必要最低限ではありますが──ともあれ多少の豊かさは戻っていたそうです。故に拾われた少年ふたりは、王宮でそれまでとは違う生活を始めました。
そうして少年たちが兄弟であると判明し、兄は騎士を志すようになりました。元より才があったのか、それとも拾われた恩に報いたいからか……めきめきと頭角を現した兄は、その功績を称えられ、女王陛下から直々に青いリボンを与えられました」
彼は何も言わなかった。ただ私の話に耳を傾けながら、少女の髪を結ぶリボンにそっと触れる。
「……兄は分かっていたのです。このお方が自らの母であると。けれどそれを証明する術はなく、口にしてしまえば不敬罪で首が飛ぶであろうことも。
だからこそ、武勲を挙げるたびに与えられるリボンを、兄はとても大切にしています。
……親が子のリボンを結ぶように、それが彼女のできる唯一の愛情表現であると、私は知っていましたから」
長い沈黙が、落ちた。
「ですから、悪魔様。私はあなたを笑いはしません」
「母と呼ぶこともできなかったから、か」
「ええ、ですからユーリエフと名乗ることも……本当は」
「『アダム』」
「……はい」
「ボクはオマエが嫌いだ」
「存じております」
「だが……それはもしかしたら、同族嫌悪なのかもしれないな……」
「……むにゃ……」
「おっと」
けれどそこで、少女がゆるゆると目を開けると同時に──彼は空へとかき消える。
「おはようございます、コクリコット様」
「むう、コクリコってよんでっていってるのに」
「……それは、あなたのことを大切に思っている方に怒られてしまいますから」
言えば彼女はこてん、と愛らしく首をかしげた。黒いリボンが重力に従う。
「それって、コクリコのかぞくのこと?」
「……そうかもしれませんね」
「ふふ、コクリコしってるんだよ。このかみはおかあさんがゆってくれるの。だからね、アダムおにいちゃんのリボンをみるたび……アダムおにいちゃんも、コクリコみたいにだいじにされてるんだなっておもうよ」
──目を、見開く。
「私、の?」
「うん。アダムおにいちゃんのふくとか、まえにみせてくれたけんとかにあるリボン、アダムおにいちゃんがむすんだんじゃないんだろうなっておもってたけど……ちがう?」
言われて私は言葉に詰まる。この世界にいる者のほとんどが既に死した者である以上、私の姿はデータ体であり──私がリボンを結ぶまでもなく、私はこの姿で目を覚ますのだ。
「……ばれてしまいましたか。そうですね、このリボンは私のお母さまが結んでくれたものです」
「そっかあ、やっぱり。
コクリコわかるもん。おかあさんもコクリコのことかわいいかわいいって、コクリコがとってもかわいくみえるように、ってむすんでくれたから。
アダムおにいちゃんのリボンも、きっとおかあさんがむすんでくれたんだろうなって」
そうして幼い手が伸びる。でもね、とほんの少しだけよれていたリボンを正して、彼女は花が咲くように笑った。
「きっとアダムおにいちゃんのおかあさんはぶきっちょなんだね。ちょっとだけまがってたから、コクリコがなおしてあげたよ!」
……ああ、ああ。
かつて私にリボンと髪飾りを与えたとき、あの方の手は少し震えていた。抗いようもなくにじんだ涙を見られたくなくて、閉じた瞼の向こう側、邪気のない声が「どうしたの?」と問う。
「少し目にごみが入ってしまいまして。ありがとうございますコクリコット様、今日も1日頑張りましょうね」
乱暴に目元を擦り、浮かべた笑みはひしゃげていなかっただろうか。元気のいい声と共に頷き、コクリコット様は私の手を取る。
「それじゃあいこっか、あさごはんにしようよ!」