消えない痕を残したい 3 (アキデン転生オメガバパロ)吉田のところから速やかに連れ去られたデンジは、アキに噛み付くようなキスをされていた。
歯列をなぞり、口蓋を執拗にくすぐられて吐息が漏れる。舌で口内をかき混ぜられ、どちらのものかわからない唾液が口の端から伝った。
――なんで、こうなったんだっけか?
まあいいか……アキからこんなキスされたの、久しぶりだ。
もしかして、前世ぶりか?
すげぇ。アキ、興奮してる。
つか、勃ってる。
すげぇ。
アキ、ちゃんと俺に興奮すんだな……。
デンジは酸欠と喜びで涙を流しながら、これまでのことを思い返していた。
♦︎♢♦︎
デンジはチョロいので、アキを好きになったきっかけなんて至極単純だった。
テレビで見た、美味しそうなふわふわのホットケーキ。生クリームとイチゴがたくさん、のっていた。
あれを食べたいとパワーと騒いだら、翌日アキがわざわざ材料を買ってきて、作ってくれたのだ。
それは、嘘みたいに美味しいホットケーキだった。
だって何かワガママを言って、それを誰かが叶えてくれるなんて、デンジには初めてのことだったのだ。
「アキ、これ滅茶苦茶うめぇ!!」
デンジが叫ぶと、アキは静かに笑った。
深い海の水面みたいな目を、少しだけ柔らかに細めて。
その笑顔を見て、デンジは唐突に理解したのだ。
アキの、不器用だけど大きな優しさ。
溢れるほどデンジとパワーに注がれてきた、たくさんのそれに。
それまで数え切れないほど沢山のものをもらっていたことに気がついて――デンジは、無性に泣き出したくなった。
その瞬間もう、デンジはアキのことが好きになっていた。
惚れっぽいデンジではあるが、アキのことは特別好きだった。
だって、アキみたいな人は、他には誰もいなかったから。
デンジはあの瞬間からもうずっとずっと、アキのものになりたかった。
両思いになれたのは、奇跡みたいなことだったと思う。
一緒に眠ってキスするだけで、デンジの世界は幸せに満ち満ちた。
――でも、本当は。
もっと、触れてみたかった。
もっと、触れられてみたかった。
デンジは前世からもうずっと、アキに抱かれてみたかった。
アキの死は、今でもトラウマだ。
あの時あの瞬間――デンジはもう、心から誰かを好きになれなくなったことに気がついた。
デンジの中の特別な席は、アキが持っていってしまったのだと悟ったのだ。
アキに、抱いて欲しいと言ってみれば良かったなぁと、何度も思った。
だって、アキはいなくなってしまった。
もがいても触れられない場所に、行ってしまった。
アキはもう、二度と帰っては来なかった。
デンジはまた、毎晩凍えながら眠らなければいけなくなったのだ。
生まれ変わっても、デンジの人生は厳しかった。
父からの暴力。親戚からの罵倒。施設での迫害。
楽しいことなんて何にもなかったし、今回はポチタもいなかったから最悪だった。
幼い頃から前世の記憶があったが、それがかえってデンジの孤独を強めた。
――前世の知り合いなんて、どうせ誰も生きちゃいねー。俺ぁまたひとりになったんだなあ、と思っていた。
デンジは色々なことを、諦めて生きていた。
しかし、デンジはある日、アキを見つけたのだ。
それはまるで、今世のデンジの人生に突然差し込んだ、希望の光のようだった。
コンビニに並ぶ雑誌の表紙に、美しいアキがいた。それは間違いなく、デンジの大好きなアキだった。
9歳のデンジはその場でピシリと固まった後に、一気にぼろぼろと泣き出したが、その雑誌を買うお金すらも持っていなかった。
アキは、デンジの全く知らない世界で、あんなにキラキラと輝いていて――こんなうす汚い子供の自分なんかが、関わっちゃいけねぇな、と思った。いや、関わることすらできっこないと、デンジは泣きながらも諦めてしまった。
ただ、アキが生きていてくれれば良かった。アキが死んでしまったあの世界に比べたら、会えなくても今の方が100倍マシだと思っていた。
アキが、この世界のどこかで生きている。それだけが、デンジの希望の光になったのだ。
――きっとあんな、クソみたいな世界で生きた辛い記憶もねぇだろうな。なくていいじゃんと、そう思っていた。
だから――アキが迎えに来てくれた時は、信じられなかった。
帰る場所もなく道端で蹲っていたデンジを、あのアキが呼んだのだ。
本物のアキが。生きて、目の前に現れて。自分の名前を呼んだから。奇跡みたいなことが連続で起こりすぎて、心が追いつかなかった。
デンジは激しくしゃくり上げ、アキに縋り付いて、身も世もなく泣いた。
知っているよりも細いアキがデンジを抱き締めて、知っているよりも少し高い声で自分を呼んだ時、心臓を中心に指先までびりびりと痺れる感覚がした。
しかもアキはその声で、「愛してる」と言ってくれたのだ。
デンジはその時初めて、それまで自分がどんなに寂しくてたまらなかったのかを思い知ったのだ。デンジは自分で思っていたよりもずっと、アキを恋しがっていた。
アキが名前を呼んでくれた瞬間、デンジは、人生に足りなかったピースがカッチリとはまった感覚を覚えた。
ろくに面倒を見てもらえなかったデンジは、自分がオメガであることすら知らなかった。バース性検査なんて、ちゃんと受けられる環境ではなかったので。
アキはアルファだったし、自分がオメガなのには意味があったのかもしれないと、嬉しく思った。その時は随分、呑気に考えていたものだ。
しかし。
ヒートが来てからは、デンジの世界は変わった。
自分がオメガなのを、呪うようになった。アキに通院させられて抑制剤を飲んではいたが、運命の番であるアキのそばにいながら番ってもらえないのは、拷問のように辛い毎日だった。
アキから漂うフェロモンに当てられて、恥も外聞もなくアキに抱いて欲しいと迫った。何度も何度も、オメガ性に支配された。動物のように発情しては、アキに襲いかかった。自分が本当に嫌いになった。
そして――その度に冷静に対処するアキを見て、デンジは自分の身体の芯がどんどん冷えていくのを感じた。
アキに、拒絶されている。その事実が、デンジを追い詰めていったのだ。
アキのことをぼんやりと考えながら、その日もデンジは夕食を作っていた。
今日はオムライスだ。鶏肉は腱を切断するように切れ込みを入れてから、小さめに切る。チキンライスのケチャップは、よく煮詰めてから絡める。卵には少しの生クリーム。デンジはご飯をのせたあと、トントンとフライパン叩き、ひっくり返して器用に卵を巻いた。
デンジの家事スキルは、前世と比べてもかなり高いレベルになった。これらの丁寧な暮らし方は、全部、全部アキに仕込まれたことだ。
洗剤すり切り一杯も、コーヒー豆をミルでじっくり挽くのも。アキの普通が、デンジの普通になってしまった。デンジの身体と行動はもう、ほとんどがアキで構成されていた。
――なのに、足りない。一番大切な部分が、ずっと足りなかった。
デンジは無意識に、自分の頸を触った。
アキが買ってきたチョーカーで保護されている、そこ。
アキに噛んでほしくてたまらない、そこ。
ハッと気を取り直して、デンジはオムライス作りを再開した。
自分の分と、パワーの分。それから、一応――アキの分を作った。
"一応"なのは、もうアキはほとんど来なくなってしまったからだ。仕事が相当忙しいようだが、ここまで顔を出さないとなると、やはり不安になった。
もしかしたらいつか、自分たちはアキに捨てられてしまうのかもしれないと――時々そう思うようになった。
流しっぱなしのテレビでアキのCMが流れて、目が吸い付く。
事前にわかっているものは録画しているが、CMはなかなかうまく録れない。
デンジは少ないバイト代をやり繰りして、アキの出演している雑誌や映像作品、コラボ商品などを収集していた。照れるので、アキ本人には内緒にしている。売れすぎてマルチタレント化しているアキの活動は、多岐に渡る。最初はアキ恋しさで始めた収集だったが、デンジは今やすっかり、モデル"早川アキ"のファンになっていた。アキの仕事は、相変わらず細やかで完璧で、魅せられるのに時間はかからなかった。
テレビで流れているのは、女性用高級化粧品ラインのCMだ。黒い衣装を着た妖艶なアキが、誘うようにこちらに流し目を送る。すごい破壊力だ。向かい合う女優は彼の魅力に引き込まれるように、そうっとアキの腕に抱かれる。
デンジは口を小さく開けたまま、テレビ画面に釘付けになっていた。
――いーなぁ。女。
デンジは思った。
どうせならオメガなんて中途半端な性ではなく、女に生まれれば良かったのに。
女抱きてえとは、もはやデンジは思わなくなっていた。女のように抱かれたいとだけ、ずっと願っている。
――俺も女だったらなぁ。あんな風に、アキに抱いてもらえたかもしれねえのに。
食事の準備が整ったので、パワーを呼んだ。
二人でいただきますを唱えてから食べ始める。
アキはやっぱり、今日も来なかった。ラップに包まれたオムライスは、中にこもった蒸気で既に濡れてしまっている。
そもそも、アキはまだ自分を好きなのだろうか。
そもそも、アキは自分に欲情できるのだろうか。
デンジには、何もわからない。
アキは、デンジが18になるまで抱かないし、番にもしないと宣言していた。
――あいつ、責任感つえーからな。運命の番だから、見捨てずに囲ってんのか?それとも、前世での後悔があるからなのか?
デンジは冷めた目で、静かに考えていた。
疑問は尽きない。そもそも、今の自分はアキに愛される価値があるのだろうか。
デンジはもう、チェンソーマンになれない。デビルハンターでもない。ただ金のかかる、男のガキだ。バイトしたって、たかが知れている。
対してアキは、今をときめく芸能人。渋谷駅に行けば、大スクリーンに綺麗なアキが映っている。ただでさえ整っていた外見には磨きがかかり、アキからはいつも良い匂いがした。女子にもキャーキャー言われて、モテにモテている。抱かれたい男ランキングに入っているくらいだ。
デンジなんか選ばなくても、アキには相応しい人が沢山いた。デンジには、自分がアキの枷になっているとしか思えなかった。
今世は幼い頃からアキと二人、寄り添いながら生きてきた。家族とも恋人ともつかない距離に、ずっといた。
けれどアキは次第に、どんどん遠くなっていった。
アパートに来る頻度も減り、一緒に眠ることももうなくなった。頸を噛もうとする素振りなんて微塵もない。
アキは、パンケーキを作っても前世のことを思い出していなかった。時代が違うのでホットケーキがパンケーキになったけれども、デンジにとっては大切な思い出だったのだ。
そういうことが何度も何度も積み重なり、デンジはまた寂しくてたまらない人生に逆戻りしつつあった。
「デンジ!!あと2ヶ月で誕生日じゃなア!パーティーの料理が楽しみじゃ!」
パワーが元気よく言ったので、デンジは思考を切り替えて、へらりと笑ってみせた。
「お〜期待しとけよお!って、自分の誕生日に、自分でご馳走作んのかよ?俺ぇ〜」
「ワシは、デンジほど料理できんからな!!」
「威張んな」
「良かったのう。18になればアキと番になるんじゃろ?」
「…………さーな。どうなるか、わかんねー」
デンジは18歳になるのが、もう楽しみではなかった。昔はあんなに、心待ちにしていたのに。
むしろ、その日が来るのが怖いとすら思っていた。
――18になって、それでもアキに拒絶されたら、俺はどうすれば良い?
また、アキが死んだ後の世界で生きていた時みたいに、なるんだろうか。今世でも、デンジの特別な席をアキが持っていってしまうんだろうか。
誰も心から好きになれない、孤独な人生。投げやりになって、滅茶苦茶にモテてーと思って生きていくのだろうか。
「おお!?アキじゃ!!」
「えっ!!」
デンジは驚いてテレビの画面を見て――そして、固まった。
テレビの見出しにはデカデカと『早川アキ、ついに本気の熱愛発覚』と書いてあったからだ。
――ああほら、やっぱり。
思った通りじゃん……。
デンジは、自分が完全に投げやりになったのを感じていた。
♦︎♢♦︎
「それで、僕に白羽の矢が立ったってわけだね」
「シラハノヤ…?は、よくわかんねーけどぉ。お前がちょうど良いと思ったんだよ」
デンジはすぐに吉田ヒロフミに連絡を取って、歓楽街で落ち合っていた。
「なんで僕が適任だと思ったの?」
「お前、頼めば俺のこと抱いてくれそーだから。ストーカー野郎だしなあ」
「ふふ。僕って、そんな風に思われていたんだ?まあ、間違ってはいないけどね?」
吉田はスルリとデンジの手を取った。少し、ゾクリとする。
前世、デビルハンターとして出会った吉田ヒロフミ。秀麗でミステリアスな美貌を持ついけすかない野郎だが、何故か前世の時からデンジを気に入っており、今世でもやたらとちょっかいをかけてくる。
彼は、包み隠さずデンジへの好意を匂わせてきた。
「デンジ君の頸、噛んじゃいたいなぁ。あの人が怖いからやらないけど」と、直接的なことを、言ってきたこともあった。
デンジは試したかったのだ。
アキじゃない男に抱かれてみて、アキ以外でも大丈夫なんだと確かめたかった。
番になれなくても、家族としてでもいいから、アキのそばにいたい。そのためには、他の誰かと番えるのを確認するのが手っ取り早いと思った。
アキには、もう大丈夫だと言おう。自分ならきっと、笑って適当に誤魔化せる。
俺に気を遣わなくても、もう好きな人と一緒になって大丈夫だぜ、と言うのだ。俺も他に好きな人できそうだからさぁと、軽く伝えればいい。
今世でもアキしか好きになれなくなるのが、デンジはとにかく怖かった。
「楽しい状況だけど、当て馬になるのは御免なんだよね。欲しいものは全力で取りに行くのが僕の主義なんだ」
「ほーん。で?」
「デンジ君を……本当に、ぜんぶ僕のものにするよ?それでも良い?」
「俺はそのつもりで来たけど〜?」
「ハハハ、全然わかってないなぁ」
ここはラブホテルの前だ。もうすぐこいつに抱かれるんだと、デンジは他人事のように思った。
吉田の長い前髪が、目にかかる。手入れされた大きな手が頬にかけられて、綺麗な顔が近付いてくる。繋がれた手は解かれない。
デンジはアキの、ゆらめく青い目を思い出していた。
アキ。
アキ。
アキ――――俺、やっぱ、駄目だ……。
「デンジ!!!」
その時。
よく知っている声がした。デンジの大好きな、低い声だった。デンジを探し出して迎えに来てくれた時よりも、数段低くなったアキの声。
「お前、何してる……!!」
アキの青い目は、ギラギラと怒りに染まっていた。
腕を引かれて吉田から離される。そのままギリリと力を込められた。
アキはデンジを一瞥もせず、吉田を睨みつけていた。
痛え。
痛えよ……アキ。
怒りに支配されたアキがデンジを連れ去るまでは、まさにあっという間の出来事であった。
「あーあ。結局当て馬じゃないか」
吉田の残念そうな声がぽつんと響いたが、デンジにはもう聞こえていなかった。